第30話 目覚め

「あれ? ここは……保健、室?」

「よかった、花音かのん、目を覚ましたのね」

 鼻腔に感じる、ほのかな薬品の香りと、久々に見た天井の模様に、若干混乱気味の花音であったが、その意識はすぐさま、自らの身体に抱き着いてきた親友の感触へと向けられた。

「えっ、まなみ……ちゃん? そっか。私、ボールがぶつかって……」

 ゆっくりと上体を起こすと、花音は改めて周囲を見回す。

 そこには安堵の表情を浮かべる同級生たちの姿が見て取れ、そこで改めて花音は、自分の身に起こった出来事を理解する。

「心配したんだから。もし、花音にもしもの事が起こったりしたら、かおるに申し訳が立たないもの」

「まなみちゃん……」

 普段は見せることのない、まなみの感情的な様子に、花音も若干目頭を熱くしながらその肩を優しく抱き留める。

 すると、集まっていた生徒の作る壁の向こうから、落ち着いた調子の女性の声が伸びてくる。

「目を覚ましたみたいね。幸い、頭を打ったりはしてないみたいだから、心配はいらないわ。ただ、御厨みくりさんは貧血気味みたいだし、もうちょっと食事にも気を遣った方がいいかもしれないわね」

 そう言ってセミロングの髪をサラリと揺らしながら、前のボタンを留めないラフな着こなしをしている白衣の胸元に『音喜多おときた』と書かれたプレートを付けた、保健の先生と思われる女性は、ベッドの脇へと近寄ると優しく微笑んでみせた。

「あ、すいません。迷惑をかけたみたいで……」

 空気を読んで、そっと離れたまなみに小さく微笑んだ後、花音は白衣の女性――音喜多へと頭を下げてお礼の言葉を述べる。

 対して、音喜多は軽い調子で横手に手を振り、笑った。

「いいのよ。こういう時の為に保健室があるんだし、私がいるんだもの。まぁ、大事に至らなくてよかったわ。どう? 痛んだりしない?」

 生徒の身を案じる音喜多の言葉に、花音は自分の顔がまだじんわりと痛んでいることに気付き、思わず顔を手で覆った。

「~っ!」

「ふふっ、意識したら思い出しちゃったかしら。いいわ、落ち着くまでもうしばらく休んでいきなさい」

 フランクにそう言い放つと、音喜多は再び来た経路を戻り、机へと戻っていく。

 その後ろ姿を眺めていた花音であったが、その背中はすぐさま隙間を埋める同級生によって見えなくなり、今度は花音を心配する言葉が矢継ぎ早に放たれ、集中砲火を浴びるのだった。

「花音ちゃん、大丈夫だった?」

「すごいボールだったけど、跡とか大丈夫?」

「目を覚まさなくて心配したんだからねっ!」

 ベッドのすぐ横にいたまなみをも押しのける勢いで距離を詰める同級生たちに、花音も苦笑いを返す他なかった。

 だが、ふと今自分が置かれている状況を改めて思い返した花音は、直前まで観戦していた試合の結果を知らないことを思い出す。

「そういえば、試合の結果はどうなったの? 引き分け?」

 花音の問いかけに、瞬時に静まり返る保健室。

 そのあまりにも唐突な静寂の訪れに、花音も自分は聞いてはいけないことを尋ねてしまったのではないかと、不安を覚える。

 そんな気まずい空気に耐えかねてか、まなみが小さく咳払いをして、わずかに口端を上げた表情で答えた。

「もうじきわかるわ」

 瞬間、遠方から誰かの足音が聞こえてきたかと思えば、勢いよく保健室の戸が開け放たれ、息も絶え絶えといった様子で、花音のもう一人の親友――三条さんじょう薫が飛び込んできたのだった。

「花音、大丈夫?」

 まるでベッドにかじりつくような薫の姿に、取り巻いていた生徒たちも、まなみを除いて水に垂らした油のように距離を取り、その光景に花音も一時は呆けた様子を見せたが、すぐに笑顔を返し、無事をアピールする。

