黒の姫君の最後の結婚

悠井すみれ

第1話 《黒の姫君》の帰郷と旅立ち

 漆黒の喪服に身を包んで帰国したリアーヌを、父王は満面の笑みで出迎えた。祖国ガルディーユの王都の門の前で、民や臣下と共に待ち受けていた時はもちろんのこと、リアーヌが実家である王宮の一室にやっと落ち着いた時も、そうだった。娘がを亡くしたばかりなのを忘れたかのように、たまたま里帰りしただけででもあるかのように。


「リアーヌ、我が娘よ。よく戻った。変わらぬ美しい顔をよく見せておくれ」

「お父様……」


 彼女の頬を両手でしっかりと挟んで顔を近づけてくる父は、言葉通り、リアーヌの容姿にかげりがないかを確かめているようだった。といっても、会わなかったのはほんの一年かそこらなのだけど。憂いと悲しみにやつれてはいても、リアーヌはまだ若く美しい……のだろう、多分。肌に染みはなく滑らかで、銀の髪と併せて穢れない新雪の輝きを思わせる。青い目は深い水の淵の色に似て神秘的で思慮深く見えて、云々と。祖国の宮廷にいた短い間は、ガルディーユの真珠、地上に降りた月などと過ぎたお世辞を聞かせてもらったものだ。今は、《黒の姫君》──夫に死をもたらし、常に喪服で過ごす女──などというあだ名が祖国の社交界にも響いているのかもしれないけれど。


 でも、とにかく。三度の結婚生活を終えた後でも、リアーヌはまだ二十歳になったばかりで、しかもどういう訳か処女だった。王家の者として、まだまだ利用価値があってしまうということだ。父の笑顔は、大事な駒が手元に戻った喜びゆえなのだろうと察して、リアーヌはそっと父の腕の中からすり抜けた。


「……は、どこに行けばよろしいのでしょうか。私は、覚悟はできております。お父様のことですから、もう決まっていることだと思いますが」


 人質として、あるいは同盟の証として。親きょうだいのもとを離れて居場所を転々とする暮らしが、嬉しい訳では決してない。でも、父の命令に逆らうことなど思いもよらない。疲れと諦めのために、リアーヌの声には年に似合わず枯れ切った陰鬱さが滲んでいた。


「リアーヌ、そのように悲しいことを言うものではない」


 娘として王女として、リアーヌは模範的な発言をしたのだろうに。父は咎めるような目つきと共に大仰に驚いてみせた。リアーヌが逃げたことで宙に浮いた腕を再び伸ばし、彼女を抱き締めるとしきりに頭を撫でてくる。


「そなたは国のために何度も辛い役目に耐えてくれた。次こそは、そなたが望む相手に嫁がせたいと思っているのだ」

「私……望む方なんて……」


 父の本意を量りかねて、リアーヌは曖昧に言葉を濁した。親の決めた相手に嫁ぐのが務めの身で、密かに思う人がいては一大事だろう。もちろん、彼女にそのような相手はいないけれど、何かしらの切っ掛けによって父は疑いを持ったのだろうか。迂闊な名前を出そうものなら、その相手に迷惑が掛かったりしないだろうか。

 時間稼ぎのように視線を彷徨わせた先では、庭園の緑が眩しかった。祖国の王宮にいた日々は短くても、木の枝ぶりや花の色はどこか懐かしいような。人の世の悲喜こもごもとは関わりなく、季節は移ろうということが急に美しく尊く思えた。


(望めるというなら──)


 ふと思いついて、リアーヌは少しだけ微笑んだ。


「本当に我が儘が叶うのでしたら、どこか田舎に小さな館でもいただければ良いのですけれど」


 またどこか知らない国に嫁いで知らない人々の間で暮らすのも、ガルディーユの社交界に出入りして好奇や哀れみの目を向けられるのも、想像しただけでも気が重い。父が本当に義務から解放してくれるというなら、そんな静かでささやかな生活こそをねだりたかった。でも──


