第6話 やり直し

 夜になってリアーヌの部屋を訪れたアロイスは、長身を縮めて、ひどく申し訳そうな顔をしていた。


「……またお会いいただけて、大変嬉しく思っております」

「まあ、どうして? 夫が妻を訪れるのに、遠慮がいるはずありません」


 一方のリアーヌは、午後いっぱい考えた末に、笑顔を纏うことができるようになっていた。

 アロイスは多分、彼女に無体を働いてしまったと思って罪悪感に駆られているのだ。花も菓子も、見舞いというよりは償いの意味が大きいのだろう。でも、彼が気に病む必要はまったくないのだ。無辜の女性への暴行は恥ずべき大罪だろうけど、夫が婚礼を挙げた妻を抱くことに何の非があるだろう。リアーヌの評判を考えれば警戒するのも手荒くするのも当然のこと。祖国ガルディーユの機嫌を損ねはしないかと恐れてしまっているであろうアロイスこそ、むしろ被害者とさえ言えるだろう。ならば、彼女はまったく気にしていない、祖国に言いつけるようなことではなかったと、安心していただかなくては。


「私こそ、朝はまともにご挨拶もできなくて、申し訳ございませんでした」

「ですが──」

、お花とお菓子をありがとうございました。お心遣い、大変嬉しく受け取りました」


 昨夜の話はもう終わり、と。リアーヌは強引にアロイスの言葉を遮った。彼が弁明しようとすれば、《黒の姫君》の評判や実家の思惑、前の夫の不審な死に触れなければならないはずで──でも、一方ではっきりと口に出せるようなことではないだろう。彼女としても、一応は夫である方から面と向かって言われたいようなことではない。


(どうか、もう仰らないで)


 必死に口元を笑ませ、視線で想いが伝わるように願いながら、リアーヌはアロイスに口を挟む隙を与えず喋り続けた。


「今日も、本当は色々と準備してくださっていたのでしょうに。休ませていただいたから、身体はもう心配ございませんの。明日からは、是非ともシェルファレーズを案内してくださいませね」

「はい……それは、もう」


 アロイスはまだ何か言いたそうだったけれど、ぎこちなく頷いてくれた。既に閨を共にしたというのに、ふたりの距離は卓を挟んで微妙に、遠い。隣り合って座ることも、手を取り合うこともなくて。でも、心の距離に比べれば、まだずっと近いのだろう。


「ガルディーユの繁栄には遠く及ばないのでしょうが──我が国も、風景の美しさは誇れましょう。民も素朴ですから、きっとお心を安らがせることができるでしょう」

「ええ。遠くからお城を拝見するだけでも見蕩れてしまいましたから。皆様の暮らしを間近に見るのはとても楽しみですわ」


 リアーヌがシェルファレーズに輿入れした表向きの理由は、度重なる服喪や直前の結婚で経験した戦乱での気鬱を晴らすため、ということになっている。祖国に利益を結婚をあえて望んだなどと、シェルファレーズに対してはあまりに無礼で言うことはできないから。その建前でさえもアロイスを納得させるにはほど遠いのだろうに、彼は疑いは封じて微かに笑ってくれる。後ろめたさも不審も拭いきれてはいないのだろう、引き攣った表情ではあるけれど──笑顔は、笑顔だ。


「美しい花嫁にお目通りするのを、民こそ楽しみにしております」

「まあ、嬉しい……!」


 アロイスは、リアーヌが既に弟のフェリクスと会って話したのを知らないらしい。フェリクスの発言は兄大公の意思とはかかわりがなく、あくまでも彼個人の見解、ということなのだろう。


(本当に……優しい方ばかり、なのね……)


 目の奥が熱くなるのを堪えて、リアーヌは膝の上で拳を握った。自分に言い聞かせるのは、決して欺瞞でも強がりでもない。


 疑念も、アデルへの想いも押し殺して礼儀正しく接してくれるアロイスも、兄と民を代弁して諫言してくれたフェリクスも。ふたりとも、とても優しい。特にフェリクスは、ガルディーユを憚って本心を明かせないであろうシェルファレーズの民の心を教えてくれた。実は疎まれていると、知っているのと知らないのでは話がまったく違ってくる。少しでも高慢を感じさせないように振る舞わなければ、と思えるのはフェリクスのお陰だった。


