第8話 襲撃

 シェルファレーズが山の国と言っても、峰や谷の間には草地もあるし、牛や馬や羊といった家畜が放牧されてもいる。今日は、リアーヌはそんな牧草地のひとつに視察に訪れていた。といっても大公であるアロイスはおらず、女たちだけの一行だから、遠足のようなものだろう。


 青く澄んだ空の下に新緑が眩しく、さらに点々と白い毛の羊たちが群れる初夏の光景は美しかった。リアーヌの悩みがちっぽけに思えるほど、どこまでも広々として晴れやかで。

 緑の草地を、白や黒や茶色の風が駆け抜ける。それらの色の毛皮を持った牧羊犬たちだ。ちょうど毛を狩る季節とのことで、羊を囲いに追い立てるところなのだという。羊よりもはるかに小さく、数も少ない犬たちは、でも、機敏に走り回って羊の群れを主人の意のままに操っているようだった。冬の間に蓄えた毛をもさもさと揺らして右往左往する羊たちは、慌てているはずなのにどこかのっそりとしていて、そのおかしさにリアーヌは久しぶりに声を立てて笑うことができた。


 ひと仕事を終えた犬たちは、草地の思い思いの場所に寝転んで休息を取ることにしたようだった。でも、白黒のまだらの毛並みの一頭はまだ元気があり余っているのか、見慣れぬ客人──リアーヌの方に尻尾を振りながら近づいてくる。


「リアーヌ様、お気を付けて」

「大丈夫よ。ほら、お利口さんな上に可愛らしいこと」


 女主人を庇おうとしたオレリアの心配は、余計なことだとしか思えなかった。犬は尻尾を振りながらリアーヌの前でちょこんと座り込んでしまった。彼女を見上げる黒い目は賢そうで大人しそうで、何かを期待しているようにも見える。柔らかそうな毛並みに、つい触れそうになるけれど──さすがに、犬の主に無断でという訳にはいかないだろう。


「撫でても大丈夫でしょうか」


 アロイスを通じて物見遊山の女たちを受け入れてくれた羊飼いは、リアーヌに問われて笑顔で頷いた。


「はい。人を噛んだりはしませんので。よろしければ、公妃様からご褒美をやっていただきたく」

「まあ、良いのですか?」


 羊飼いに渡された干し肉を犬の口元に近づけると、一瞬で呑み込まれてしまった。まだ持っていないかと探すように、冷たく湿った鼻先を押し付けてくる仕草がまた可愛らしい。口元から覗く牙こそ恐ろしげだけど、飼い主が言うように決してリアーヌに突き立てることはなく、ただ、肉の残り香を惜しんでか熱くざらつく舌がリアーヌの手を舐め回す。

 ふかふかとした新緑は柔らかく、衣装が汚れる心配をする必要もない。座り込んで犬の毛皮を撫でることに熱中することしばし──リアーヌの頭上に、品の良い笑い声が降って来た。


「大公殿下がこの場にいらっしゃったら、犬になりたいと思われるでしょうね」

「アデル様。まあ、なんて不敬なことを」


 アデルも、今日の外出に同行してくれていたのだ。シェルファレーズの名家の令嬢で、そして公妃候補でもあったという彼女は民の間でも有名なようで、アデルがいるからこそ歓迎してもらえているのではないか、と感じる節も多々あった。つまりは、アロイスもそれを見越してくれたのではないか、とも。

 急に手を止めたリアーヌを咎めるように、白黒の犬が頭をもたげた。が、彼女の隣に腰を下ろしたアデルに首のあたりをくすぐられて、満足そうに眼を閉じるとこてりと横になってしまった。アデルは、犬の扱いにも慣れているのかもしれない。


「それほど、リアーヌ様の笑顔が可愛らしいということですわ。……その、まだ緊張なさいますか……?」


 アデルが声を潜めて仄めかしたのは、アロイスとのことだ。リアーヌは答える言葉を探す前に数秒犬の毛皮を撫でて、柔らかい腹の温かさを楽しもうとした。


「いえ……あの、とても良くしていただいておりますもの。でも……」


 間を繋ごうと意味もない言葉を紡いでも、大した時間稼ぎにはならなかった。だからリアーヌは、今度は押さえつけられて毛を刈られる羊に気を取られている振りをした。ぬいぐるみのように転がされて、されるがままに服を脱ぐように毛を刈られる彼らの姿も微笑ましく可愛らしい。

 アロイスは、シェルファレーズの民の暮らしをリアーヌに見せようとしてくれたのだろうか、とちらりと思いつく。まるで、彼が治める国、彼女がこれから暮らす国を教えてくれるとでもいうかのように。そうだとしたら嬉しいけど──でも、彼女の祖国はこの国に対して何を企んでいるか分からない。アロイスがそれを忘れたはずはないから、きっと、そろそろひとりで遊んで来いということなのだろうと思う。実際、彼がいない場の方がリアーヌはのびのびと楽しむことができるかもしれない。腫れ物に触るようなぎこちない優しさは、仕方のないことだと思っても耐え難い瞬間があるから。


「……大公殿下こそ、気を遣っていらっしゃいますでしょう。甘えすぎてはいけないと、思いますから……」

「難しいお願いをしてしまっているとは存じます。でも、大公殿下もあれでリアーヌ様を心配していらっしゃいますから……。あの、私で良ければ、ご相談に乗りますし……」

「そんな……ご相談することなんて──」


 人間の女ふたりがかりで撫でられて、うっとりと目を瞑る犬がリアーヌには羨ましくてならなかった。彼女だってこんな風になんの憂いもなく手足を伸ばして眠ることができれば良いのに。


(難しい、だなんて……。アデル様……牽制なの? 嫌味なの?)