「若い身空で何と枯れたことを」


 彼女の答えは、父の気には入らないようだった。父はまたも目を瞠り、次いで心配そうな面持ちで娘の顔を覗き込む。


「そなたはまだ若く美しいのだ。人並みの幸せを諦めることなどないのだぞ!?」

「でも、私は──。それに、亡くなった方たちのことを忘れる訳には……」

「祈るのは聖職者に任せておけば良い。若いそなたが子を産む喜びも知らずに朽ちていくのを、死者も望むまい」


(ああ、やっぱりそういうこと……)


 父がやたらと若い、という言葉を強調するので、リアーヌの胸はひたすら重く深く沈む一方だった。娘を慮るような父の言葉はやはり表向きだけのことで、本心ではやはりどこかの王侯に嫁がせたいということなのだろう。幾つかある候補の中で、多少は花嫁本人の意向を聞いてやらないこともないと、きっとその程度のことなのだろう。


「好きな相手がいないのなら、行ってみたい土地はどうだ? 海でも、今度は山でも、栄えた都市でも。食べたいものや飲みたい酒がある土地でも良いし、絹や宝石が集まる港、あるいは交易の要衝──」

「では、婚姻によってガルディーユには何ももたらさないお相手が良いですわ。その方が気が楽ですし」


 父の言葉はどこまでも続きそうだったので、そしてそこから父の狙いが読み取れてしまいそうになったので、リアーヌはやや無作法に遮った。長旅で帰ったばかりのところなのだから、これくらい許されるだろう。望みを尋ねたのは、父の方でもあることだし。


「さらに贅沢が言えるのでしたら、私とお年の近い方──赤ちゃんでも子供でもなく、お年寄りでもない方、なおかつ健康な方を夫にしたいと思います。……二度と、置いていかれる身にはなりたくありませんの」


 低く、呟くように付け足したのが彼女の偽りのない本音なのだと、父には伝わっただろうか。仮にも義理の息子になった方たちの死は、この方にとってはむしろ朗報だったのではないかとリアーヌはずっと疑っている。彼女を手元に呼び戻して、また利用することができるのは、それは、ガルディーユの国にとってはなのかもしれないけれど。


「うむ、うむ。当然のことだろうな」


 とりあえず、父は笑顔のままでしきりに頷いている。不気味なほどの上機嫌の理由は、娘が前向きな姿勢を見せたからだろうか。それとも、計画通りにことが進むのを思い描いてのことだろうか。判じるには、リアーヌが親元で過ごした時間はあまりにも短かった。


「どうせなら、見目良い若者の方が良いだろうな? 必ず、この父がそなたに相応しい相手を探してやろう」

「お顔は──別に、どうでも良いのですが」

「そのようなことは言うでない。あったが、そなたには良縁を得て欲しいと思っているのだ。本当に」


(本当に……?)


 父の言葉を疑ったとしても、リアーヌには口に出して問うことはできない。まして、逆らう選択肢など初めからないのだ。だから、久しぶりの親子の対面はこれで終わり、リアーヌはとにかくも旅装を解いて休息することを許された。




 母や年齢の近い親族と語らったり、ひとり祈りを捧げたりしてひっそりと穏やかに過ごすこと数か月──リアーヌが少し驚いたことに、父は彼女が望んだ通りの縁談を持ってきた。


「シェルファレーズのアロイス公だ。どうだ、美男子だろう」

「はい……」


 私室を訪ねてきた父が得意満面といった表情で渡してきた肖像画を手にして、リアーヌは首を傾げながらも肯定の意を示した。描かれた青年は、確かに聡明で優しげな貴公子に見える。けれど肖像画は依頼主の機嫌を損ねないように描くのが常であって、信じ込むのも迂闊なのではないかと思う。何より──リアーヌは、別に見た目の良い殿方だから嫁ぎたいと思う訳ではない。それよりずっと大事なのは、聞きなれない国の名だった。


「シェルファレーズとは──」

山間やまあいのごく小さな公国だが、景観の良い場所ということだ。交通は多少不便だが、その分戦乱とは縁遠いとも言えよう。何より、我が国の援助と引き換えなのだから、そうそうそなたを冷遇もすまい」


