第16話 断罪

 リアーヌがフェリクスと顔を合わせることになったのは、アデルと会った、さらにその翌日のことだった。アロイスからも弟に対して話があるからと、私的な空間に招くのではなく、大公の執務室に呼び出しているということだった。


「私がいてもよろしいのでしょうか……?」

「貴女のことも話すのですから、当然です」


 書類が山と積まれた机に近寄るのを躊躇ったリアーヌに、アロイスは不思議そうな顔をしながら頷いた。例の襲撃があった直後、リアーヌが目を留めた書類を裏に返したのを、忘れてしまったのだろうか。


(それとも、今はちゃんと片付けてあるのかしら)


 万が一彼女が盗み見ても、問題ないような書類だけを上の方に積んでいるとか、そういうことなのかもしれない。あらかじめ気遣いをしてくれているというなら、甘えてしまっても良いだろう。そう考えて、リアーヌはおとなしくアロイスが運ばせたらしい椅子にかけることにした。

 重厚なオーク材の机の、こちら側。長時間の執務に備えてだろう、ベルベット張りの居心地が良さそうな大公の椅子の、隣。アロイスが日ごろ使うであろう筆記具の類を、彼の目線で見ることができるのは何か嬉しく楽しいことだった。大抵の臣下や官吏や陳情者は机のあちら側に立つだけで、この視点を知る者はいないのだろうと思うとなおさら、妻として妃としての特別な場所に思えるのだ。


「お仕事をしているところを眺めていられたら幸せですわ。邪魔でなければ、なのですけれど」

「シェルファレーズに慣れられたら是非ともお手伝いしていただきたいものですね」

「本当に? 私が手を出してもよろしいのですか!?」


 できるだけ書類には目を向けないように、インク壺や文鎮の意匠に視線を集中させようとしたリアーヌに、アロイスはまたもあっさりと驚くようなことを告げる。ガルディーユと繋がっている彼女に国の機密を見せてはならないだろうと、諫めたくなるほどなのに。彼女の夫は、シェルファレーズの空を思わせる晴れやかな笑顔を見せてくれるのだ。


「私よりも貴女の方が統治には慣れていらっしゃるかもしれない。ずっと大きな国の中枢にいらっしゃったのだから」

「いいえ、私は勉強させていただくばかりで──でも、できることがあるなら、とても嬉しいですわ」


 自分の声が他人のものに思えてしまうほど、リアーヌは一瞬にして舞い上がっていた。だって、夫と支え合って国を治めるのも、彼女が憧れていたことだったから。あまりにも子供だったり、歳が離れていたり、そもそも会うことさえできなかったりして、今までの夫とはそこまで具体的な未来を思い描くことさえできなかったのだけど。焦がれ続けて、けれど諦めかけていた幸せが次々と目の前に現れるのは夢のようだった。


(夢……ではないの? 私は本当に目を覚ましているのかしら)


 ふわふわとした心持で、リアーヌはアロイスに手を伸ばす──けれど、夫の温もりによって現実を確かめることはできなかった。執務室の扉の外から侍従が呼びかけ、フェリクスの到着を告げたのだ。


 リアーヌが慌てて姿勢を正し、揃えた膝の上で手を重ねた。立ち上がって礼をしない無作法に、全身がざわざわとしてしまって落ち着かない。でも、身動きせず口も出してはならないと、アロイスからあらかじめ言いつけられているのだ。


「兄上──」


 アロイスが座す机の前によろよろと歩み出たフェリクスの顔は、白かった。兄に似ているだけに、そしてこれまでは自信に溢れた表情を見ているだけに、その変貌ぶりにリアーヌはどきりとしてしまう。アロイスは、手紙なりですでに何らかの処分を伝えていたのだろうか。彼女のせいで兄弟の関係にひびが入ることなど望まないのに、リアーヌはこの場では見守ることしかできなかった。かける言葉も見つからないし、アロイスが一瞬だけ彼女に向けた目は、黙っているように、と改めて念を押しているようだった。


