第14話 《黒の姫君》の慟哭

 アロイスに──今の夫の胸に爪を立てながら、リアーヌは胸が悲しみに締め付けられるままに言葉を紡いだ。これまでに喪った三人の夫の思い出が彼女の息を詰まらせてしまいそうで、吐き出さずにはいられなかった。


「ジェラール様は、前日までは本当にお元気だったのです。私に狐の襟巻をくださると、豪華な晩餐にするからと仰って。私も、楽しみにしていたのに……なのに!」


 最初の夫、ランブールのジェラール王子は、物言わぬ遺体となって狩りから帰った。


「トビアス様の、大きな手と深い声が好きでした。勉強を見ていただいた時、頭を撫でて褒めてくださったものでしたわ。それが、最期には手も痩せて、腕も上げられなくて──名前も、呼んでいただけなくて」


 二番目の夫、ロンゴリアのトビアス王は病死ということになっている。日を追うごとに夫が痩せ細り、死に近付いていくのを見守ることしかできない日々は、リアーヌにとって恐怖でしかなかった。


「クロード様は……とうとう、お会いすることもできなくて。殺されてしまわれたのです。王子である御方が、絶対に、おかしなことなのに……!」


 リアーヌの三番目の夫、ルメルシエのクロード王子は内乱の鎮圧に際しての戦死だった。花嫁を出迎えることもままならない混乱だったとはいえ、王子の身体に簡単に刃が届く状況があるはずない。だから、彼を殺したのは反徒ではないのだろうと、リアーヌは信じるようになった。


「だから、きっと私のせいです。私のせいでみんな、亡くなってしまわれた。父からの手紙で確信してしまったのです。だから私は、生きていてはいけないのです」


 今の夫に、かつての夫たちへの想いを打ち明けるのは不貞にあたるのかもしれない。ただでさえアロイスはリアーヌに対して激しい憤りをぶつけたところだったというのに、自分の悲しみで胸がいっぱいになってしまうなんて勝手すぎる。そう、分かってはいても、リアーヌは子供のように泣きじゃくるのを止めることはできなかった。頬から流れ落ちた涙が、アロイスの胸にいくつもの染みを作る。

 嗚咽おえつ混じりに、時に鼻を啜りながら。震える声で途切れ途切れに伝えた言葉は、聞き苦しく不明瞭なものだっただろう。でも、アロイスは遮ることもなく辛抱強く聞いてくれた。一連の騒ぎで解けてしまったリアーヌの髪を梳いて、その背をそっと撫でながら。彼が口を開いたのは、リアーヌがすべて言い終わった後、彼女を長椅子に導いて座らせた後になってやっと、だった。


「不幸が重なることは、悲しいことにあるものです。私だって、この年でこの地位にあるのは、両親を亡くしたからでもあるのですよ」

「でも、数年おきに違う国で、なのですよ!? 同じことといえば私がいたということだけで!」


 先の大公夫婦についても、リアーヌは確かに知っていた。病で相次いで亡くなったのだと。辛い思い出まで引き合いに出してくれた彼に申し訳なく思いつつ、シェルファレーズの民の心中に思いを馳せつつ、けれどリアーヌが頷くことなどできはしない。人が亡くなるのは悲しいことだけど、人が殺されるのは裁かれるべき罪なのだ。なのに、恐ろしい罪人の彼女に対して、アロイスはあくまでも優しく語り掛けてくれる。先ほどまでの激しさをどこにどう収めたのか、怒りなど微塵も感じられない。


「貴女はそのようなことをする方ではありません」

「でも……でも! 父を手伝ってしまったかもしれません! 私宛の手紙や荷物の中に、恐ろしい毒や命令が含まれていたら? 出入りしていた侍女や従者や商人に間者がいたら……!?」


 彼の表情が、声と同じように優しいのかどうか確かめるのが怖くて、リアーヌは俯いたままの格好で叫んだ。ここまで言えば、アロイスも分かってくれると思ったのに──なのに、彼女の視界に映る彼の胸は穏やかな呼吸によって上下するだけ、何らの驚きも同様も見せていなかった。


義父ちち上の手紙は、大変落ち着いた文面ではありませんでしたか? 同封されていたのも、毒などではありませんでした」

「それは──たまたま今回だけ、かもしれません。あまりに時期尚早だから……。それに! 私を何度も嫁がせて、その度にガルディーユは利を得ました!」


 《黒の姫君》の悪評は、アロイスの耳にも届いていたはずだ。だからこそ、リアーヌは最初疑われていたのだ。それを忘れた訳ではないだろうに、アロイスは彼女の言葉に取り合ってくれない。苦笑と共に首を振る気配がして──そして、リアーヌの頬に彼の掌が添えられた。促されるままに顔を上げると、青い目が彼女を見下ろして微笑んでいた。先ほどのように激しく恐ろしい怒りに燃えたりはしていない。ひたすらに穏やかで優しい、静かな青だった。その色は、リアーヌの悲しみも恐れも吸い取ってしまうかのよう。


「若く美しい姫君なのですから、次こそ幸せになって欲しいと願うのは当然の親心でしょう。ほんの少し一緒に過ごした私でさえもそう思うのですから、実の父君ならなおのこと」

「そんな──でも……」


 今のリアーヌはひどい泣き顔で、美しさにはほど遠いだろうに。アロイスは、そんな甘い言葉を囁きかけてくれる。酔わされて、流されてはいけないと思っても、咄嗟に反論が見つからなくて。目を泳がせて言葉を探すリアーヌに黙れとでも言うかのように、アロイスはそっと口づけを落として彼女の唇を封じた。


