第10話 束の間の夢

 部屋に入って来たアロイスは、リアーヌの顔を見るなり顔を顰めた。


「食事もろくに取られていないと伺いました。まだ恐ろしいと思っていらっしゃいますか」

「いえ……父からの手紙で、少し……寂しくなってしまっただけです」


 彼の言葉通り、時刻はすでに深夜近く、晩餐の時間もとうに過ぎている。昼間の事件の処理をするのに、アロイスはそれだけ手間取ったということだろう。それだけの時間があったというのに、リアーヌにできたのは父からの手紙と恐ろしい小瓶を誰にも見つからない場所にしまい込むことだけだった。心配するオレリアにもろくな言い訳ができなかったし、きっとひどい顔色をしていることだろう。

 眉を寄せたままの表情で大股に歩み寄るアロイスに笑顔を作ろうとして──できなくて。リアーヌは顔を背けようとした。彼女は気遣われるに値しない女なのだから。どうにか言い繕って、疲れているであろうアロイスを休ませてあげなくては。


「良くしていただいているのに、申し訳ございません。私は、大丈夫ですから──」

「貴女は嘘が下手でいらっしゃる」


 でも、どういう訳かアロイスの青い目が間近にリアーヌを見下ろしていた。腰にアロイスの腕が回っているのを感じて、リアーヌは居心地悪く身じろぎする。扉から彼女のいる場所までずいぶん距離があったと思ったのに、アロイスはほんの一瞬でリアーヌを抱き寄せる位置まで歩んでいたのだ。

 リアーヌを抱き締めて、アロイスは囁く。


「これは、やましい思いなどないことです。純粋に、夫として妻を慰めたいと──それも、恐ろしく疎ましく思われるでしょうか」

「恐ろしい……?」


 アロイスの体温に包まれて、耳元に吐息を感じて、リアーヌの胸はどきどきと高鳴る。決して、力が込められている訳ではない。彼女が腕を突っ張れば逃れられる程度のごく優しい拘束だった。アロイスの腕や身体から緊張を感じはするけど、それはリアーヌの反応を窺ってのことだろう。それは、何となく分かる──でも、彼はどうして恐ろしいだの疎ましいだのと言うのだろう。


「……最初の夜に、私はとてもひどいことをしてしまいました。女性に対して、許されないことです」

「ああ……」


 身体の芯を引き裂かれる痛みを思い出して、リアーヌはほんの少しだけ頬を強張らせた。でも、《黒の姫》の悪評を考えれば仕方ないと思っていたのに──アロイスは、彼こそ刃に貫かれたかのような悲壮な顔で彼女を見つめるのだ。


「謝ることさえ認めないということなのかと、思いました。表向きは微笑んで……でも、貴女は私を拒んでいらっしゃる。聞く耳を持たないと、それだけ苦しめということなのかと。何度お聞きしても信じられなくて……事実、貴女はお顔を見ることさえ嫌がっていらっしゃる」

「それは──あの、私の前の夫たちは……その、不幸なことになってしまったので。私を疑われるのも、当然のことだと」


 そもそもは彼の方からガルディーユ王もその娘も信じられないと言っていたのだ。もちろん無理もないことだから、リアーヌも粛々と受け入れたのだけど。それに、アロイスは──というか、リアーヌも? ──何かとんでもない勘違いをしているような気がしてならなかった。彼がリアーヌに触れる時のぎこちなさは、愛してもいない、信用ならない女に対しての警戒や隔意を示していると思っていた。でも、そうではないなんてことが、あるのだろうか。

 信じられない思いで恐る恐る反駁すると、アロイスは固い声と表情で頷いた。


「はい。貴女のかつてのご夫君がたに対しても配慮も敬意も欠けた、あり得ざるべき振る舞いでした。ですから、さぞお怒りなのだろうと弁えています。にもかかわらず、義務を果たすために御心を犠牲にしていらっしゃるのに付け込んで、私は──」

「わ、私……怒ってなどおりませんわ!」


 罪人が罪を告白するかのような悔恨に満ちた眼差しで見下ろされると、リアーヌの方こそ居たたまれない。アロイスの抱擁は、依然としてごく軽いもの。なのに、父からの手紙に打ちのめされて気力も体力も尽きてしまったのだろうか、突き放すことも容易いはずなのに、なぜかできなかった。だから、彼の腕の中に収まったままの格好で、リアーヌは懸命に抗弁した。


