第24話 素敵な一日
「狩りには絶好の
計画を詰める段階では真剣な表情だったアロイスも、今朝になってみれば朗らかな笑みを見せていた。夫のはしゃいだような表情はリアーヌには新鮮で、何度でも胸がときめいてしまう。野山を馬で駆けるのに備えて、髪を編み込んで丈夫な毛織物の生地の衣装を纏ったリアーヌに口づけて、彼は楽しそうに語る。
「毛皮を目当てにするには時期が早いし、鹿の角も育ち切っていないのが残念ですが、それは次の機会にしましょうね。今回は、リアーヌ姫にシェルファレーズの恵みを召し上がっていただくのが目的ですから」
「楽しみですわ。でも、無理はなさらないで──気を付けてくださいませね?」
アロイスに抱きかかえられて馬に乗せられながら、リアーヌの声は不安と心配に
「腕前に驕るつもりはありません。ただ、浮かれて油断していると見せなければなりませんから」
軽やかな身のこなしで馬に
横向きに鞍に腰掛ける女の乗り方は、殿方に比べると不安定で速度も出ないものだ。道中は、アロイスが彼女の横にぴったりとついて、不慣れな山道での乗馬を助けてくれることになっている。馬でさえもシェルファレーズの大公の存在を弁えているのかどうか、リアーヌを乗せた馬は大人しく穏やかに、アロイスの誘導に従って進んでくれる。
城門を出ると、大公夫妻の外出の噂を聞きつけたのか、物見高い民も集まっているようだった。彼ら彼女らに手を振りながら、アロイスが微笑みかけるのはリアーヌに対してだけ、だった。
「貴女には、夫が無事だった、という経験を積み重ねることが必要な気がするのです。共に出かけて、共に帰る。それが当たり前のことなのだと思っていただけるようにしたいのですよ」
今日の予定は、とりあえずは
アロイスは、念を押しているのだ、と思った。リアーヌが計画に織り込んだ以上の危険な真似をしないように、と。
「はい。……最後まで、絶対に一緒……ですからね?」
周囲には、アデルやオレリア、護衛としてフェリクスが率いる兵たちもいる。明日のことはまだ考えずに、今日の間は夫との外出を心から楽しみたかった。
狩りの初日は上々の成果を上げて終わった。アロイスは鹿を仕留めて晩餐の食材の確保に貢献してくれた。警護の役にあったフェリクスも、機会を捉えては
空が陰ることもなく、野外で味わう食事も格別で。食後には持参した菓子の他にベリーも摘んで。リアーヌがまたアロイスの唇に運んであげると、彼は酸っぱさに顔を顰めながらも嬉しそうだった。ベリーのお返しに、アロイスは花を編んで作った冠をリアーヌの頭に被せてくれた。うっかりすると、明日の
「あれは、私の最初の獲物ですね」
「まあ、素晴らしいです」
「フェリクスの獲物もありますよ。後で自慢話をさせましょう」
「はい、ぜひ」
飾られている狩りの獲物はすべて、歴代の大公一族に所縁のあるものなのだろう。それぞれの来歴に思いを馳せて、王城とはまた違った、質実剛健な雰囲気の調度に目を留めながら。丸一日野外で過ごしたことで、衣装についた埃を払ってもらいながら。花冠を預かろうと手を延べたオレリアに、リアーヌが首を振ったのを見て、アロイスは苦笑した。
「
「でも、せっかく作っていただいたから……あの、でも、年甲斐もないでしょうか」
十代の少女ならまだしも、良い歳をした人妻が花を頭に飾って晩餐の席に着くのは、恥ずかしいことかもしれない。でも、一日の浮き立った気分をいつまでも纏っていたいような気もして、リアーヌはそっと花冠を指で押さえた。お気に入りのおもちゃを取り上げられまいとする子供のように見えてしまうだろうかと、不安に思ったけれど──
「いいえ、喜んでいただけて嬉しいです。食卓に飾る花は用意されているはずですが、いっそうの彩になるでしょう」
「本当でしょうか? 良かった……!」