 父は準備良く地図も用意してきたようで、手ずから素早く卓の上に広げた。父の丸い指が示した地点は確かに山の中で、主要な街道からも大国同士の国境からも外れている。政略的に意味のない結婚、という要望も、確かに叶えられたようだった。では、リアーヌにはもう断る口実は残されていないらしい。


「この方は、お幾つなのでしょうか」

「二十六だ。やはり夫が年上の方が収まりが良かろう」

「ええ。そうなのでしょうね」


 力の入らない声で相槌を打ちながら、リアーヌはこっそりと部屋の調度を見渡した。せっかく祖国に、実家に戻ったと思ったのに。ようやく幼い頃に暮らした景色にまた馴染めそうだと思い始めたところだったのに。すぐにまた、別れを告げなければならないのだ。


「私などのためにご尽力いただいて、誠にありがとうございます、お父様」


 けれどもちろん口に出すことはできないので、リアーヌは顔では微笑んで父に礼を述べた。




 三人目の夫の喪が明けるのと同時に、リアーヌは四度目の結婚のために旅立った。刺繍と宝石で彩られた花嫁衣装ももう四着目だ。祖国ガルディーユは豊かな国だから、父はその文化と財力を見せつける機会を見逃さない。

 まだお互いに顔も見ていない夫が待つシェルファレーズに向かう馬車も、外装も内装も豪奢に飾り立てられて、乗り心地は大層良い。でも、リアーヌの差し向かいに座った乳母のオレリアは、上機嫌とはほど遠いようだった。


「ガルディーユの姫君が山奥の小国に嫁ぐだなんて……!」


 オレリアがぷりぷりと零すと、馬車の振動につれてふくよかな身体が揺れるのが少し面白くて、リアーヌは笑いをこらえるのに苦労してしまう。前の嫁ぎ先はガルディーユと同格の国ばかりだった。だから社交界も賑やかで、侍女や召使たちも張り合いがあったのかもしれない。これまでの結婚にもずっとついて来てくれた乳母だけど、不本意な地をつい棲家すみかにさせてしまうなら大変申し訳ない。でも、シェルファレーズの辺鄙へんぴさは、リアーヌにはむしろ歓迎するところだった。


「旦那様の国の方たちの前では絶対にそんなことは言わないでね。──ねえ、おとぎ話のようで綺麗な国ではなくて?」

「ええ、絵で見るだけなら大変結構かと存じますが!」


 馬車は山道に差し掛かり、オレリアは身体の均衡を保つのに苦労してか顔を赤くしている。婚礼の支度を整えるうちに、季節は春になっていた。窓の外に目を向ければ、柔らかな太陽の光に煌めく新緑の瑞々しさが眩しい。そして、高所には溶け残った雪も残る山間やまあいに、雪よりなお白く誇らしくそびえる美しい城こそが、シェルファレーズの大公の住まいなのだとか。森の中に一羽の白鳥が降り立ったような佇まいは、それこそ絵物語からそのまま抜き出したかのよう。


「……平地での戦いに破れた者たちが山中に逃げ込んで建てた国だそうですね。まるで山賊の末裔ではないですか。陛下はどうして、リアーヌ様にこんなご縁を──」

「私がお願いしたからよ。本当に、黙っていてちょうだいね」


 口では乳母をたしなめながら、山道の狭さ険しさを目の当たりにするにつけ、リアーヌの口元には笑みが広がっていた。行き来にこれだけ苦労するなら、交通の要衝にはなり得ない。シェルファレーズの産物についても何度も調べたけれど、特別な鉱石や宝石が産する訳でもないようだ。本当に信じられないことだけど、祖国に何ももたらさない婚姻を、父は許してくれたのかもしれない。


(今度こそ、夫婦になれるのかしら……!)


 夜ごとの社交に励まなくて良いのかもしれない。実家との手紙のやり取りに言葉を選んで頭を悩ませなくても良いのかもしれないし、彼女の影を見て、そそくさと話を切り上げる夫の国の人たちを見なくても済むのかも。ごく当たり前に、夫と語らって労わり合うような、そんな関係を築けたら良い。

 ささやかで、けれど切実な夢を胸に抱いて、リアーヌはまだ遠い夫の居城の眩さに目を細めた。

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