「信じていただける理由こそないのですもの。私は……あの、身体も許さずに前の夫たちを裏切ったのかもしれません。父だって、何を企んでいるか分からないと思われているのではないのですか……!?」

「少なくとも、貴女は関係ない。そう信じるようになりました」

「……ど、どうして……?」


 アロイスの腕に一瞬だけ力が篭り、そして再び緩んだ。まるで、思い切り抱き締めようとしたのを辛うじて自制したかのよう。それほどに思われるはずも気遣われるはずもないのに、リアーヌは浅ましく期待してしまう。

 目を瞠るリアーヌの頬に、アロイスは手を添えた。これも、紙一枚ほどの隙間を残しているから、決して触れている訳ではないのだけれど。


「他国を欺く陰謀に加担している方が、犬を撫でて無邪気に喜ぶはずがないでしょう。今日のことは、アデルからも聞きました。羊飼いにまで貴女は配慮してくださった」

「それは……当然のことですわ……」


 父が関与している可能性が高いのはもちろんのこと、平穏な日常を乱された無辜の人を案じるのは当然のことだ。格別に、感心してもらえるようなこととは思えないのに。その程度のことで、アロイスは油断してはならないと思う。彼女は、この室内に恐ろしい毒を隠し持っているのだ。アデルのことだって、忘れてはならないはずのに──


「幸せにして差し上げたいと申し上げましたでしょう。最初から嘘のつもりはございませんでしたが、貴女を知るほどにその思いは強くなるのです。ガルディーユ王に二心があるなら、貴女こそを守って差し上げなければ、と考えています」


 アロイスの言葉は、リアーヌの胸に響いてしまう。父の手紙と託された毒でそもそも揺らいでいたところだから、優しさと誠実さと罪悪感からくる言葉を──それでもリアーヌには相応しくないのは確かだけど──愛情からのものだと、信じそうになってしまう。せめて束の間、縋りたくなってしまう。


「私……アロイス様こそ、私を恐れていらっしゃるのだと思っていました。でも……そうではないのですか……?」


 リアーヌは恐る恐る腕を持ち上げると、アロイスの背に回した。彼女の方から夫を抱き締めるのは、思えば初めてのことだった。これまでの夫を含めてもなかったことだったから、殿方の身体の硬さに慄いてしまう。でも、身体を密着させるのは心地良くて安心する。アロイスも身体を強張らせるけれど──最初はおずおずと、そしてやがて力強く、リアーヌを抱き締め返してくれる。


「私が恐れているのは、貴女を傷つけることです。その……信じてはいただけないでしょうが。懐妊してくだされば解放して差し上げられるし、できるだけ私の顔など見せないようにとは、思っていたのですが……」

「そうだったのですか」


 リアーヌは、アロイスは彼女の姿を見たくないのだろうと思っていた。でも、実際は逆だったらしい。アデルの面影は、押し付けられた妻の顔を見た程度では消えないということなのか。アロイスは、考えていた以上に心に彼女の居場所を許してくれていたのかもしれない。踏み込み過ぎてはならないと、分かってはいるけれど──でも、少しだけ夢を見たい。

 アロイスの胸に頬を寄せて、リアーヌは微笑み、そっと呟いた。


「私は……口づけをしていただきたいと思っておりましたわ」

「──本当に?」


 信じられない、と。アロイスの声と、大きく瞠った青い目が告げていた。リアーヌが顔を上げて目を閉じると、かすかに息を呑む気配が伝わってくる。数秒の間は、彼が悩んだ証だろう。それでも、やがてリアーヌは唇に柔らかく温かいものが触れるのを感じた。


「ん……」


 最初は恐る恐る、ついばむように。けれど次第に大胆になって、角度を変えては何度も唇が重ねられる。熱く湿った感触に驚いて目を開けると、アロイスの整った顔が間近にあって心臓が跳ねる。リアーヌが震えたのを拒絶と捉えたのか、アロイスの腕の力が緩んでしまう──それを遮るようにリアーヌの方から背伸びをするようにして彼の唇を奪う。すると強く抱き締め直されて、より深い口づけが与えられる。

 そしてやっと唇が解放された時、リアーヌの頬はすっかり熱くなり、呼吸も乱れていた。ぼうっとする頭をアロイスの胸にもたれさせて息を吐く時、でも、彼女はこの上なく幸せだった。


