第4話 《黒の姫君》の遍歴

 昼過ぎになって目覚めたリアーヌは、身体を清めて着替えた後、ひとり王城を散策することにした。祖国からついて来てくれた侍女や従者も、シェルファレーズで新たにつけてもらった使用人もいるけれど、誰であっても気を遣わせてしまうだろうから。彼女の方でも、話題を探したり言葉を選んだりする心の余裕はなさそうだったし。

 乳母のオレリアは無作法だとか無用心だとか気にしていたようだけど、ガルディーユから嫁いできた姫を害する勇気がある者は多分この国にはいないだろう。彼女に何かあれば祖国が黙ってはいないと、父は十分に見せつけたはず。


 主役であるはずの花嫁がいなくても、城内では何かしらの式典や宴が催されているのかもしれない。リアーヌに与えられた部屋に近い奥まった一角は、ごく閑散としたものだった。人の目や声に煩わされず、ひんやりとした山の空気を吸い、城壁の狭間から遥か下の森を眺め、可愛らしい花の咲く庭園を歩くのは多少なりともリアーヌの気分を上向かせてくれる。たとえ一歩踏み出すごとに、身体の芯がずくりと痛むとしても。


(知らないお城を探検するのには、慣れているもの……)


 リアーヌのこれまでの人生は、移動の連続だったのだ。結婚のたびに夫の国の夫の居城に引っ越したし、実家に戻った時も、数年が空けば新たに建てられた離宮だとか大幅に改築された一角だとかが待っていたものだ。新しい場所を訪ねるのが楽しいと思えたのは、本当に幼い間だけだったけど。その頃の冒険心を思い出そうと心の奥底を紐解きながら、リアーヌはそろそろと足を進めた。




 最初の結婚は、七歳の時だった。相手は、祖国ガルディーユと国境を接するランブールのジェラール王子。結婚当初、ジェラール王子は十五歳だったから、妻というより新しく妹ができたような感覚だっただろう。リアーヌにとっても優しい「お兄様」ができたようで楽しかった。お人形遊びにつき合ってもらったり、絵本を読んでもらったり──ジェラールにとっては、煩わしいこともあっただろうに、嫌な顔をされた記憶は一度もない。幼い頃からお互いに慣れさせて、そして十年も経って晴れて夫婦になるころには、絆も深まっているだろうし年の差も問題にならなくなるだろうという両国の計画は、何事もなければ成功していたはずだ。

 けれど、おままごとのような結婚はリアーヌが十一歳の時に唐突に終わりを迎えた。狩りで落馬した時の怪我がもとで、ジェラールはあっけなく亡くなってしまった。


 ジェラールの死に呆然としている間に、二度目の結婚の話は着々と進められた、らしい。それでも話がまとまって輿入れに至ったのは、リアーヌが十三歳の時だった。今度の相手は、海を擁する南方の国ロンゴリアのトビアス王。彼女よりも二十も年上だったけれど、それでも十分若く、英邁な君主だった。リアーヌにとってはもうひとりの父か、あるいは教師のように接してくれた。娘のような年の妻を辛抱強く教え導いて、見守ってくれた。南の温暖な気候や海の青さにも心が癒され、リアーヌは少しずつ笑うことを思い出すことができた。

 でも、そんな和やかな日々が続いたのもほんの二年だけだった。壮健なはずのトビアス王は病に倒れ、リアーヌの看病や海の向こうから取り寄せた秘薬の効果もなく、一年も持たずに儚くなってしまわれた。自身の死期を悟った彼は、リアーヌはまだ若いのだからと、白い結婚だったことを宣誓する書面を作ってくれた。そんなものより、ずっと一緒にいられた方がどれほど嬉しいか知れなかったのに。


 三回目の結婚でやっと、リアーヌは同じ年頃の夫に恵まれた。ふたつ年上の、ルメルシエのクロード王子のもとに嫁いだ時、彼女は十八歳になっていた。今度こそ本当の意味で夫婦になって良かったはずだったけど、リアーヌは結局夫と直接会わないまま終わってしまった。折悪しくルメルシエでは厄介な内乱が起きていて、クロード王子もその鎮圧のために国内を駆けまわっていたからだ。花嫁衣装を纏ったリアーヌの隣に立ったのは、花婿の代理の、王家に連なる家の出だという貴公子だった。式典だけならそれで済んでも、もちろん閨のことまで代理が務めるはずもなく──だから、クロード王子が混戦の中で落命したことによって、リアーヌは純潔を守ることができてしまったという訳だった。




「なんて、ひどい……」


 《黒の姫君》と噂される自らの経歴に思いを馳せるのは、かつての悲しみを掘り起こすことでもあった。亡くなった夫たちとの思い出や、それぞれの婚家の城や風景は美しいものも幾らでもあるけれど、だからこそもう手が届かないという事実がリアーヌの胸を苛んだ。無理をして歩いたことで、身体の痛みも耐えがたくなってきている。リアーヌは手近な木に支えを求めて寄りかかると、深く溜息を吐いた。


「恐れられるのも、当然だったのよ」


 シェルファレーズの王城の庭は美しかった。何気ない木陰でも緑の下生えは鮮やかで、あえて植えたのか種が飛んだのか、小さな白い花が点々と愛らしく咲いている。素朴な彩にリアーヌは目を細めるけれど──白い花弁の輪郭が、なぜかぼやけて歪んでしまう。


(なぜ、なのかしら……!?)