「来たか。そのままで良いから聞け」


 フェリクスのために用意された椅子はないのは明らかだったから、彼は床に跪こうとしたようだった。それを制した兄大公の言葉は、けれど慈悲などではないと分かってしまう。いつもの彼には似つかわしくない鋭い声は、この場は叱責のためのものだと雄弁に語っている。そんな時に跪くことを許されないのはかえって辛いことだろう。部屋の中央に立たされたフェリクスはいかにも心細そうで、座ったままで迎えた兄に縋るような目を向けていた。


「兄上、私は──」

「まずは一族の中の話から始めよう。といっても改めて言うのもおかしなことなのだが」


 アロイスは、弟に口を開く隙さえ与えなかった。高圧的な切り出し方に、リアーヌは思わず震えてしまうし、フェリクスも目を見開いて舌を凍らせた。きっと、アロイスがこのように勘気を露わにするのはごく珍しいことなのだろう。


「シェルファレーズの大公妃はリアーヌ姫をおいてほかにいない。婚礼を挙げたからには民にも臣下にも明らかではあるだろうが。万が一にも疑義を挟む者がいないよう、流言に惑わされる者がいないように、大公の一族としてお前も言動には十分注意するように」

「……はい」


 リアーヌを疑うのはいわれのない流言ではのかどうか、彼女自身にもまだ全幅の確信はない。今回はたまたま毒ではなかっただけで、父は何か企んでいるのではないかと思ってしまって。リアーヌをちらりと見てから頷いたフェリクスも、きっと同じ思いだろう。それでも、アロイスの言葉の強さは、フェリクスからの諫言は受け付けないと告げていた。


(フェリクス様は、アデル様こそ公妃に相応しいと思われているのではないのかしら……)


 アロイスに求められて、アデルに認めてもらえただけでも望外の幸せだったのだ。この上フェリクスにまでも諸手を挙げて賛成して欲しいだなんて過ぎた我が儘と言うべきだろう。でも、彼の疑いが事実であった場合を思うとリアーヌは完全に平静ではいられない。膝の上で手を組み直したのが視界の端に映ってしまったのだろうか、次の言葉を発する前に、アロイスは励ますように小さく頷いてくれたけれど。

 そして、アロイスが再びフェリクスに目を向けた時、リアーヌが一瞬感じた優しさはもう拭い去られていた。


「次に、公人としてお前に言わねばならぬことがある」

「……はい。何なりと」


 本題に入るのを察したのだろう、フェリクスは硬い表情で兄を見返し、リアーヌも居住まいを正した。フェリクスの表情からして、覚悟はできていると、いうことのようだったけれど──


「公妃に虚言を吹き込み、アデル・トルイユ嬢の名誉を傷つけた。挙句に、公妃の命が危険にさらされる事態を招いた。シェルファレーズに害を及ぼしかねない振る舞いは、処罰しない訳にはいかない」

「お待ちください。私は嘘を述べてはおりませんし、むしろアデルの立場を守ろうと思ってのことです!」


 アロイスの糾弾は、リアーヌが、そして恐らくはフェリクスが予想していたものよりも重く、広範な罪を問うものだった。大逆とさえ呼べる咎を突き付けられて、フェリクスの頬に朱が上る。


「兄上──大公殿下が公妃殿下のためにお怒りなのは承知しておりますし、誤解をなさったことについてはお詫び申し上げようと思って参りました。ご無事でいらっしゃったのを、喜んでもいます! 本当に! 私は、シェルファレーズのために──」

「リアーヌ姫が無事で、安堵している、の間違いではないのか」


 フェリクスが足を進めて机に掌を叩きつけても、アロイスは顔色を変えなかった。迫る長身のフェリクスと乱暴な物音に、リアーヌが身体を竦ませるのと裏腹に。


「それは──」

「誤解を招く恐れが見えなかったなら愚かだし、見えていたなら悪意があってのことだろう。他国から嫁いできたばかりの姫に、我が国や我が国の令嬢に隔意を抱かせて何の利がある? 私は姫がそのような方ではないのを知っているが、疑っていたならなおさら、ガルディーユとの間に不和をもたらすことまで考えなかったのか?」

