第12話 失敗

 フェリクスの手が毒入りの茶器を掴む前に、リアーヌは素早くそれを手元に取り戻した。茶が跳ねて真っ白なリネンに染みを作るけれど、構わない。ほんの何滴か零したところで、効果に変わりはないだろう。それよりも、彼女の手の届かないところに取り上げられてしまうのだけは避けなければ。


「この……っ」


 リアーヌに先を越されたフェリクスは、苛立ったように卓を叩き、リネンの染みを増やした。乱暴な動作と茶器がぶつかり合う高い音に、アデルは怯えたように眉を寄せ、アロイスも弟に対して咎める声をかける。


「フェリクス、何を言っている? 我が妻に対しての非礼もいい加減にせよ」

「いい加減にするのは兄上の方でしょう。この女の見た目に惑わされて、注意を怠り警戒を忘れるとは! ──この女、アデルの茶にだけを入れていました。私はこの目で見たのです!」


 フェリクスが兄に訴える隙に、リアーヌも席を立ちあがっていた。衣装の長い裾と柔らかな芝に足を取られないように──毒をひっくり返してしまわないように──気を付けながら、数歩、退く。アロイスやフェリクスが詰め寄っても届かないように、十分な距離を取る。そして初めて、リアーヌはフェリクスを睨みつける、振りをした。悪事を暴かれ、指を突き付けられて詰問される女が悪あがきをしていると見えるように。


(上手くやらなくては……疑いを持たれる前に……!)


 フェリクスは期待通り毒に気付いてくれたし、予想通りにリアーヌを問い詰めてくれている。だから、この調子で続ければ大丈夫──だと思うのだけど。


「まあ、なんて失礼なことを。この私がお茶を淹れてあげたというのに、そんな言いがかりをつけるなんて!」


 緊張と不安によって、演技するまでもなくリアーヌの声は震え、上擦ってくれた。きっと、ほかの三人からは動揺して強がっているように見えてくれるはずだ。訳が分からないというように首を左右にしてリアーヌとフェリクスを見比べていたアデルも、戸惑いから不安と不審へと表情が塗り替わっている。


「フェリクス……あの、リアーヌ様。どうか、落ち着いて……?」


 毒を盛られるところだったと聞かされて、平静でいられるはずもないだろうに。それでもフェリクスに加勢するのではなく、まずは場を収めることを考えるアデルは思慮深い人だ。きっと、リアーヌよりもよほど公妃の立場には相応しい。リアーヌがほんの少しの慰めを見出して微笑むと、同時にフェリクスも唇を吊り上げて笑顔に似た表情を見せる。もちろん、おかしいから笑うのではなく、リアーヌを追い詰めることができることへの喜びが滲んでいるのだろう。狼が、獲物の前で牙を剥くようなことだ。恭しくリアーヌにお辞儀をしながら、でも、フェリクスの目はぎらぎらと彼女を睨んでいた。


「見間違いなら幾らでも謝罪はいたしましょう。だから、その茶器を渡しなさい。中身を調べて──それか、捕らえた賊にでも呑ませてみましょうか。あの連中も、貴女の祖国と関りがあるのでは……?」

「私ばかりか、ガルディーユにまであらぬ疑いをかけるというのですか? なんて、恩知らずな……! シェルファレーズの品位が知れるというものですね!?」


 祖国の権勢を笠に着るような物言いをすると、方便だとしてもリアーヌの胸は後ろめたさに痛んだ。一方的に恩を押し付けたのは父であって、シェルファレーズの人々がそれをどう思うかについては、強制することなどできないというのに。思ってもいない、それこそ品位に欠けた罵声は、狼狽していることを示すための演出だった。動揺したことで本音が漏れ出ているのだと見えるようにと計算してのことだけど──


「リアーヌ姫……?」


 視界の隅でアロイスが悲しそうに顔を歪めたのに気付いてしまって、リアーヌは毒を呑むまでもなく喉を締め付けられたような苦しさを感じた。この場で言うのは心にもないことと、弁明する遺書をしたためてはいるけれど、だからといって夫の国を侮辱した罪が許されることはないだろう。でも──これも必要なこと。リアーヌとフェリクスの大声に、ちょうど人が集まってくる気配もしている。多くの人に、彼女とガルディーユに対して悪印象を持っておいてもらわないと。押し付けられた厄介な公妃が自滅して、せいせいしたと思ってもらわないといけない。

