第2話 破れた夢

 リアーヌの夢が破れるのに、けれど一日もかからなかった。


 白鳥のような城に迎えられて、肖像画通りに整った容姿の夫と対面して、美しい衣装を纏って盛大な式典と宴席に出席して──そして新たに彼女のものになった部屋に落ち着いたリアーヌは、疲れによってだけでなく絶望によって、寝台に腰掛けたきり動く気になれない有様になっていた。


「リアーヌ様、どうなさいましたか? お疲れでしたらもうお休みになりますか?」

「いいえ……アロイス様が望まれるままに。あの方がシェルファレーズの大公で、旦那様なのだから……」

「まあ、でも、リアーヌ様が嫌なら無理にとは仰いませんでしょう」


 リアーヌが力なく首を振る一方で、オレリアはにこやかさを取り戻している。今回の結婚の全貌にふたりともがやっと気付き、そして全く正反対の感慨を抱いたのだ。


 王城に近付くにつれて、山道の舗装はより滑らかに整えられ、道幅も広く通りやすくなっていった。花嫁の行列を迎えるために、財を投じて整備させたのだという。ガルディーユからの投資は惜しみのないもので、市井の商人にも及んだとか。辺鄙さを理由に滞っていた物流が、強引に届けられるようになったということだ。祝儀と称して民にも施しがなされたし、ガルディーユの酒や料理も振る舞われるのだという。

 父は確かに、夫の国に援助をすると言っていた。でも──これではまるで、シェルファレーズそのものを買い上げるかのよう。持参金と言うにも過大で強引で、あまりに品がない。


『此度のご縁で、我が小国は大変助かりました。ガルディーユ王のご厚意に、国民一同心から感謝しております』

『え、ええ……』


 リアーヌの夫になったアロイスは、声も低く柔らかく、とても丁寧な口調の方だった。その声に聞き惚れることができたらどんなに良かっただろう。でも、リアーヌは慇懃さの裏に不快の棘を聞き取らずにはいられなかった。アロイスがどんな表情でそれを言ったのかも分からない。夫となった方は背も高く、見上げなければ目を合わせることができなかった。でも、シェルファレーズの民からすれば、金にものを言わせて傷物の王女を押し付けたようにしか見えないだろうと突き付けられて、どうして胸を張ることができるだろう。リアーヌの視界に映っていたのは、正装したアロイスの胸を飾る勲章だけだった。


 神聖な誓いを終えた後の宴では、新しい夫婦に祝いの言葉を述べに来る人々の列が絶えなかった。


『こんな山奥によく来てくださって──』

『美しい公妃様をお迎えできて光栄です』

『これほどの晴れがましい席はかつてございませんでした』

『我が国にはもったいないほどのお祝いで』


 それらの言葉は、はたして本当の祝福だっただろうか。リアーヌの耳には、彼らや彼女らの戸惑いが伝わってくるように聞こえたけれど。シェルファレーズの人々は、リアーヌがこれまで嫁いだ国の人たちよりも純朴で、だから思いが言葉や顔に滲んでしまうのだろう。彼らの戸惑いや──疑いや恐れ、不安といった感情が。この女はいったいどうしてこの場にいて、彼らの王の妻に収まることになったのだろう、と。

 リアーヌは既に三度、夫と死別した。父王の過剰なほどの大盤振る舞いは、不吉な姫を押し付けようとしてのことだと思われても仕方がない。彼女の悪評は、きっとシェルファレーズの山々の高みにまでも届いてしまっていたのだろう。


(《黒の姫君》が人並みの幸せなんて……過ぎた望みだったということね)


 宴の席の中心で、リアーヌは微笑みを保つのに苦労したものだ。彼女が暗い顔をしてしまっては、嫁いだ国への不満の表れだと取られかねないから。か弱い女の背後に、この国の人たちは既に父の国の存在を見てしまっている。父の機嫌を損ねてはならないと、腫れ物に触るような気配が既に感じられてしまっていた。同じことを感じたらしいオレリアは、これで女主人が身分相応に扱われると、安心していたようだったけれど。

 リアーヌは、自身の存在が美しく和やかな小国を乱してしまったのを悟って、早くも後悔に苛まれていたのだ。




 リアーヌが疲労から来る眠気に屈する前に、アロイスは寝室を訪れてくれた。彼の方でも楽な格好に着替えていて──夫婦なら、これから寛いだひと時を過ごすのかもしれなかったけれど。


「長旅でお疲れでしょう。辺鄙なところまで、よく来てくださいました」

「いいえ……とても美しい国です。歓迎していただいて、とても嬉しいですわ」


 オレリアが用意してくれた酒と杯に、リアーヌが触れることはできなかった。彼女が手を伸ばすより先に、アロイスがふたつの杯を満たしてしまったからだ。大国の姫に酌をさせる訳にはいかないとでもいうかのように。


