第13話 誤解

 アロイスが真っ直ぐに向かったのは、リアーヌの私室だった。彼女を抱えたままだからもちろん両手はふさがっていたのだけど、ただならぬ気迫の大公の前に、従者たちは転がるような勢いで扉を開け、そして彼の短い命令に従って姿を消した。だから、リアーヌは密室の中にアロイスとふたりきりで取り残されることになった。


「ガルディーユ王からの手紙というのは」

「は、はい。これです……」


 アロイスが纏う気配は相変わらずぴりぴりと尖っていて、怖かった。怒りの炎をいまだたたえた青い目に命じられるまま、リアーヌは震える手で父からの手紙を差し出した。

 アロイスが険しい顔のまま紙を繰る間、リアーヌは落ち着きなく部屋を眺めた。シェルファレーズに嫁いでまだ一ヶ月足らず、それでも慣れてきた彼女の部屋だった。でも、二度と戻ることはないと思って綺麗に片付けておいたから、今はどこか余所余所しく感じてしまう。アロイスの冷たい態度は周囲に壁を築いているようで、ほんの数歩の距離が果てしなく遠いと思えるからなおのこと、この部屋はあまりに広くて、寒い。


「貴女はそもそも何と書いて送ったのですか」


 と、視線を行きつ戻りつさせながら手紙を読み終えたらしいアロイスが、やっとリアーヌに目を向けた。いつもは──内心はともかく──柔らかく優しく微笑んで見つめてくれたのに、彼の目は、今は抜き身の刃の鋭さで彼女を睨んでいる。もちろんこれは彼女自身の行いのせいであって、当然の仕打ちなのだけど。


「それは──あの、こちらをご覧くださいませ」


 アロイスの目に貫かれて手指の動きが鈍くなるのを感じながら、リアーヌはできるだけ素早くを取り出した。すぐに見つかるよう、机の引き出しの一番上に入れておいて良かったと思う。

 遺書を書いた本人が、生きたままの姿でそれを宛名の人に渡す。それは、ひどく奇妙な状況だった。を呑んだと思ったのに死ねなかった時からもう何度目だろう、どうして、と思う。アロイスがこれを読む時には、彼女はこの地上にはいないはずだったのに。

 封蝋を破ったアロイスは、紙を広げるとすぐに眉を寄せた。どのような趣旨の書面か、一見して悟ったのだろう。


「遺書……?」

「は、はい。あの……ですから、本当に、私は助かるつもりはなくて──」


 もう一度弁明をしようとしたのに。アロイスは顔を上げてもくれなかった。完全に無視された格好のリアーヌは、処刑台に登った囚人の思いで彼を見つめることしかできない。どうして彼が顔を顰め、顎に手をあて、時に額を押さえるのか分からないままで。


(ちゃんと、ご説明しているはずなのに……)


 アデルという想い人がいるにも関わらず、実家の権力と財力を笠に嫁いできたことを真っ先に詫びた。父であるガルディーユ王が毒を送ってきた以上は、リアーヌの輿入れも良からぬ企みが陰にあると考えられるという点を指摘し、そこを責めれば、リアーヌが死んだとしても干渉を跳ねのけることは十分可能だろう、それどころか、陰謀を盾に交渉すればさらなる援助を引き出すこともできるかもしれないと提案した。その上でアデルと改めて結婚してシェルファレーズを繁栄させれば良いと、ふたりの幸せを願って締めくくった。

 リアーヌが何も語れなくなっても全てが明らかになるよう、順を追って丁寧に書いたつもりなのに、やはり死を前にした恐怖や緊張が、文章を乱れさせてしまったのだろうか。


 父からの手紙よりもずっと長い時間をかけて、アロイスはリアーヌの遺書を読み終えた。というか、何度も読み通してやっと気が済んだ、ということかもしれない。とにかく、やっと改めて断罪を受けることができるのだろうか。不安と期待の相半ばする思いで、リアーヌは怒りを湛えて静かに燃える青い目に対峙した。彼の怒りはまだ深いと見えたのに──アロイスがまず口にしたのは、リアーヌが思ってもいないことだった。


「私がアデルを愛している、と。一体どうしてそのようなことを考えられましたか」

「それは……あの、フェリクス様が教えてくださいました」

「フェリクスが? 本当にそのようなことを言いましたか」


 依然として鋭い眼差しのアロイスに問い詰められて、リアーヌは必死で記憶を探り、脳を働かせた。フェリクスと密かに話した時の状況、彼がどのような表現を使っていたか。それを、告げ口に聞こえないようにアロイスに伝えるにはどうすれば良いか。


「忠告してくださったのです。私が、心無い振る舞いをしないように、と。ええと……私がいなければシェルファレーズの公妃になるはずだった方だと伺いました」

「それは事実ですが、だからといって愛しているとは限らないでしょう」

「え──」


 目を見開いて自失したのも、一瞬のことだった。リアーヌはすぐに、彼女が見聞きしたことを挙げられる。彼女は何もフェリクスの言葉を根拠もなく信じた訳ではないのだ。アロイスとアデルは絶対に親しい関係だと、確信するのに十分な場面が幾つもあった。


「で、でも。近しく話していらっしゃいました! あのアデル様が眉を顰めていらっしゃったのは、私のせいだったのでしょう? 私が、何も知らず何も考えずに押しかけてしまったから……! 愛し合うおふたりの間に割って入ってしまったと思って、だから、私は──」

「それは……婚礼の翌日のことでしょうか。貴女はご不調で部屋におられたはず。聞いておられた……?」


 アロイスの目の険しさがほんの少しだけ揺らぎ、怪訝そうに首が傾けられる。余罪を告白してしまったことに気付いたリアーヌは、気まずく目を逸らそうとする──が、許される立場ではないと思い直して、必死に顔を上げて申し開きをすることにした。