 なぜ、彼女と結ばれた方はことごとく早すぎる死を遂げてしまうのか。それは、リアーヌが自ら口にすることもできない恐ろしい問いだった。

 死神のようだとか、呪われているのではないか、とか。そのような噂は、まだ遠慮があるものなのだ。神でも悪魔でも、人知を超えた何かしらに凶事の原因を託しているということだから。でも、リアーヌの耳にもより口さがない評判は届いてしまっている。


 《黒の姫君》は夫をその手にかけては祖国に富と繁栄をもたらしているのだ、と。


 根も葉もないおぞましいだけの風聞──とも言い切れないのが恐ろしいことこの上ない。リアーヌ自身も身に覚えのないことと主張したいのはやまやまだけど、これまでの夫の死が、そのたびに祖国に利益をもたらしているのは否定できない事実だった。


 最初の夫のジェラールは、自国の領地の中でも豊かな地方をリアーヌに贈ってくれていた。もちろん、後々彼女が儲けるであろう子に受け継がれることを見越していたはずだけど、その未来が実現する前に、リアーヌは贈られた領地ごと祖国に引き取られてしまった。

 二番目の夫のトビアスが倒れたのは、ガルディーユが海を介しての交易路を確立した矢先のことだった。本来ガルディーユには海がなく、リアーヌの輿入れを機に初めて海の向こうに手を伸ばすことができるようになっていたのだ。だから──結婚の目的はその時点で果たされた、ということだったのかもしれない。

 そして三番目のクロードについても、同様だ。内乱の鎮圧に手間取ったルメルシエは今、苦難の道を歩んでいるという。本来ならばリアーヌは復興に尽力するべきだったし、その際はガルディーユも援助をしていたはずだ。代理の花婿を相手に婚礼を挙げただけの関係だからとリアーヌを連れ戻すことで、ガルディーユはを免れたということもできる。


 父がしたことだという言い訳さえ、リアーヌには許されないだろう。ジェラールの時、幼いリアーヌは夫の予定を細かに実家に報告していたし、トビアスの時も夫を助けたい一心で病状を伝え、効きそうな薬を取り寄せてもらったから。結婚も三回目になると、さすがに疑うことを覚え始めてはいたけれど、それでも娘がいる場所に、父が人や手紙を送る口実は幾らでもある。


(お父様を信じてはいけなかったのではないの? 何を言われようと、二度と結婚なんてしたくないと言い張っていれば良かった……!)


 冷静に考えれば、王女の身が国の役に立たない結婚など許されるはずはなかったのだ。望みを叶えてやる、だなんて甘い言葉に乗ってはいけなかった。夫を三人も死なせておいて、幸せを望むなんて間違いだったのだ。未亡人らしく、亡くなった夫たちのために喪服で祈り続けるべきだったのだ。それすらも、白々しく図々しい行いでしかないのかもしれないけれど。

 そういったことに気付かなかった──気付かない振りをしていた理由は、リアーヌには分かっている。


「私は……『家』が欲しかったの……」


 これまでの婚家は、馴染めると思えたかどうかで離れることになってしまった。祖国にいる間も、悲しみに暮れながらいつ次の縁談が決まるかと思うと落ち着かなくて。思えば、心から寛げた日々というのはリアーヌの人生にはほとんどなかったかもしれない。国の思惑が絡まない結婚なら、あるいは安らげる場所を得られるかと思ったけれど──そんな身勝手な願いのために、小さいけれど美しいシェルファレーズと、穏やかで優しいアロイス公を悩ませて良いはずがない。


「私は、どうすれば……」


 離縁、という単語も頭を過ぎるけれど、輿入れしたばかりでそのようなことを言い出したらそれこそ迷惑になるだろう。なるべくこの国に波風を立てずに過ごすにはどうすれば良いのか、と。溜息をそよ風に紛らわせた時だった。リアーヌの耳が人の話し声を拾った。男女が声を潜めて言い争うような。


(こんな奥で、誰かしら)


 気にはなるけれど、嫁いだばかりの身、しかも不調で寝ていることになっているリアーヌが聞き耳を立てて良いことがあるとは思えない。城の奥の庭園の、さらに片隅でのことだ。きっと人目をはばかるような事情があるのだろう。そっと足音を忍ばせて、リアーヌはその場を離れようとする──けれど、できなかった。

 女性の尖った声を宥めるような調子の男性の声に、聞き覚えがあるのに気付いてしまったのだ。ほんの何度か聞いただけでも、忘れるはずがない。昨日の婚礼で、それに、初夜の閨の中で。ひと言も聞き漏らすまいと神経を集中させての声に耳を澄ませたのだから。夫の声は、もうリアーヌの胸に刻まれている。


(アロイス様……どなたと……?)


 夫が、妻の知らないところで女性と話をしているらしい。事情を認識すると、つい──本当につい、リアーヌの足は声の方へ向かってしまう。心の奥底では、いけないと叫ぶ声がしていたけれど。押し付けられただけの妻の癖に、の事情に立ち入ってはいけないのだ。相手が女性ならなおのこと、きっと彼女が知るべきではないことだろうと思う。でも──物陰に隠れて、少しだけ様子を窺うだけだ。絶対に気付かれないように、それに、話の内容を聞いてしまうこともないように。


(少しだけ、だから……)


 木立の並びや建物の死角を慎重に見極めながら、一歩ごとに身体の芯から響く痛みを堪えながら。リアーヌはそろそろと足を進めた。息を潜めた甲斐あって、リアーヌの目は、やがて庭園に降りる回廊の影にふたつの人影を捉えた。濃い金髪を戴く長身のアロイスと──相手の女性の容姿は、でも確かめることはできない。


「ご不調と伺っていましたが、盗み聞きをする元気はあるようですね、公妃殿下?」


 リアーヌのぶしつけな視線を遮るように、立ちはだかる影が現れたのだ。

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