 リアーヌのを聞いて、フェリクスは音高く舌打ちした。彼にとって聞き捨てならないであろう言葉を選んだのが、狙い通りの効果をもたらしたらしい。


「化けの皮が剥がれてきたようだな。夫を手に掛けその国を食い荒らす《黒の姫》の本性はそれか! 毒を渡せ。どこから手に入れたか、アデルだけでなく狙うつもりだったか、それからゆっくりと取り調べて──」

「その必要は、ありません」


 フェリクスが手を伸ばしながら近づくのを前に、リアーヌはもう一方下がり、毒入りの茶器を胸元にしっかりと抱え込んだ。心臓が痛いほどに高鳴って、手が小刻みに震えている。失敗してはならないと思うと、どうしても身体は思い通りに動いてくれない。でも、アロイスも立ち上がってしまっている。取り押さえられる前に、しまわないといけない。勇気を奮い起こして、リアーヌは茶器を口元に運び、最後のそらんじた。


「ガルディーユの王女である私に対して、なんと無礼な疑いでしょう。私は、申し開きなんてしませんわ。悪いことなんてしていませんもの! 野蛮な方々に取り調べられるのもご免です。私の無実は、私が証明します! これを、飲み干して見せれば良いでしょう!? 飲んでも、なんともありませんもの!」

「止めてください、リアーヌ姫……! 私は貴女を疑いません。落ち着いて──話をしましょう」

「なんともありませんったら!」


 アロイスも足を踏み出してくれて、本当に良かった。心にもない酷いことを言って、アロイスを悲しませアデルを怯えさせ、フェリクスを怒らせてしまった。そのすべてを、無駄にせずに済むから。最後の一歩を踏み切ることができないのを恐れていたけれど、これなら大丈夫そうだ。取り乱した末に意地を張ったと、誰もが納得してくれるはず。


(アロイス様、ごめんなさい。……さようなら)


 鼻先に近づけると、毒の甘過ぎる香りはせるようだった。吐き出したりしないように息を止めて、呑み乾す。すると、リアーヌの口の中を刺すような強い苦みが襲った。


「──っ」

「リアーヌ姫! 吐き出しなさい!」


 空になった茶器が、地面に落ちる。アロイスが駆け寄ってきて、リアーヌを抱え込む。背中を叩かれる衝撃に耐えて、彼女は必死に口元を両手で覆った。身体が毒を拒否しているのか、脂汗が額からも背中からも滴るのが分かる。でも、リアーヌの喉はついにごくりと動く。口に含んだ毒を、すべて呑み下すことに成功したのだ。


(──できた! これで、終わり……!)


 達成感と共に、リアーヌは口から手を離した。目を見開いて彼女を見下ろすアロイスに、最期に微笑もうとして──盛大に咳き込む。口内を刺す不快な感覚がいつまでも去ってくれない。胃もぐるぐると落ち着かないし、汗も止まらない。それに何より、リアーヌの心臓は動き続けている。肉体の変調に、鼓動は早く乱れているけれど、それだけだ。死の安らぎが訪れてくれる気配は、微塵も感じられない。


「……なん、で!? 全部っ、呑んだ、のに……!」


 心ならずもアロイスの胸に縋りながら、リアーヌは咳の合間に叫んだ。何かがおかしいのは分かるけど、どうしてかは分からなかった。アロイスもフェリクスも、控えていたオレリアも集まって来た野次馬たちも。みんな不安げな表情でリアーヌを見つめているけれど、誰も何をしたら分からないようだった。

 そんな中、落ち着いた女性の声が響く。


「リアーヌ様……フェリクスが言っていたとは、こちらのことでしょうか」


 アデルの声だ。袖口に仕込んでいた毒の瓶は、いつの間にか地面に転がり落ちていた。緑の草の上で、琥珀色のガラスが太陽の光に輝いている。見た目には美しく、空になってはいるけれど、でも、が入っていたものだ。アデルの白い指が瓶に伸ばされるのを見て、リアーヌは掠れた声で悲鳴を上げた。


「だめ……アデル様、触らない、で……!」

「いえ、この瓶の色は……多分、大丈夫」


 リアーヌには信じられないことに、アデルはレースの手巾ハンカチを取り出すと、瓶を逆さにして振って、残っていた数滴をそこに振りかけた。リアーヌも、フェリクスも止める間もなくアデルは手巾に顔を寄せて──そして、微笑んだ。


