第5話 義弟フェリクス

「──フェリクス様……」


 数秒をかけて、リアーヌは目の前に現れた人物の名前を思い出した。書面の上では何度も目にしていた上に、昨日の婚礼にあたって顔合わせもしていたから、記憶に残っていたのだ。名前を呼ばれたその方は、深い青色の目をやや芝居がかって見開いてみせた。


「覚えていただけているとは光栄です。さすが、抜け目がないですね、義姉あね上?」

「お兄様によく似ていらっしゃるから……」


 フェリクスは、リアーヌが嫁いだアロイス大公の弟なのだ。それでも彼女よりも年上だというから、わざわざ義姉と呼ぶのは含みがあってのことだとしか思えなかった。何より、フェリクスの目は明らかにリアーヌを鋭く険しくにらんでいた。アロイスと同じ濃い金の髪に、やはり同じくらいの長身でめ下ろされていると、夫──と呼んで良いのかどうか──に叱責されているような気分になってしまう。事実、決して行儀が良いとは言えないことをしていた自覚があるから、リアーヌはそっと目を伏せた。


「休ませていただいていたら気分も良くなったので、綺麗な空気を吸わせていただこうと思ったところでした。それで……あの、大公殿下のお声がしたものですから……」


 弁解しようと言葉を並べても、それらは結局言い訳でしかなかったし、フェリクスの心証を良くする役には立たなかったようだ。冷ややかな目で見下ろされる居たたまれなさに、リアーヌは溜息を吐くと踵を返そうとした。


「──あの、申し訳ございません。盗み聞きするつもりはありませんでしたの。……やはり、体調が万全でないようなので失礼させていただきます」


 ひとりでの気ままな散策ならまだしも、体調が悪いのは全くの嘘ではないのだ。身体の内側から響くじくじくとした痛みを抱えながら、敵意もあからさまに睨んでくると向き合うのは、今の彼女には荷が重い。

 ほんの少し目を上げれば、空は青く雲は白く、芽吹いたばかりの緑は瑞々しい。美しく壮大な景色が広がっているというのに、リアーヌの存在はどうしてこうもちっぽけで、後ろめたさにおどおどとしてしまうのだろう。惨めな思いで逃げ帰ろうとしたリアーヌの腕を、でも、フェリクスはしっかりと捕まえてしまった。そのまま、進もうとしていたのとは逆の方へ、ぐいと引っ張られる。


「兄が誰と話しているか気になるのでしょう。よく見えるところにご案内しますよ」

「あ、あの……」


 フェリクスの手つきは、エスコートの優雅さや上品さとは無縁の遠慮のないものだった。リアーヌが痛みに顔を顰めても足をもつれさせても構わないで。抗議のために開こうとした唇も、黙れと言わんばかりの一瞥で封じられてしまう。当然のようにフェリクスもこの行動の理由を説明してはくれず──リアーヌは、訳も分からないまま見事なオークの大木の影に引きずられていた。痛みと不審に顔を歪めるリアーヌを見下ろして、フェリクスは冷たく嗤った。


「兄の妻に手を出したりはしませんとも。何を心配なさっているのですか──それとも、期待を?」

「そんな……!」


 心外なことを言われて、そして夫以外の殿方とふたりきりの状況に気付いて、リアーヌは言葉を詰まらせた。怒りと羞恥と不安によって頬を紅潮させた彼女には構わず、フェリクスはまだ何ごとかを言い合っているアロイスと、相手の女性を顎で示した。


「──トルイユ家のアデル嬢です。綺麗な方でしょう」

「……はい」


 フェリクスが挙げた家名は、シェルファレーズの大公家に仕える貴族のひとつとして覚えがあった。その家に娘がいるか、かつ何歳かまでは把握していなかったけれど。とにかく、フェリクスの呟きには異論の余地がない。艶やかな栗色の髪と同じ色の目のアデルという女性は、美しく背が高く知的な雰囲気を纏っていて──アロイスと非常に似合っていると見えた。微かに眉を寄せているのではなく微笑んでさえいたら、恋人たちが密かに語らっているところにしか見えないだろう。それほどに、ふたりは親しげな気の置けない雰囲気を醸していた。