 意識して微笑みを保つリアーヌに、アロイスも強張った笑みを返してくれた。椅子が動く音がして、彼の身体がほんの少しだけ、彼女に近づけられる。


「思いがけず、美しく高貴な方をお迎えすることになって、大変光栄に思っております。その……お許しをいただけるならば、貴女の御手を取ってもよろしいでしょうか」

「もちろんですわ、アロイス様」


 力を込めすぎて痺れそうな指をそっと開いて、リアーヌは手を卓の上に置いた。アロイスの傍まで手を伸ばすのは、図々しく思われるだろうか。でも、これ以上彼に近付いてもらうのも、まだ少し怖いし申し訳ない。恐れがあるのはアロイスの方も同じなのだろうか、それとも昨日のことをまだ憚ってくれているのだろうか。ふたりの手は、丸い卓のちょうど真ん中あたりで指先だけを触れ合わせるだけの形に収まった。


「不釣り合いなご縁と言う者もいるでしょう。ですが、お迎えした以上は全力で幸せにして差し上げたいと思っております。ですから、どうか──」

「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします」


 昨日のことはなかったことに、ということだと察して、リアーヌは夫に皆まで言わせず後を引き取った。初夜でのことはお互いにとっての失態であって、くどくどと続けるだけ、ふたりともが傷つくだけに終わるのだろう。だから、綺麗に忘れてやり直しにした方が良いはずだ。


(……これが、国同士のための結婚ならとても素晴らしい始まりだったわ)


 たとえぎこちなくても、夫に他に想う人がいるとしても。お互いに譲歩し歩み寄る姿勢で臨むことができるなら、政略結婚としては願ってもない幕開けだっただろう。時間をかければ、信頼関係や穏やかな情愛を育むことも、もしかしたらできたかもしれない。

 でも、実際はそうではないのだ。リアーヌは身勝手な我が儘で押しかけたに過ぎないし、アロイスからすれば過分の援助は屈辱的にも思えるはず。父の思惑も、どこにあるものだか分かりはしない。


(嘘を吐いてしまって、申し訳ありません)


 笑顔のままで、リアーヌは心の中でだけ、アロイスに謝罪した。でも、押し付けられた妃に対して礼儀と優しさで接してくれる彼に、彼女は絶対に相応しくない。彼の隣での幸せなど、リアーヌは決して望んではいけないのだ。少なくとも、父がこの国に対して悪い企みを抱いていないと確信できるまでは。


 夫に勧められた酒杯に口をつけながら、リアーヌは頭の中でを練り始めていた。




 シェルファレーズに到着して二週間が経った頃、リアーヌは祖国に宛てて手紙を出すべくペンを執った。文面はとうに決まっていたのだけれど、それくらいの間を置かなければ信憑性しんぴょうせいがないだろうと思って機を窺っていたのだ。


 ──シェルファレーズのアロイス大公は見目麗しく優しく礼儀正しく、生涯を添い遂げるに相応しい方だと思います。この国の風景も美しく人々の心は温かく、またとないご縁を見つけてくださったお父様のご慈悲に心から感謝申し上げます。


 まずは、当たり障りのないことを書いた。特に、夫に満足しているというくだりは重要だ。リアーヌの偽りのない本心でもあるから、この部分をしたためるうちは、ペンの運びは滑らかだった。──を織り込むのは、ここからだ。


 ──でも、気になることがひとつだけ。アロイス殿下は、妻である私のほかに想う女性がいらっしゃるようです。殿下は私に貞節を誓ってくださいますし、お相手の方の名誉のためにも名前を挙げることはできません。でも、新婚の身で、夫がしばしば熱い眼差しをほかの女性に送っているのを見るのは大変辛いことです。王女に生まれ、今は公妃である私が、声高に夫や相手のことをなじるのも、外聞が悪いことと存じます。誇り高く賢い妃であるためには、どのように振る舞えば良いものでしょうか。お父様の教えを、伏して乞うものでございます。


 書き上げてからインクが乾くまでの間、リアーヌは自身の手跡を、それが紡いだ文章をじっくりと眺めた。そして、娘からの手紙を読んだ父が何を考えるかに思いを馳せる。


(叱るか、励ましてくださるだけなら良いと思う、けれど……)


 国同士の結婚において、正妻のほかに夫が心を傾ける相手がいても、妻を蔑ろにするとか後継者争いを発生させるとか、明らかな落ち度がなければ問題にはならないだろう。ましてリアーヌは新婚なのだから、泣き言を言うには早すぎる。普通は冷静かつ気丈に振る舞うようさとす程度で、実家が何かしらの行動を起こすことはないだろう。──でも、リアーヌがずっと恐れているように、父が前の夫たちの死に関わっていたら? 今回の結婚についても、リアーヌに知らされていない企みがあるとしたら?