「やっぱり。お茶やお菓子の香りに紛れて断言はできないと思ったのですけれど。これは精油、ですね。花や果実やハーブの香りを混ぜ合わせた──品の良い調合ですね」

「嘘……それは、毒です。父が、そのように……!」


 リアーヌが叫んでも、耳を傾けてくれる者はいなかった。野次馬たちは遠巻きに見守るばかりで、彼女を取り押さえたり罵ったりはしてくれない。アロイスとフェリクスも、戸惑ったように無言で視線を交わすばかりで何をすべきか迷っているようだ。リアーヌはもちろんのこと、なぜかアロイスの腕の中で震えるばかり。ただ、アデルだけが冷静だった。


「オレリア様、水を用意してください。この量では大事ないと思いますが、口をゆすいだ方が良いでしょう」

「え、ええ……!」


 アデルの指示を受けたオレリアが走り出す足音を聞きながら、リアーヌは呆然と呟いた。


「父が手紙で……憂いを忘れられる良薬だと。眠れない時に使え、くれぐれも口にするな、と言っていたのに……」

「枕に垂らせばきっと良い夢が見られたのでしょうけれど。それに、子供や小さな犬とか猫が口にしたら確かに危険かもしれません。でも、大人の方なら少し様子を見れば大丈夫でしょう」


 リアーヌが言葉を紡ぐうちに、口の中の違和感は消えていった。苦いものを口にして、しばらく経った時と同じだ。、後味は自然に消えるものだ。だから──アデルの言う通りなのだろう。胸がどきどきとするのも、胃が落ち着かないのも、多分緊張がもたらしたことで、でしかない、のだろう。


(でも、どうして……?)


 リアーヌは、何かとんでもない思い違いをしていたらしい。そのことを悟り、受け入れてなお納得はできなかった。彼女が生きて息をしていることだって、とてつもない間違いだと思うのに。


「でも……では、私は死ねないのですか……?」

「リアーヌ様、なんてことを……! さあ、早くお水を!」


 戸惑うままに呟くと、戻って来たオレリアが血相を変えて水差しと杯と銀のたらいを差し出してくる。うがいなんて、と思うけれど──でも、毒でなかったのなら、洗い流しても意味はないのだろう。リアーヌはオレリアに促されるまま水を口に含み、アロイスとフェリクスの目を気にしながらもできるだけそっと盥に吐き出した。唇から滴る水滴は、オレリアがすかさず拭き取ってくれる。

 口の中がすっきりとする頃には、自棄やけのような高揚も冷めていた。そうすると、嫌でも我に返ってしまう。この場の人々が──特にアロイスが、この一幕をどう捉え、何を考えているのかを、直視しなければならなくなってしまう。


「あの、私、は──」

「結果的には良かったものの……毒と信じて呑もうとしておられた、ということで良いのでしょうか」


 謝らなければ、と思っても顔を上げることなどできなかった。俯いたままのリアーヌに浴びせられるアロイスの声は冷たく険しく、夏の日差しにも関わらず吹雪の中に立たせられる心地になってしまう。それでも、リアーヌは勇気をかき集めて弁明を試みる。


「は、はい……。で、でも、決してアデル様が口にされることはないようにと、思っておりました。必ず、私が呑むつもりで──」

「そんな話はしていません」


 斬って捨てるようなアロイスの声の鋭さに思わず顔を上げると、青い目が怒りに燃えていた。日ごろはどこまでも深く穏やかな色で、思慮深さを湛えているのが嘘のように。初夜の時でさえ、余所余所しくはあっても敵意を向けられはしなかったのに。


(私は、なんということを……!)


 あの優しい方をここまで怒らせてしまったのだ。自身の罪深さに慄いてリアーヌが何も言えないでいるうちに、アロイスは彼女の身体を乱暴に抱き上げた。いつも寝台に運ばれる時の丁寧な手つきとは違って、腰や肩に食い込む彼の腕の力強さは拘束のよう。でも、もちろんリアーヌが悲鳴を上げることなど許されるはずもない。


「兄上……どちらへ……?」

「この方と話すことがある。お前は今日のところは帰って良い」

「アロイス、でも──」

「貴女もだ、アデル。夫婦の話に口を出さないで欲しい」


 アロイスがこれほど激しい怒りを露わにするのは、フェリクスやアデルにとっても初めてのことだったのだろう。ふたりとも、息を呑んで目を伏せ、大公の命令に従う姿勢を見せる。オレリアや、ほかの侍女や召使は言うまでもなく、アロイスの気迫に呑まれて何も言えない様子だった。

 夏の日差しはまだ高く空は青く、辺りには茶や菓子の香りがまだ漂っているというのに。その場の空気は重く誰も言葉を発する者はなく、リアーヌを抱えて退出するアロイスの足音だけが不穏に高く響いていた。

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