第7話 不可解な優しさ

 リアーヌとアロイスは、政略結婚としては理想の関係を築いている。──というか、リアーヌの主観では、お互いにそうと信じられるように必死の演技を続けている、と思う。お互いに礼儀正しく、にこやかに接して、民や臣下の前では微笑み合う姿を見せて。ふたりきりの寝室でさえもずっと笑っているものだから、ともすると本当に愛し合ってるのではないかと信じかけてしまいそうになるほどだ。

 でも、そのような美しい幻に浸っていられるほど、リアーヌは愚かでもないし盲目でもない。アロイスがいかに見た目の優れた夫で、しかも優しく寛容で、彼女を丁重に扱ってくれるとしても。どこか遠慮やぎこちなさがあるのが分かってしまうのだ。


 とにかく、リアーヌとアロイスは、並んで長椅子に掛けて語らえるようにはなった。身体を触れ合わせるほどの近さに、ではないけれど、これも進展ではあるのだろう。相手の温もりも感じ取れる近さゆえに、アロイスの身体が緊張に強張っているのも伝わってしまうのだけど──それには気付かない振りで、リアーヌは無邪気にはしゃいでみせた。


「今日も素敵な一日でした。山の中にもあんな大きな湖があるなんて。とても綺麗な深い色で……!」

「海をご存じの方にお見せするのもお恥ずかしいですが。でも、夏は水遊びができますし、冬は氷の上を滑ることもできますから」

「まあ、楽しみですわ」


 無邪気にはしゃぐのも、なのだけど。だって、ほら。ひとしきり笑い合うと、気まずい沈黙が降りてしまう。太公と公妃として人前に出ている間は、周囲の者たちも何かと話しかけてくれるけれど、ふたりになってしまうと何を話せば良いか分からないのだ。


(先のことなんて……分からないのに)


 アロイスは、本当にリアーヌを冬の遊びに誘ってくれているのだろうか。領地の名所を案内するのは、遠方からやってきた妻に対して当然のことではあるのだろうけど。《黒の姫君》が自身に不幸をもたらすことや、祖国ガルディーユの陰謀が牙を剥く可能性だって考えないではないのだろうに。その上で、父を憚って何も気にしていない振りをしてくれているのだとしたら。リアーヌの方も、呑気に笑っていて良いとは思えないのだ。

 リアーヌに付き添う間、アロイスは政務に触れることはできていないことでもあるし。


「……毎日のようにあちこちに連れていただいて、とても嬉しいですわ。でも、ご政務の方は滞ってはいないでしょうか」

「政務といっても小さな国のことですから。私の決済が不要なものについては、フェリクスも処理してくれているのですよ。あの者には良い勉強になります」

「フェリクス様……では、私にお怒りでしょうね……」


 実のところ、城内でたまたますれ違う時など、フェリクスは射殺さんばかりの鋭く険しい目つきで睨んでくるのだ。もちろんその理由は政務を押し付けられたからではなく、リアーヌがアデルを侍女にするようアロイスに働きかけたからなのだろうけれど。兄への想いを知った上で嬲り者にするような仕打ちは何事か、と。その怒りはまことに正当なものだから、リアーヌは目を伏せて過ごすしかない。


(あの方が目を光らせていれば、アデル様は無事……だと良いのだけど)


 父からの返信はまだないけれど、リアーヌの手紙はもうガルディーユに届いただろう。娘の夫に想い人がいることを知って、父が何を思い何を為すのか、リアーヌとしては気が気ではない。

 リアーヌが笑顔を曇らせた本当の理由は知らないだろうに、アロイスは穏やかに微笑むと彼女の頬を包むように手を延べた。決して、本当に包み込みはしないのが、きっと彼の本心を示していると思う。


「仕事を放り出しているのは私なのですからリアーヌ姫はお気になさらずに」

「でも──」

「いえ、これも仕事のうちでしたね。貴女にシェルファレーズの良さを分かっていただくのは、大公の──夫の役目と言えましょう」


 アロイスは義務としてリアーヌに付き添っているのだと言おうとしているのだろうか。だから気にするなと言うのなら、一応はもっともなことではある。だからリアーヌは大人しく頷いて、夫の気遣いに礼を述べることにした。


「はい。ありがとうございます」

「早く、心から寛いでいただけるようになりますように」


 どうみても寛げていない様子のアロイスがそんなことを言うから、リアーヌはまた返す言葉を見失ってしまう。沈黙に耐えかねたのか、アロイスは困ったように首を傾げた。


「……そろそろ、休みましょうか」

「はい、アロイス様」


 そう言いながら、横になって寝るだけではないのはふたりとも承知している。アロイスが仄めかしたことには触れないまま、リアーヌは彼の手を取った。閨を共にしようという時にならないと、彼女たちは肌を触れ合わせることをしないのだ。




 夜の闇と静寂を、寝台が軋む微かな音とふたり分の吐息が乱していた。


「ん……」


 それに、リアーヌが思わず漏らしてしまった甘やかな声が。アロイスは、初夜にあったことも「なかったこと」にしてくれているのだ。彼女に触れるのを恐れていたかのようなあの夜とは一変して、彼はリアーヌの全身に掌と唇を這わせ、恥ずかしくて居たたまれないほどじっくりとゆっくりと、身体を解してくれる。


(どうして……?)


 どうしてアロイスはこんなに優しいのだろう、と。唇を噛み、顔を腕で覆いながらリアーヌは思う。彼女の声も姿も、アデルとはまるで違うのだから。愛する人と違う女と閨を共にしている後ろめたさを、できる限りアロイスが感じないようにしてあげなければならない。そのためには、どうしても分からない疑問に思いを馳せるのがちょうど良い。結婚の二日目以降のアロイスの優しさと気遣いは、どう考えても不可解としか言いようがないのだから。

 彼女自身の不吉な噂と、前夫たちの死に関するおぞましい疑い。父の不審かつ高慢な。アデルの存在。祖国の機嫌を窺うにしても、シェルファレーズの地理なら彼女を閉じ込めて手紙を握りつぶすこともできるはず。最初の夜の扱いが当然であって、優しくする必要などないはずなのに。世継ぎは欲しいから、だけでは理由にならないと思うのに。


「お顔を見せては、いただけないのですね」

「……恥ずかしいですもの」


 どういう訳か残念そうに呟くに、リアーヌはごくごく小さな声で答えた。それも、完全な真実ではないのだけど。アロイスの顔を間近に見るのも、自分の顔を見られるのも恥ずかしいのは本当だけど──いちばんの理由は、アロイスは彼女の顔など見たくないだろうから、というものだった。

 彼女の考えが当たっているのか、あるいは嘘を信じてくれているのか。アロイスはリアーヌの顔から掌を剥がすことはしないでいてくれた。手の甲に唇の柔らかさを感じたのも一瞬、彼の身体がリアーヌに覆い被さってくる。


(ああ……アロイス様……)


 優しく抱き締められる温もりは、この上なく心地良い感覚だった。アロイスはリアーヌを愛している訳ではないということに目を瞑れば、彼女が長らく夢見ていた幸せな結婚の想像に、限りなく近いかもしれない。

 我を忘れたで、リアーヌはアロイスの背に腕を回した。心は、依然として遠いのだろうけど。気遣いの結果でしかない幸せなんて、長続きはしないのだろうけど。今、この時だけは。愛し合う夫婦であるかのような幻に浸りたかった。

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