「ですが……兄上だって……!」


 兄弟の間の、剣を交えるようなやり取りを、リアーヌは口元を手で覆いながら見守った。彼女は気にしていないし、祖国に訴えるようなこともしないと、言ってしまいそうになるからだ。これはシェルファレーズの問題であって、彼女は口出しを許される立場ではない。当事者であるからこそ、リアーヌが減刑を嘆願したりしては、大公としてのアロイスの権威に疑義を挟むことにもなってしまうのだろうから。


「確かに私も愚かだった。自らにも非があることを知りながら、臣下に罰を与えなければならないとは胸を裂かれる思いだ。しかし、罪を罪のままにしておくこともできない」

「どのような罰になるのでしょうか」


 リアーヌが見つめるアロイスの横顔は、苦渋に満ちていた。彼女としては、夫にそんな顔をさせてしまうことこそ申し訳ないと思うほど。きっと、正面でその表情に対峙しなければならないフェリクスにも忸怩たる思いを呼び起こすのだろう、彼は唇を噛み、肩に力を入れてを待つ姿勢になった。

 座った位置のアロイスは、立ったままのフェリクスを見上げながら、それでも主君としての威厳を保っていた。


「お前の大公位継承権を剥奪する。正嫡の子が誕生してもいないのに、公妃に仇なす者を第一継承者のままにしておく訳にはいかない」

「……当然のことと存じます。謹んで罰を受けましょう」


 言葉の上では頷きながら、フェリクスはふらりとよろめいた。統治する一族に生まれた者にとって、継承権の剥奪は家門から見放されたということ。寄る辺を失くした衝撃は、察するに有り余る。それでもフェリクスは、リアーヌに深く頭を垂れた。


「……申し訳なく思っているのは本当です。考えも足りなかったし、何より貴女は私が思っていたような方ではなかったようだ。それが確かめられたのなら、我が身のことなどどうでも良い。二度と煩わせることなどありませんから、どうか兄上とシェルファレーズを守ってくださいますように」

「あの、フェリクス様──」


 早口で述べると、フェリクスは踵を返して執務室への扉へ向かおうとした。リアーヌからの慰めも執り成しも聞きたくないというかのように。拒絶も露わな背中にどう声を掛けるかリアーヌが迷ううちに、でも、アロイスは呆れ声で弟を呼び止めた。


「何を言っている? 継承権を剥奪したからといって、追放した覚えはない。姿をくらませるつもりなら早まっているぞ」

「は? ですが、兄上──」


 執務室の奥に据えられた机と扉と、そのちょうど真ん中あたりでフェリクスは立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。再びリアーヌが目にした彼の顔は、戸惑いと疑問と、ほのかな希望が混ざり合った不思議な表情をしていた。


「反省の意を示すなら、蟄居するより行動によって示すが良い。例の賊は、まだ逃げ続けている者もいるのだろう? 捕らえて、狙いを明らかにするのだ。そうすればリアーヌ姫の憂いも、お前の疑いも完全に解けるかもしれない」


 足を踏み出しながら首を後ろに捻った半端な体勢から、フェリクスはゆっくりと身体の向きを変えて兄に向き直った。その顔からは疑問は少し後退して、戸惑いがやや強く表れているように見える。その理由は、リアーヌにも察することができた。アロイスの言葉は、あの襲撃が父とはまったく関わりがないことを前提にしていないと出ないものだ。


(でも、お父様が差し向けたものだったら……?)


「……そうならない場合も、あるかと思いますが……」

「そうなったらその時のことだ。いずれにしても、領内を脅かす者を野放しにはできないだろう」


 リアーヌの目は不安に曇り、フェリクスのそれは興味深げな色を湛えて光った。恐れていたよりも兄がリアーヌに盲目でないと分かって気を取り直した、といったところだろうか。


「仰る通りです。もとより、国を案じる心に嘘はございません。喜んで、励ませていただきましょう……!」


 フェリクスが床に膝をつくのを、アロイスは今度は止めなかった。止める暇もなかったのかもしれないけれど。机と書類の山に遮られてリアーヌには見えなかったけれど、フェリクスはきっと完璧な所作で恭しく跪いたのだろう。一拍の後に立ち上がり、今度こそ部屋を後にする彼の足取りに、迷いはなかった。

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