「……何をお話しされていたかは、聞いておりません。遠目に見てしまっただけで……そこにフェリクス様がいらっしゃったので、それで。……あの、申し訳ございませんでした」

「いっそ盗み聞きしてくださっていれば良かった。そうすれば、このような愚行はなさらなかったでしょうに」

「そんな……」


 アロイスはリアーヌのを掲げると、彼女が綴った文字を指先で弾いた。何を言われても仕方のないことと覚悟はしていても、死に臨むつもりで書いたものをそのように扱われるのは辛く悲しいことだった。ずっと堪えなければ、と思っていたけれど──目の奥が熱くなる。涙が滲んで、アロイスの姿がぼやけてしまう。


「あれは、貴女にしてしまったことを相談していたのです。──無論、夫婦の間のことを詳しく明かした訳ではありませんが」


 涙を零さないように瞬きするのに精いっぱいで、アロイスがどんな顔でそう言ったのかはリアーヌには分からなかった。ただ、空気が微かに動くのと視界に落ちる影で、彼が歩み寄って来たのを知る。声の調子も少し変わっているかもしれない。なぜか少し早口になって、慌てているように聞こえる。でも、なぜだろう。不思議に思うリアーヌの眼前に、アロイスはぐいと顔を近づけた。


「思い込みでひどい仕打ちをしてしまったと言ったら叱られたのです。決して簡単に許されると思うな、とにかく時間をかけて貴女の心を解すのだと諭されて。ですが、菓子も花も私が考えたことです! 妻への贈り物に、ほかの女の知恵を借りては無礼というものでしょう!」

「……何を仰っているのでしょうか……?」


 アロイスの唇が動くのをおぼろな視界に捉えながら、リアーヌは首を傾げた。彼が訴えるのは、正直に言ってどうでも良いことだとしか思えなかった。彼が何を気にしているのか、本当に意味が分からない。断罪されるべきは彼女であってアロイスには何らの落ち度もないはずなのに。

 率直に疑問を口にしてしまったことこそ、無礼と捉えられかねないことだっただろう。事実、アロイスが深々と吐いた溜息には明らかに苛立ちが滲んでいたと思う。でも、それでも。彼は辛抱強く語り掛けてくれた。


「言い訳です。貴女の誤解を解くための」

「誤解……?」

「さもないと、私がどうして怒っているかを分かっていただけそうにない……!」

「それは、あの」


 分かっている、と。リアーヌは言おうとした。方便だったとはいえ、シェルファレーズに対して暴言を吐いた。演技とはいえ、アデルに毒を盛ろうとした。彼のアデルへの想いは──よく分からなくなってしまったけれど。でも、これだけ怒るということは大切な存在なのだろうと思う。


「アデルは、信頼できる友人ではあっても、女性として愛する存在ではありません。そんな存在がいるとしたら、リアーヌ姫──貴女だけだ」


 けれど、リアーヌは声を出すことができなかった。考えを言葉に纏めることができないうちに、アロイスが彼女を強く抱き締めたのだ。爪先が軽く浮いてしまうほど、息が苦しくなるほど、強く。肺から空気を絞り出すようにして、リアーヌはやっと喘ぐ。


「嘘……だって」

「最初にひどい過ちを犯してしまいましたからね、そう思われるのも無理はない。噂や評判や、つまらない見栄に囚われて貴女と向き合おうとしなかった。夫として、許されないことでした」


 抱き寄せられた驚きと衝撃に、涙が筋となってリアーヌの頬を伝っていた。だから、視界が晴れてアロイスの顔もはっきりと見えるようになる。間近に迫る彼の顔は苦しげに歪んで、腕の力以上にリアーヌの胸を締め付け痛ませる。


「ですが──貴女は機会をくださったのではないのですか? 少しは心を許してくださったのではないのですか? 夫婦として歩めるのかと期待を持たせておいて、陰ではこのように恐ろしいことを? 私に笑ってくださったのに、心の中では死ぬことを考えていたというのですか!?」

「わ、私……は──」

「訳が分からないまま、毒だの死ぬだの聞かされて……! 妻が、目の前で! 私がどれだけ恐ろしい思いをしたか、貴女はまったく分かっていないのでしょう! どうしてそのように残酷なことができるのですか!?」


 アロイスの悲痛な声がリアーヌの心を揺さぶる。彼女の罪をやっと教えてくれる。リアーヌはまた、周りが見えていなかったのだ。自分を消し去りたい一心で、残される人の心をきちんと考えていなかった。彼女が思うよりもずっと、アロイスはリアーヌを妻として受け入れてくれていた。抱き締められる力の強さと、声の必死さと、怒りと悲しみに歪んだ顔と。それだけ見せつけられれば、認めない訳にはいかない。アロイスの心を知って、リアーヌの胸は喜びに高鳴り、同時に罪悪感のために痛んだ。

 でも、ほかにどうしようもないことなのだ。


「だって……!」


 アロイスの腕の中は温かくて安心する。ともすると、このまま甘えてしまいそうになる。身体を寄せたくなる衝動に懸命に抗って、リアーヌは腕を突っ張って、どうにか彼と距離を保とうとした。このような温もりも幸せも、彼女には相応しくないものなのだと思い出したのだ。ひと時の慰めだからと自分を誤魔化していただけ、死ぬこともできなかった癖にいつまでも浸っていて良いはずがない。

 女のか弱さでは、アロイスの腕から逃れることはできなかった。だからせめて抵抗を示そうと、彼女は首を振って叫ぶ。


「私、夫を殺してしまっていたのですもの! 前の方々は、きっとそうなのです! 知らなかったからといって許されません……! だから、アロイス様まで……そう、なってしまう前に! 毒を、呑まなければ、と……」

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