第3話 初夜

 アロイスが灯りを消すと、寝室は暗闇に包まれた。山の高みに位置するシェルファレーズの王城のこと、窓の外を見れば空も星も近いような気もするけれど、下に目を向ければ夜の森の深い闇が何もかもを吸い込むようでもある。リアーヌの悲しみも絶望も──夫を煩わせる彼女自身もすべて、闇に呑まれてしまえば良いのに、とさえ頭を過ぎる。


 アロイスは手探りでリアーヌの衣装を脱がせにかかった。初夜に臨むのは分かり切っていたために、ごく寛いだ簡単な衣装だから素肌が露わになるのに何十秒もかからない。


「輝くような肌だ……」


 夫となった人が感嘆の声を漏らすのを聞きながら、リアーヌは全身を震わせた。春とはいっても、シェルファレーズでは夜はまだまだ冷えるらしい。それに、何より怖かった。彼女を信じていないと明言したアロイスと、どのような夜を過ごすことになるのか。今日を境に、どのような形の夫婦になれば良いのか。何ひとつとして分からないから。


 闇の中に、アロイスの青い目が仄かに浮かび上がる。新妻の裸体を前にしての醒めた眼差しは、きっと探っているからだろう。《黒の姫君》と噂される女が、毒や刃物を隠し持っていないかどうか。衣装を脱がせたのは睦み合うためではなく、ひたすらに用心と警戒のためなのだろう。


「──震えていらっしゃる」


 身体を覆うのは解いた銀の髪だけの姿にさせて、アロイスはようやく安心できたのだろうか。さやさやという衣擦れの音がして、リアーヌは夫であるはずの方の腕の中に迎えられた。とはいえアロイスの腕は力が篭って強張っていて、できるだけ妻に触れたくないのだろうと伝わってしまう。リアーヌの方でも、初めて素肌に感じる殿方の身体の硬さや力強さは恐ろしかった。彼女たちは、愛情や信頼ではなく、不安と疑念によって結びつけられた夫婦なのだ。


(口づけを、していただけるかしら……?)


 それでも仄かな期待を込めて、リアーヌはアロイスの表情を窺った。彼女が何も危険なものを隠し持っていないと分かってくれたなら、夫婦のような行為をしてもらえるのではないかと思って。

 でも、アロイスの目がリアーヌを顧みることはもうなかった。代わりに、彼女の爪先が宙に浮く。抱え上げられて、寝台に下ろされる。一応は、そっと、と言って良い扱いだろう。


「──っ」

「申し訳ありません。しばし、耐えてください」


 俯せにされて圧し掛かられて、思わず跳ねた手を押さえつけられるのは、多分愛し合う夫婦の間ではないことなのだろうけど。でも、リアーヌには相応しい格好なのだろう。これまでの夫を殺したかもしれない、今の夫の命をも狙っているかもしれない女と、正面から抱き合うなどとは正気の沙汰ではない。


「すぐに、済ませますから」

「……はい」


 柔らかな絹のしとねに顔を埋めながら、アロイスの硬い掌が素肌を這うのを感じて震えながら、リアーヌは思う。信用ならない押し付けられたを相手に、この方は十分に優しいのだ。彼女が閨でのことを嫌がっているに違いないと考えて、なるべく事務的に済まそうとしてくれているらしい。きっと、彼の方でも気の進まない夜であるに違いなくて──それなら、口づけや抱擁をねだるのは迷惑になるだろう。


(これは、普通のこと。ひどいことでも、怖いことでもないの……)


 アロイスは、夫としての義務を果たそうとしてくれているだけ。《黒の姫君》に触れるのはきっと恐ろしいことだろうに、リアーヌや彼女の祖国を慮って今はそんなことは言わないでいてくれている。それ以上の気遣いなんて──優しい扱いなんて、望んではいけないのだ。うつぶせに押さえつけられて圧し掛かられるのだって、彼女には相応しい扱いだ。どんな顔でアロイスに向き合うつもりだというのだろう。今、この瞬間にも、父はアロイスやシェルファレーズに対して陰謀を巡らせているのかもしれないのに。


(これが、結婚というものなの……?)