「盗み見も良いことではないですからね、行きましょう」


 リアーヌの顔色が変わったのをしっかりと見届けたのだろう、フェリクスは幾らか柔らかに微笑むと、再び彼女の腕を取った。今度は引きずられるような形ではないから、身体の痛みを誤魔化すのは先ほどよりも楽だった。でも、胸を刺す痛みはずっと──朝よりも鋭く激しくリアーヌを苛んでいた。




 アロイスたちがいたのとは正反対の片隅に設けられた東屋あずまやにたどり着くと、フェリクスはやっとリアーヌの腕を放してくれた。崩れるように石造りの椅子に腰を落とすと、その衝撃が身体の奥の傷に響いた。でも、リアーヌは悲鳴も呻きも漏らさないように唇をきつく噛み締める。初夜の床で何があったかなどと、余人に知られることではない。新妻に苦痛を感じさせたことは、もしかしたら夫にとっては恥になるかもしれないのだから。


「兄を──大公を盗み見る非礼を犯したのは、貴女にご自身の立場を分かっていただきたかったからです」


 幸い、フェリクスはリアーヌの顔色には頓着していないようだった。不吉な《黒の姫》に触れては不幸が感染うつるとでも言いたげに、彼女の腕を取っていた方の手を服で拭っている。話をするには微妙に遠い距離を保っているのも、同じ理由だろうか。夫でもない殿方とふたりきりでいるこの状況には、当然の配慮と思えば良いのかもしれないけれど。

 リアーヌが衣装の裾を整えてきちんと座ったのを見計らって、フェリクスは切るような態度で口を開いた。


「アデルは、ガルディーユの横槍がなければ公妃になっていたはずの女性です」

「……はい」


 その言葉は、予想がついていたことではあった。でも、自身の思慮の足りなさをまた突き付けられて、リアーヌの声はか細く震える。若い未婚の君主が、結婚相手について何も考えていないはずはなかったのだ。リアーヌとの縁談が降って湧いたものである以上、シェルファレーズの人々にも彼らの思い描く未来図というものがあったはずで──それを台無しにされたと思うからこその、フェリクスのこの冷ややかな態度なのだろうか。答えは、考えるまでもないように思えた。


「聡明な人でもあります。だから、大国の援助をにしてまで立場を主張されることはなかったが──御国のやり方に眉を顰めている者も少なくはない」

「……はい」


 立ったままのフェリクスから見えるのは、リアーヌの銀の旋毛つむじだけだろう。それくらい深く、彼女は俯いてしまっていた。彼女のささやかな──と、思っていた──願いが、どれだけの人々に影響を与えたか。そして、幸せな夫婦となったはずの方たちをどれほど手ひどく踏みにじったのかを懇切丁寧に説かれては、まともにフェリクスの顔を見ることなど恐ろしくてできはしない。

 でも──フェリクスは自身の言葉がリアーヌに届いたのを、確かめたいと思ったようだ。リアーヌの膝に、彼の影が黒く落ちてフェリクスが近づいたのを教える。顔を上げろ、と促されたのだと察して、リアーヌは恐る恐るその無言の命令に従った。そうすると、と同じ色の目が彼女を鋭く見据えている。


「シェルファレーズの国の由来はご存じですか」

「……平地から追われた方たちが築いた、と……」


 乳母のオレリアから教えられたことを思い出して答えると、フェリクスは満足そうに頷いた。


「そう。迫害から逃れて山を切り拓いたのが我らの先祖です。だから不正は許しがたいと思うし、国民の結束も固く、反骨心も旺盛だ。我らの忠誠は金で買えるものではないと、心得ておかれるのが良いでしょう」


 リアーヌが見上げるフェリクスの顔は、太陽の逆光によって陰っていた。無礼で高慢な女に言い聞かせてくれるのは親切なことだろうに、どこか獰猛な気配を漂わせる笑みが、恐ろしいと思ってしまう。影の中でひときわ目立つぎらぎらとした目や、白い歯が牙を剥く狼を思わせてしまって。きっと、フェリクスはリアーヌに掴みかかりたいのを堪えているくらいなのだ。