「父君のお力添えあっての宴でしたから、お褒めいただくのは恐縮ですが」


 ちらりとだけ微笑んだの声や表情に、微妙なささくれのようなものを感じてしまって、リアーヌの笑みはひび割れる。決して、悪意とは思わない──思ってはならないけれど、恐らくは父への遠慮とか妻への引け目とか、そんな感情がアロイスの端正な面を陰らせているのが申し訳なくてならなかった。夫婦になったはずなのに、はっきりと心に境界を引かれているようで、切なくてならなかった。


 直に会ってよく分かった。国の大きさなど関係ない、アロイスは威厳ある主君だった。豊かに波打つ濃い金色の髪を、王冠のように戴いて。けれど獅子のような勇壮さというよりは、森の奥に佇む賢狼というか、物静かで思慮深さを窺わせる気配を纏っている。リアーヌのものより深く濃い色の青い目も、その印象を裏付ける。父などは、リアーヌとは誂えたような対になるだろうとご満悦のようだったものだ。

 父の戯言はともかくとして、アロイスが険しい山々に囲まれた、時に厳しいであろう地を治めるに相応しい忍耐強い方なのは明らかだ。長身をわずかに縮めるようにしてリアーヌに向かい、年下の小娘にも丁寧な口調で語り掛けてくれるのがその証拠だ。父の振る舞いのせいで──いや、彼女の我が儘のために、この方の矜持を曲げさせてしまったのだ。その罪の重さにやっと気付くと、夫とふたりきりでいることが苦しかった。何を言っても、大国の出自を笠に着た傲慢と取られてしまいそうで。


 口を結んだままのリアーヌからそっと目を逸らし、アロイスは独り言のように呟いた。


「本当に……この冬は、どれだけの者が救われたことか」


 結婚の話が具体的に進められたのは、秋から冬にかけての時期のはずだ。では、その頃から父はシェルファレーズに援助を送って、そして退路を断っていたのだろうか。リアーヌには、経緯の詳細を訪ねる勇気もないけれど。

 注いだ酒には手をつけないまま、アロイスは軽く息を吐いた。


「ガルディーユにここまでしてもらったからには、貴女と子を儲けなければなりません。ですが──大変申し訳ないのですが、信じ切ることはできません。父君の意図も、貴女ご自身も」

「……はい」


 それは、リアーヌ自身も疑い始めていることだった。父が、本当に娘の我が儘を叶えるためだけにこれだけの散財をしたのかどうか。彼女自身は知らなくても、父がこの国に対して何か企んでいるのではないかどうか。ましてアロイスの立場なら、疑心暗鬼になって当然だ。彼女の夫は、既に三人も亡くなっているのだから。そんなことが自然に起きるはずはない、と──聡明な方だからこそ、思い至るというものだろう。アロイスが用意された酒を口にしようとしないのは、つまりそういうことなのだ。彼女の輿入れによってが起きるのではないか、と。多分今、彼女とアロイスは同じ恐れを抱いている。

 リアーヌが大人しく頷いたのが意外だったのか、アロイスは軽く首を傾げ、眉を顰めた。


「小さいとはいえ、私は一国の主。私の肩には多くの民の命がかかっています。何人であれ、容易く害される訳にはいかないのです」

「……はい。よく分かります」


(私……分かっていなかった……!)


 必死に舌を動かしながら、リアーヌは頭が殴られたような衝撃を味わっていた。もちろん、アロイスはそのような乱暴なことはしないけれど。彼女を殴りつけたのは、自分自身の愚かさと浅はかさだ。自身がのんびりと暮らしたい、できれば年の近い夫を持ちたいという願いが、他人や他国にどのような影響をもたらすか考えていなかったのだ。ガルディーユのような大国が大した理由もなく──シェルファレーズの人々にはそうとしか思えないに違いない──擦り寄ってきたら、普通は心穏やかでいられない。リアーヌの存在は、この国の人々にとって厄介な面倒でしかないのだ。

 リアーヌの顔は自然と俯き、アロイスの顔が視界から消える。婚礼の時以上に、彼にどのような顔をさせてしまっているのか、見てしまうのが怖かった。


「田舎ではありますが、決して不自由なさることがないように努めましょう。ガルディーユから親しい人を呼び寄せるのも良いでしょうし、世継ぎにさえ恵まれれば顔を合わせず済むように計らいもしましょう。ですから……その、しばらくは我慢していただきたく」


 でも、いつまでも黙ってはいられない。アロイスの指が、俯くリアーヌの顎を捕らえて上向かせた。困ったような微笑と共に、ひどく言いづらそうに仄めかされたことが何なのか、さすがに分かる。彼女はもう二十歳を過ぎた大人の女で、何度も人の妻になったことがあるのだから。でも、実際に初夜に臨むのは、四回目の結婚にして初めてのことだった。


「はい。もちろんですわ。私は貴方の妻なのですもの」


 その瞬間に対して、リアーヌは漠然とした美しい憧れのようなものを抱いていたのだろうと思う。でも、夫に抱き寄せられた時に彼女の胸を満たしていたのは虚しさと寂しさだけだった。こんなにも甘くなく、苦々しい思いだけで──でも、それは見せないように、微笑まなければならないなんて。

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