でも、アロイスは微笑んでくれた。視界の隅にちらりと見えるフェリクスやアデル、オレリアがいったいどんな顔をしているか、どう思われているか──気にならないことは、ないのだけど。それでも、リアーヌはアロイスだけに顔を向けて、彼の手にエスコートされて、食堂に足を踏み入れた。
狩りの獲物は、仕留めた端から館に送られていたから、晩餐には取ったばかりの鳥獣の肉がふんだんに並んでいた。ほかにも、周囲の森で採れた
和やかな空気の中で晩餐が終わった後──葡萄酒でほろ酔い加減のリアーヌは、清潔に整えられた寝室でアロイスとふたりきりになった。
アロイスが昼間作ってくれた花冠は、水を湛えた盆に浸して枕元に置いてある。萎れ始めてはいても、夏の盛りに咲く花は香り高く、寝室に華やいだ気配を添えている。
寝台に腰掛けたリアーヌに、アロイスは冷水で満たした杯を渡してくれた。これもハーブですっきりとした香りがつけられていて、一日の疲れで乾いた喉を潤してくれる。
「例の賊の足取りを追うのに、フェリクスたちはここを拠点にしていたのです。だから綺麗なものでしょう」
「ああ、道理で。空気が篭った感じがしませんでしたもの」
アロイスがリアーヌの隣に腰を下ろすと、寝台がわずかに沈んだ。間近に感じる夫の温もりに、心臓がどきりと高鳴るのを感じながら、リアーヌは部屋を見渡す。二日がかりの予定と聞いて、どこで夜を明かすのか、供の者たちがちゃんと休める場所はあるのかと最初は心配だったけれど、これなら侍女も従者も快適に過ごすことができるだろう。館には十分な部屋数があるようだし、何より、獲物の解体や料理をする都合もあってだろう、近くの沢から水が引れていて、身体を清めることさえできるのだから。特にリアーヌは熱い湯で疲れを癒す特権を与えてもらっている。汗も埃も綺麗に落とした身体で──だから、アロイスに肌を見せても何も恥ずかしいことはない、のだけど。
アロイスが、降ろした髪のひと房を手に取って口づけてから囁く。
「……長い一日でお疲れでしょう。明日に備えて、早く休ませて差し上げるべきなのでしょうが──」
「はい。でも、私、まだ眠れそうにありませんの」
夫が仄めかしたことを察して、リアーヌの頬は熱くなる。水を干して酔いは醒めたはずなのにおかしなことだ。アロイスの声にも熱が宿っているのを聞き取った嬉しさと、それに、はしたないねだりごとをする羞恥が彼女の体温を上げているのだ。
(明日は何があるか分からないのに……でも、だからこそ……)
夫の存在をしっかりと確かめておきたい。そう思うのは間違いではないはずだ。そう自分に言い聞かせて、リアーヌはアロイスの方へ身体を傾けた。彼の硬い腿に掌を這わせながら、愛しい青い目を見上げて、おずおずと訴える。
「あの……アロイス様が抱き締めてくださったら、落ち着くのではないかと、思うのですけれど──」
「ええ、貴女が満足なさるまで、存分に」
リアーヌの願いは、いともたやすく叶えられた。彼女が求めるのを待っていたとでも言うかのように、言い終わるかどうかのうちにアロイスはリアーヌを強く抱き締めたのだ。
「実のところ、私も眠れそうになかったのです」
王城を離れた山中の別荘で、しかも危険で重要な計画を控えているというのに抱き合わずにいられないのは恥ずかしいことだった。けれど不安に呑み込まれないためには必要なことでもあった。朝、アロイスが言ってくれた通りのことだ。共に出かけて、共に帰る。ずっと一緒にいる。彼の想いに応えるためにも、《黒の姫君》の悪評は、リアーヌが自ら除かなければならない。ずっと──そう、この幸せが終わることなど考えられない。
明日、何が起きたとしても。この幸せを守るためなら、乗り越えることができそうだった。
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