「……もっと早く打ち明けていただけていれば良かったかもしれません」

「申し訳ありません。あの、リアーヌ姫──」

「でも、遅すぎはしなくて、良かった……!」


 思い切りの身体を抱き締めて、彼の顔を見ないようにしながら、リアーヌは密かに思う。本当に、良かった。アロイスの心を知ることができて。彼が何と言ってくれようと父の陰謀は恐ろしいし、何より彼女の手は既に汚れている。知っていたかどうか、故意か否かは言い訳にはできないだろう。父が、彼女を毒に頼るような娘だと考えてくれたのは僥倖だった。あの琥珀色の小瓶があれば、自分自身を裁くこともできるから。


「抱き締めていただけますか……? とても、怖いのです……」


 それでも、自ら毒を呑むのは怖いから。今宵だけは、アロイスに縋りたかった。優しいこの方を守り、自由にするためなら彼女の命も恐怖も大したことではないと思えるように。


「もちろんです、リアーヌ姫」


 アロイスは、昼間の襲撃のことを言っているのだと思っているのだろう、リアーヌのおねだりに、躊躇わず頷いてくれた。そして彼女は抱え上げられ、寝台へと運ばれた。




 絹のしとねがリアーヌの身体を受け止めるのと同時に、アロイスの重みによって寝台が微かに軋んだ。仰向けに寝かせたリアーヌに被さりながら、でも、アロイスはこの期に及んで彼女の肌に直接触れることはしない。紙一枚ぶんの隙間を残してリアーヌの頬を包み込んで、彼は囁く。


「よろしいのですね? 本当に、恐ろしくはないのですか……?」

「ええ……! ずっと……こうしていただきたかったですわ……!」


 彼の手の上に自身のそれを重ねて、リアーヌは半ば強引にアロイスの手の温もりを味わった。次いで、腕を伸ばして彼の身体を抱き寄せる。夫の身体の硬さや逞しさは、肌で知ったつもりだったけれど──でも、自ら彼の背に腕を回すことの喜びは、背中から抱えられる時とは比べ物にならない。アロイスが彼女と目を合わせて、微笑んでくれるからだろうか。弧を描いた唇が、彼女の頬や目蓋や額に口づけを落としてくれるからだろうか。


「重くはないでしょうか」

「ちっとも。触れていられるということが嬉しいですわ」


 リアーヌに応えて、アロイスも彼女をしっかりと抱き締めてくれた。横向きに身体を倒し、互いに顔を寄せて口づけを交わしながら、囁き合う。これまでの閨では身体を縮こめるばかりだったリアーヌにとって、アロイスの肌や骨格や筋肉を掌で感じるのは新鮮で嬉しい感覚だった。やみくもに手を振り回して相手の身体を感じようとするリアーヌの手つきは、愛撫と呼ぶには拙いのだろう。落ち着け、と宥められるかのように、アロイスにしっかりと抱きかかえられる。


「私も──こうしたかった。夫婦なのに、と……!」

「夫婦と……思っていただけますの……!?」


 望外の言葉に、リアーヌはアロイスの腕の中で震えた。込み上げる涙を堪えようとアロイスの胸に頭をもたれさせると、彼の心臓も高鳴っているのが分かる。ふたつの心臓の鼓動が重なる音を聞くことができるのは、初めてまともに──我を忘れてのことではなく──正面から抱き合ったからこそだ。

 アロイスはリアーヌの頬に手を添えると、何度も口づけを落とした。唇を開いて応えることを覚えたリアーヌは、絡み合う舌の熱さも、口内への愛撫がもたらす妖しい熱も初めて知った。そして、アロイスの手はリアーヌの服を脱がせにかかり、指と唇はよりの、より敏感な肌を暴いていく。熱い吐息でリアーヌをくすぐっていたアロイスが、ふと顔を上げて、彼女に微笑む。


「はい。最初こそ間違いを犯してしまいましたが。これからは少しずつ心を近づけられれば良いと思っています」

「これから……そう、ですね……」


 甘い感覚に心身を蕩けさせながら、けれどリアーヌの脳裏にひやりとした思いが過ぎる。


(これからは、ない……けど……!)


 これは、幸せ過ぎる夢のようなものだ。アロイスに愛されて永く共にいるのは、アデルのはずだったのだから。たまたま、ほんの束の間の間だけ、間違えてリアーヌがその場所にいるだけ。ならば間違いは早く正してあげなければ。数奇なめぐり合わせを良いことに、快楽に溺れる自身が浅ましく思えてならないけれど。でも──


(今だけ、だから)


 今生の思い出のようなことだから、と。自らに言い訳をしながら、リアーヌはアロイスの少し硬い髪をそっと梳いた。

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