 フェリクスは、所作だけは美しく滑らかにリリアーヌの前に膝をついた。でも──恭しく彼女の手を取る瞬間に、歯軋りが聞こえはしなかっただろうか。


「……今日の予定は最初から欠席する予定だったのですよ。貴女が兄の隣にいるところを見たくなかったから。思いがけない不快な機会ではありましたが──ご忠告できたのは、良かった」

「痛み入ります。ありがとうございます」


 フェリクスの眼差しが恐ろしくて、リアーヌは目を背けながらやっとそれだけを呟いた。別れの挨拶なのだろう、手の甲に風の流れを感じたけれど、唇の熱は触れなかった。フェリクスは形ばかりリアーヌの手を顔に寄せただけで、口づけをする気はないようだった。

 フェリクスの影が遠ざかり、うららかな春の日差しが再びリアーヌを照らすようになった。当たりは再び穏やかな静寂に包まれ、風の香りも爽やかでかぐわしい。


 でも、リアーヌは冬の雪原にひとり取り残された思いで、長くその場に固まっていた。




 昼餐ちゅうさん前にリアーヌが自室に戻ると、笑顔のオレリアが迎えてくれた。


「まあ、リアーヌ様。そろそろ探しに参ろうかと思っていたところですわ。お庭の様子はいかがでした?」

「ええ……とても綺麗で可愛らしかったわ……」

「そうですか!」


 リアーナが部屋を出た時、オレリアは女主人の破瓜の出血に驚き慌て、アロイスの後朝きぬぎぬが冷たすぎると憤っていた。それを宥めるのが億劫なこともあってひとりの時間を求めたのだけど、打って変わったようなこの上機嫌はいったい何があったのだろう。


(機嫌が直ったなら、良いのだけど……)


 心身の疲れも蓄積していたから、リアーヌは気のない返事をしただけで長椅子に座り込んだ。昼餐は風邪を引いた時のように寝台に運んでもらうようにしようか、と考えて──食事時には相応しくない、甘い香りが鼻をくすぐるのに気付く。


「……お菓子?」

「ええ! 大公殿下からの贈り物ですよ。蜂蜜をたっぷり使った、焼き立てだとか。これも小さなお城だからこそなのでしょうね。それに、ほら、こちらのお花も!」


 リアーヌが首を傾げるのを待っていたかのように、オレリアは勢い込んで迫って来た。その手には、焼き菓子を詰めた籠がある。それに、彼女が目線で示した先には、朝にはなかった花瓶に白い薔薇が活けられている。

 甘い香りを漂わせる籠をリアーヌに捧げて、オレリアは屈みこんだ。


「今朝は心配させられてしまいましたけれど、これだけの気遣いができるなら悪い方ではないのかもしれませんね。お食事前ですが、おひとつ召し上がりますか?」

「ええ……」


 乳母の笑顔に勧められるまま、リアーヌは焼き菓子をひとつ手に取った。指先に伝わる温かさに、確かに厨房から届けられたばかりのものだと分かる。ひと口齧り取れば、蜂蜜の優しい甘味がじんわりと口に広がった。


「甘い……とても美味しいわね」


 味わいながら菓子を咀嚼するリアーヌの頬を、涙が伝った。


「リ、リアーヌ様!? どうなさったのです!? お身体が……!?」

「いいえ。大丈夫。嬉しいのよ」


 オレリアがおろおろと手を差し伸べるのには構わず、リアーヌはぽろぽろと涙を零し続けた。


 アロイスが菓子と花を手配したのは、アデルという女性と会う前だろうか、後だろうか。その心遣いは、本来アデルが享受するべきだっただろうに。押し付けられた妻を抱いた後で、想う方とどのような気持ちで会って、何を話したのだろう。ふたりが言い争っていたのは、リアーヌのせいに違いない。リアーヌさえいなければ、あのふたりは微笑んで語らって──抱き合うことも、できたはずなのに。

 勝手な願いで混乱を招いてしまったシェルファレーズに、引き裂いてしまった恋人たちに、どう償えば良いのだろう。


「想っていただけて……嬉しいの……」


 渇いた声で嘘を吐きながら、リアーヌは必死に考えていた。どうすれば、この国に平穏を取り戻させることができるのかを。

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