 アロイスが愛しているのはアデル自身だから、リアーヌが打ち解けるのは難しい、ということなのだろうか。あるいはもっと単純に、リアーヌが大国の出身ゆえに気位が高いから難しい、と思われているのだろうか。ふたりの想いをリアーヌが知っているとは、アデルは知らないだろうから後者のほうがありそうな気がする。でも、その割にアデルの眼差しは真摯で、本当にリアーヌを心配しているようしか見えないから困ってしまう。


「私……私は、十分に良くしていただいていますから──」


 意味もなく犬の耳を倒しては、それがぴょこんと起き上がるのを眺めながら、リアーヌが首を振ろうとした時だった。羊の悲鳴のような鳴き声が辺りに響き渡った。柵の囲いに追い込まれていたはずの羊の群れが、はさみを手にした人間たちを蹴倒して走り出して地が揺れる。音と振動に驚いたのか、寝転がっていた犬も跳ね起きてリアーヌたちの手の下から飛び出していった。


「──何なの!?」


 アデルの叫びを聞きながら、リアーヌはよろよろと立ち上がった。目線が高くなると、つい先ほどまで平穏そのものだった草地のが否応なく視界に入って目が回りそう。右往左往する羊、踏み躙られる草、人は羊を避けて這うように逃げて、犬の吠え声がこだまする。──それに、この混乱をもたらした元凶も、見て取れた。

 馬に乗った男たちが数騎、どこからか現れていた。お忍びのような外出とはいえ、見張りの兵も供の者もいたはずなのに。警告を受ける間もなく現れた騎手たちは、不吉に顔を覆面で隠し、軽装ながら剣を携えている。


(いったい、どこから……!?)


 声にならない悲鳴を上げるリアーヌに、黒い影が迫る。謎の騎兵、あるいは賊は、逃げ惑う羊たちには構わず、まっすぐに彼女たちを目指していた。風の速さで迫る影は、顔かたちを見分けることもできない。でも、狼が牙を剥くように唇が笑んだのが、妙にはっきりとリアーヌの目に焼き付いた。


! !」


(アデル様……!)


 馬の巨体に押しつぶされる恐怖に目を瞑ってしまったから、男たちが誰を指して叫んだのかは分からなかった。でも、見るまでもない。アデルのことに違いない。父が、リアーヌの手紙を読んだのだ。そして、邪魔なアデルのことを狙ったのだ。


「アデル様──」

「リアーヌ様!?」

「危ない……!」


 この方を傷つけさせてはならない。その一念がリアーヌの身体を動かした。アデルの盾となるべく抱き着く──そのつもりが抱き締め返されて、身体の均衡が崩れる。ふたり揃って倒れ込むところにオレリアまでも駆けつけてきて、女三人が固まり合って転がり合って、かえって身動きが取れなくなってしまう。


(ああ、もう……!)


 耳元を駆けぬけるのが怯えた羊か、謎の賊の馬なのか分からない。でも、どちらにしても終わりだ、と思った。武器を持った男たちの前で無様にもがくだけで、逃げ場所も見つからない。兵が助けに入ってくれるよりも、凶刃がアデルを襲う方が早いだろう。

 せめて自身の肉体で少しでも刃を受け止めようと、アデルの柔らかな身体に回した腕に、リアーヌは力を込めた。──でも、意外にもいつまで経っても、痛みが彼女を襲うことは、なかった。


 リアーヌが恐る恐る顔を上げると、草地には新たな騎馬の一団が現れていた。とはいえ賊の増援ということはないようだった。先ほどまで犬が羊を追っていたのを模すように、鎧で武装した騎士たちが賊を追い散らしているところだったのだ。


「貴様らは何者だ!? この方をシェルファレーズの公妃殿下と知ってのことか!?」


 混乱の只中に朗々と響いた声に、リアーヌの心臓は跳ねた。の声だと思ったから。どこからか現れて、助けに来てくれたのかと、あり得ないような期待をしてしまう。


(アロイス様……!?)


 声の主を求めて首を巡らせて──でも、リアーヌはほんの少しだけ落胆を味わうことになった。新たに現れた騎士たちを指揮しているのは、アロイスではなく弟のフェリクスだった。兄妹ならば容姿だけでなく声も似ているのは当然のこと、聞き間違えても無理はなかった。


「ひとりも逃がすな! どうして公妃を狙ったかを吐かせるのだ」


 ともあれ、フェリクスが指揮する一団によって危険は回避された、のだろう。すでに賊の何人かは馬から引きずり降ろされ、縄で縛られている。残りも、騎士たちに負われながら山の斜面に消えて行った。


「リアーヌ様、もう大丈夫そうですわ……」

「え、ええ」


 アデルにしがみつくような格好になっていたことに気付いて、リアーヌは慌てて腕の力を緩めた。これでは、守るというより足手まといになってしまうところだった。気恥ずかしさと居たたまれなさに赤面したところに、満面の笑みのフェリクスが彼女たちの方に近付いてきた。


「アデル、無事だったか……!?」

「フェリクス、順番が逆でしょう。まずはリアーヌ様を気遣いなさい!」

「いや、つい……」


(いいえ……無理もないことよ……)


 アデルは、フェリクスとも親しいようだった。大公の一族をさりげなく呼び捨てにしたのが物語っている。リアーヌの立場を慮ってくれたようなのは嬉しいけれど、嫌いな相手より親しい相手の方を案じるのは人の情というものだろう。だから、フェリクスが咎められる理由はまったくない。そもそも、あの賊はアデルを狙っていたのだろうし。

 だからきっと、アロイスでも同じように真っ先にアデルに駆け寄ったはず。それは当然のことなのに──その場面を想像すると、なぜか胸が苦しくなった。


 だから、来てくれたのがアロイスでなくてきっと良かったのだ。

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