「──良い香りだ。この香りに包まれて、一緒に眠ることができたら良かったですね」

「あ──」


 茶会の席で、毒と信じて飲み干した精油の香りが、まだ唇に残っていたらしい。父の手紙を文字通りに信じるならば、安眠を誘う香りだったのだろうか。呑む時には噎せそうなほどに強く感じたはずの香りが、今のリアーヌには思い出せなかった。ただ、アロイスと寄り添って安らかに眠るという想像は、幻の香りよりもずっと甘く芳しい。あまりに甘いから、首を振る気力をかき集めるのにたっぷり数秒かかってしまった。


「駄目。いけません。たとえ父が何もしていないのだとしても、やはり私のせいなのでしょう。喪服を纏う《黒の姫君》──何か呪いとか、不吉なものが取り憑いているのかもしれません」

「……まだ、自ら命を絶たれるおつもりなのですか。それとも、どうしても離縁を望まれますか」

「それは、あの」


 どうしても、と言い張れば、改めて毒を用意してくれるのだろうか。離縁に向けて、父と交渉してくれるのだろうか。それとも──まさか、許されずに閉じ込められてしまうのだろうか。たった今、アロイスの力強い腕の中に抱き締められて、身動きできなくなっているように?

 ふたつの心臓が間近に響き合うのを感じると、いつかの閨でのことを思い出してしまう。もうすぐ死に向かう身だからと、ほんのひと時自らに許した幸せのはずだったのに。死ぬこともできなかった癖に、再びアロイスと抱き合っても良いのかどうか──迷い、身体を強張らせるリアーヌの耳元で、アロイスは悪戯っぽく笑った。


「『ひと時の間だけでも、貴方の妻でいられて幸せでした。罪深い私に過分の優しさを示してくださったことに心からお礼を申し上げます。なんの憂いもなく貴方の傍にいることができたらどれほど良かったでしょう。信頼する夫と絆を育み、共に年老いるのは私の夢でした』」

「な……っ」


 アロイスがそらんじたのは、リアーヌのの文面に間違いなかった。何度も読み返す気配は確かにしていたけれど、あの短い間で暗記していたなんて。それに、彼女は逆説の詞で続けたはずだ。けれど許されないことだから、自らを裁いて終わりにします、と。そしてアデルとアロイスの幸せを願ったはずだ。そこは言わずに、前半までで切り取ってしまっては──


(これでは、まるで──)


 愛の告白のようになってしまう。リアーヌの頬がじわじわと熱くなる。きっと顔が真っ赤になっているのだろう、アロイスは彼女の顔を見下ろして唇に弧を描かせた。優しいだけではない、どこか意地悪げな気配も纏った微笑みだった。


「……貴女は私に沢山の嘘を吐いていらっしゃった。遺書のつもりで書いたことでさえもそうだったのですか? 心にもないことを書いて、かえって私を苦しめようと?」

「いいえ! 私は、心から──」


 首を振るのは、告白めいた文章を肯定するのと同じことだった。リアーヌがそうと気付いたのは、強く抱き締められてからだった。彼が満足げに笑う気配は、アロイスが彼女の答えを完全に予想していたことを伝えている。リアーヌの本心を強引に引き出したからこその、会心の笑みなのだ。騙されたと思う余裕は、でも、リアーヌにはない。アロイスの指が彼女の頬を撫で、アロイスの唇が彼女の涙を吸い取るから。どきどきと高鳴る心臓に翻弄されて、彼の声と仕草と表情を追うので精一杯なのだ。


「ええ。貴女は嘘が下手でいらっしゃるから。先ほども、何のための演技なのかと不思議に思ったものです」

「……申し訳ございません」


 分かるのは、彼女は責められてしかるべき立場ということだけ。だから悄然として謝罪の言葉を述べると、アロイスは重々しく頷いた。


「……遺書などを読まされて、恐ろしい思いをさせられました。本当に死ぬ覚悟でいらっしゃったのだと。憤りもしました。私の心を踏み躙ってくださったのだから」

「はい。申し訳ございません」


 これもまた、返す言葉のないことだ。アロイスは、確かにリアーヌに歩み寄ろうとしてくれていた。自ら死に逃げて清算したつもりになるのは、愚かで浅はかなことだった。

 アロイスの糾弾は、終わらなかった。リアーヌを腕の中にしっかりと捉えて、間近に目線を合わせて、彼の唇がまた動く。


「でも、貴女の本音を知ることができて、良かった。図らずも、とても嬉しい御心も、見せていただきました」

「はい。申し訳……?」


(……あれ……?)


 また、責められるのだと思っていたのに。それが当然だと思っているのに。何か、趣の違うことを言われた気がしてリアーヌは首を傾げた。聞き直すべきか迷ううち──彼女の視界が、大きく揺れる。満面の笑みを浮かべたアロイスが、彼女を抱き上げたのだ。


「貴女の誤解は解けましたね? ならば、貴女の夢は叶います。『なんの憂いもなく貴女の傍に』『絆を育み、共に年老いる』──私も、同じ夢を描いているのですから」

「あの、アロイス様……!?」


 アロイスの足が寝台に向かっているのに気付いて、リアーヌは悲鳴を上げた。


「まだ、昼間……それに、みんな、心配して──」

「大公が人払いを命じたのだから、誰も来ませんし咎めません」


 単語を並べてどうにか伝えた抗議を、アロイスはくみ取ってくれたようだった。その上で、取り合ってくれないのだけど。


「それに、貴女がこの腕の中にいるのを確かめたいのです。──本当に、恐ろしかったのですよ」


 そして、眉を寄せたアロイスに覗き込まれてしまうと、もう否ということはできなかった。リアーヌが沈黙したのを確かめるとアロイスは微笑み──窓からの陽光が注ぐ寝台に、彼女を降ろした。

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