 計画を邪魔する者──シェルファレーズ大公の愛人を排除するべく、策動するかもしれない。


 アロイスに手を出すには、やはりまだ時期尚早のはずだから。狙われるとしたら「想い人」の方だ。愛する──とは言わずとも尊敬できる夫の、愛する人に万が一にも害が及んではいけないから名前はぼかしたけれど、父はどのような反応を示すだろう。


「後は……封をしないと……」


 騒めく胸を宥めながら、リアーヌは手紙を折りたたむと封蝋を手に取った。火にかざした蝋が溶け落ちて紙の上に滴る様を眺めながら、思う。


(身の振り方を決めるのは、を見届けてからよ……!)


 父の返信が、ごく常識的なものであれば良い。それなら、リアーヌはアロイスを支えることに専念して、折を見てアデルと結ばれるように身を退こう。美しいシェルファレーズの山で四季が移ろうのを眺めながら過ごす人生は、孤独だとしても悪いものではないはずだ。アデルが愛人の立場に留まらなければならないのは、本当に申し訳ないと思うけれど。


(でも……そうならなかったら……!?)


 これまでの嫁ぎ先からも、実家への手紙は何度となく送ったものだ。その度に行った手順はリアーヌの身体に染みついていて、だから彼女の手は迷いなく固まりかけた蝋に印章を押す。彼女の紋章がはっきりと刻まれた封蝋を剥がすことは、もうできない。それでも、手放してしまうのがなぜか怖くて、手の中の紙片を睨むように見つめていると──


「リアーヌ様、お手紙が書き上がったのでしたらお預かりしますわ」

「え、ええ……!」


 控えていた侍女がそっと声を掛けてきたので、リアーヌは小さく飛び上がった。もちろん、公妃の私信を覗き込むような者はいない。彼女も、しっかりと封がされるのを見計らっていたのだろう。それでも、リアーヌの胸は苦しいほどにどきどきと高鳴ってしまうのだけど。


「お願いします、様」


 だって、リアーヌが手紙を渡したのは、名前を出さなかったとはいえ彼女が文中で非難した「夫の想い人」その人だ。シェルファレーズの倣いをよく知る同年代の女性が身近に欲しいとアロイスにねだったら、予想通りに彼女をつけてもらえたのだ。

 間近に接したアデルはやはり美しく聡明で、所作にも言葉遣いにも気品と気遣いの溢れる方だった。憎んで当然のはずのリアーヌにも、この方は優しく微笑みかけてくれるのだ。


「私などを、そのように丁寧にお呼びいただかなくてもよろしいのですのに」

「いいえ、でも、年上の方ですから」


 二十歳を幾つか越えたアデルが未婚でいる理由を思うと、リアーヌは申し訳なくて居た堪れない。きっと、誰かしらの喪が明けるのとか、何かしらの記念日とかを待ってアロイスと結ばれるはずだったのだろうに。


「それでは、少し外させていただきますわね」

「はい」


 アロイスを独占しているのを、見せつけるような格好になってしまって、リアーヌも心臓を切り刻まれる思いでいるのだ。もちろん、アデルの心痛には遠く及ばないのは分かっているけど。でも、父が彼女に害意を向ける恐れを考えると、リアーヌの傍にいてもらった方がまだ危険が少ないと思うのだ。


(きっと、もう少しの辛抱ですから)


 父への手紙を胸に抱いて背を向けたアデルに、リアーヌは心の中で詫びた。父からの返事がどうであれ、リアーヌは長くアロイスの傍にいるつもりなどないのだ。それに──父の動き次第では、永久に彼らの前から姿を消すこともできるかもしれない。

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