第42話 伝搬する感情

 決して大きくはなかったにも関わらず、花音かのんの歌声は、不思議とその周囲にいる人々の耳へと届き、その心に少しばかり変化を与えていた。

 それは、最も近くで聞いている比奈乃ひなのは当然として、待機をしている警察の部隊や、玄関ホール内にて満足に動けずにいる負傷者たち、更には通路の奥から様子をうかがっている教師や生徒たちにまで広がっており、その歌声は全身全霊で集中し、魔法を使った生死を賭した戦いを繰り広げている二人であっても、その例外ではなかった。

 ただ、皆はその感覚に多少の違和を覚えても、あえて口にすることもなく、改めて展開される戦闘へと意識を再度向けられる。

 しかし、そうして意識の外へ歌声を追いやっていく間にも、花音から伝わってくるオルゴールのように優しく、そよ風のように柔らかな歌は、彼らの中において確実にその存在感を強めていった。

 あまりにも自然で、心地よく、まるで最初からあった環境音の一つではないだろうかと思えるほどの花音の奏でるメロディ。

 そして、それを耳にする時間が増えれば増えるほど、聞いた人間の感情は、反動をつけた振り子のように、繰り返すほどに強く揺さぶられていく。

 それこそ、放っておいたなら、その見えない力に操られてしまうのではないかという不安さえ抱いてしまうほどに。

 その当たり前のように存在しようとする、花音の作り出した歌の空間の異常性に、一番に気付いたのはイミトであった。

「なんだこれは……思考が……おかしくなる。このままではダメだ。アカツキ、その男の相手は後だ。この歌ってるやつを先に始末するんだ、早くっ!」

 憤怒や怨恨といった負の感情が薄れていったが故か、イミトは自らを無理やり奮い立てるように、アカツキへと指示を飛ばす。

 そこへ、アカツキが言葉を返すよりも早く、戦闘相手である海斗かいとが割って入った。

「僕はそんなに余裕があるとは到底思えないけどね。今もこれだけ強力な魔法を使ってるんだ。そんなことができるだけの体力も気力も、残ってるわけがない」

 現在もアカツキと互いの魔法をぶつけ合い、力比べをしているかのような状況にあるはずの海斗は、予断を許さない状況であるにも関わらず、さも余裕があるかのような振る舞う。

 それを受けて、イミトもまたスマートに返答ができたかといえば、もっと冷静な場であったなら可能かもしれないが、心をかき乱されている現状においては、それは不可能と言う他なく、相変わらずの暴力的な態度で言葉を返すばかりであった。

「うるさいっ! できるできないじゃなくて、やるしかないんだっ! 早くしないとまともに動けなくなる……くそっ、何なんだよ、一体……」

「……イミト、大丈夫?」

 感情が噴き出して止まらないといった風のイミトの姿に、アカツキもまた現在戦闘中でありながら、額に汗を浮かべ、疲弊を必死に押し隠すようにして、彼の身を案じて言葉を掛ける。

 ところがイミトからは感謝の言葉は返っては来ず、代わりにアカツキからの善意を突き返そうかという程の強い拒絶の意思であった。

「――うるさい! いいから、やれ!」

「……無理だよ」

「ダメでもやるんだ!」

「やれない……だって……だって……」

 今まで、本意ではないことも、仕方のないことと割り切ってイミトの言うことに従ってきたアカツキであったが、こうも頑なに拒否の姿勢を貫くのは初めてのことであった。

 その理由は他でもなく、花音の歌声を、思いを、感情を、心で受け止め続けたからであった。

「だって、私の、大切な、友達だから!」

 玄関ホール全体に響き渡る声で、アカツキは本音を吐露する。

 それと同時に、アカツキから放たれ続けている魔法の密度が一段階上がった。

「――くっ」

 まったくの予想外であったのだろう、それまで柔和な顔つきだった海斗も、急激な変化に、思わず顔を引き締め、手元から放つ魔法の制御に全意識を集める。

 ぶつかり合った魔法同士が、これ以上ないほどに濃縮され、逃げ場を失ったエネルギーはついに物質としての枠を超え、目映い光を放ち、ほんの数秒ほどではあるが、玄関ホール内から視覚を消し去った。

 その間も、花音の歌声は、止まることなく、皆の心に訴え続ける。

 そして、魔法の霧散が始まると共に、うっすらと玄関ホール内の視界が元へと戻っていく。

「このままじゃ、俺は……俺は……」

 イミトは頭を抱え、今にも泣きそうな顔で、その場に膝を着く。

 その時、ようやくともいえるタイミングで、花音の歌は静かに終わりを迎えた。

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