 胸に過ぎる疑問も、リアーヌなどが感じてはいけないものだ。そんな分不相応な思いも、痛みと二人分の荒い吐息が押し流していく。睦言のひとつも抱擁もない、ひたすら密やかで余所余所しい──それが、リアーヌがやっと体験した初夜というものだった。




 目蓋の裏に光を感じて、リアーヌの意識は覚醒した。ゆっくりと目蓋を開いて──天蓋の意匠が見知らぬものであることに驚き、そして身じろぎすると脚の間に鋭い痛みが走って息を呑む。その痛みをやり過ごすうちに、脳裏には昨夜のが蘇っていた。


「──あ……」


 羞恥なのか切なさなのか後ろめたさなのか。訳が分からない感情が胸から溢れて微かな声が漏れる。それも、風邪をひいてしまった時のように掠れていた。


(アロイス様は……?)


 の姿を求めて首を巡らせると、アロイスはとうに目覚めて彼女の寝顔を見下ろしていたようだった。着ているものは楽な肌着のまま、けれど寝乱れた様子はなかったから。を見下ろす彼の深い色の目が湛えるのは、やはり控えめな礼儀正しさとか遠慮がちな気遣い程度のものでしかなかった。それに──恐れ、だろうか。裸にして何も隠し持っていないのを確かめて、そして非力さを目の前にしてもなお、この方はリアーヌや父の企みが怖いのだろうか。

 寝転がった体勢のまま、リアーヌは切ない思いでアロイスを見上げた。目は、合っているようないないような。お互いに目覚めていることは気付いているはずなのに、何を言ったら良いか分からないのだ。朝の挨拶さえ、気軽に口にして良いものかどうかリアーヌには確信が持てない。

 そんな気まずい沈黙を破ったのは、アロイスの方だった。


「リアーヌ姫……」


 彼女の名を呼ぶと同時に、アロイスは身体を傾けて寝台に手をついた。その場所に赤茶の染みが広がっているのを見て、一瞬、月の障りで汚してしまったかと思う──でも、さすがにすぐに気付いた。破瓜の血というものだろう。思っていたよりも量が多い気もするけれど、これも当たり前のことのはずだ。なのに──ひどくおぞましいものでも見るかのような眼差しで、アロイスは褥のその箇所を見つめている。


「その……で、いらっしゃった……?」

「ああ……」


 アロイスが何を恐れているのかにやっと気付いて、リアーヌは思わず笑ってしまった。まさか、と。言外の言葉がありありと聞こえたと思ったのだ。

 彼女の純潔については、亡くなった夫のひとりがそれを証明する宣誓書を作成してくれている。父も、当然シェルファレーズに提示しているはずだ。でも、それは二番目の夫だったから、また事情が変わっていたと思われていたということらしい。それか、そもそも信じられていなかったか。二夫どころか三夫にも四夫にもまみえようという女には貞節などという概念はないと信じられたのかもしれない。


(処女だったのを気にしてくださるなら、やっぱり優しい方なのね……)


 それなら、気を遣わせないようにした方が良いだろう。淫らな女だと思ったままでいてくれた方が。アロイスの顔にじわじわと後ろめたさのような感情が広がるのを見て取って、リアーヌは微笑もうとした。この方の誤解も無理からぬことで、罪悪感を覚える必要などまったくないのだから。


「……偽る手段は幾らでもあります。すぐに騙されるようでは、国の主としてよろしくないと思いますわ」

「リアーヌ姫、ですが」


 でも、リアーヌは上手く笑えなかったらしい。アロイスの眉が解けないのを見て、彼女は褥に包まるとに背を向けた。高慢な女が機嫌を損ねたように見えると良いと期待しながら。アロイスの手が彼女に延べられる気配が、背中を騒めかせたけれど──彼は、すぐに諦めたらしい。彼が寝台を降りたのを、微かな軋みと揺れが教えてくれた。


「……今日は城下にお連れしようかと思っていましたが。ご体調は──」

「疲れてしまったので、寝かせておいていただけると大変助かります」


 アロイスを責めるつもりはまったくないけれど、彼の隣に立って笑顔を振りまくことは今はできそうになかった。それに、誤解されるなら徹底的にした方が良いだろう。リアーヌは、大国の権勢と財力を笠に押しかけてきた女、なのだから。リアーヌがどう弁明しようと、シェルファレーズの人々にとってはそれが揺るがぬ事実。それを覆そうとしても人々を混乱させるだけだろうから。

 全身で拒絶を示したはずなのに、アロイスが退室するまでずいぶん掛かったような気がした。それとも、それは彼女が勝手に夢見ただけで、怒ってすぐに出て行ってしまったのだろうか。やっとひとりで横になることができて、リアーヌの意識は曖昧にぼやけていったからよく分からない。


 乳母のオレリアが、どこか遠くで騒いでいるような気もしたけれど。全てに目と耳をふさぎ心を閉ざして、リアーヌはしばし夢の世界に逃げることにした。

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