「うん、まだちょっとぶつかった箇所が痛むけど……大丈夫。それで、薫ちゃんの方はどうだった?」

「……もちろん、守り切ったからね。同点優勝よ」

 白い歯を見せ、Vサインを返す薫。

 その栄光に花音は拍手を送る。

 そして、つられるように周囲の生徒たちも前代未聞の偉業を達した薫たちを労うように拍手と共にお祝いの言葉を送り始める。

 それらをどこか照れた様子で薫は受けていたが、ふと思い出したように、花音へと話を切り出す。

「あっ、そういえば……会長から、伝言預かってたんだっけ」

「伝言?」

「うん、なんでも生徒会の仕事がまだ残ってて、顔を出せないみたいだから、せめて言葉だけでもってことらしくて」

「でも、あれは事故みたいなものだし……」

「そうなんだけどさ、当事者としては私も同じ気持ちはあるから。というわけで、伝言なんだけど――」

 そこまで口にすると、薫は一息呼吸を入れ、間を置くと、改めて口を開いた。

「不慮の事故とはいえ、申し訳ないことをした。僕にできることがあるなら、協力するから、必要があれば生徒会室まで来てほしい……ってさ」

 薫の口から語られた海斗かいとの言葉に、その場にいた女子生徒たちは黄色い歓声を上げる。

 その盛り上がり具合に、若干目を丸くしながらも、花音は頬をぽりぽりとかきながら、自らの思いを漏らした。

「別に、気にしなくていいんだけど……でも、伝えてくれてありがとう、薫ちゃん」

「ううん、これくらい朝飯前よ。それにしても、さすが会長ね、嫌味なく言える辺りさすがとしか言い様がないわ」

「聖人って、空想上の生き物だと思ってたけど、実在したのね」

 まなみも会話に割って入り、保健室でのおしゃべりは盛況を極める。

 そして、厳しく注意をするような教師も居ない環境もあって、休み時間の教室のような賑わいを見せ始めるのだが、その盛り上がりが最高潮へと達しようかという時、ドタドタという騒がしい足音がどこからともなく聞こえてくる。

 その足音に異変を感じた花音とまなみ、そして薫が入口へと視線を向けると、丁度そのタイミングで保健室の戸が勢いよく開き、同級生の丸山まるやまじゅんがサッカーボールを手に高揚した声と共に飛び込んできた。

「みんな、聞いてくれ、勝ったんだよ! 優勝! 凄いだろ⁉」

 意気揚々、有頂天、地に足つかない、色々な言葉で表現できそうな浮かれ具合の丸山であったが、そんな彼を待ち受けていたのは、彼の想像した以上に冷たいものであった。

「……ちょっと、少しは空気読みなさいよ」

 それまでの賑わいに満ちていた空気は瞬時に消え去り、敵意の暗喩ともいえるような無言の空気が漂う中、ある種の情けともいえるような薫の諭すような言葉に、丸山はゆっくりと室内を見回し、この場が自分にとってのアウェイであると察する。

「……もしかして、お呼びでない?」

「――呼んでもないし、一歩間違えば通報沙汰よ」

 女子だらけの空間に訪れた黒一点に放たれた、まなみによる致命の一撃。

 いつもであれば、ここから薫も含めた丸山と女子陣の舌戦が開始されるのだが、今日に限ってはそうはならなかった。

「いやいや、保健室だろ? 入るくらいならセーフでも――」

「――丸山君? 寄り道しないでさっさと片付けて。いつまでも用具室に鍵が掛けられないんだけど?」

 言い分を通そうとする丸山は、背後から掛けられた声に、すぐさま顔を青くする。

 そして、ゆっくりと振り返ると、そこには、保健室の入口で、底なしの不気味さをにじませた笑顔で佇む、クラス委員――設楽したら慶子けいこの姿があった。

「あっ、いや、その……優勝報告を……喜びを、分かち合いたいと、思いまして……ですね?」

「言い訳は終わってから聞きます。それでは、皆さん今日はお疲れ様でした。三条さんも御厨みくりさんもお疲れ様」

 慶子はベッドの付近にいる戦友たちへ、にこやかな笑みと労いの言葉を贈った後、いつものように丸山の耳をぐいとつまみ、廊下の向こうへと連行していく。

「痛い、痛いから耳は引っ張らないで。俺、頑張ったのに、どうして⁉」

 遠ざかっていく丸山のひょろひょろとした声に、静まり返っていた一同は、堰を切ったように噴き出して笑い出す。

 その渦中に居ながらも、花音はふと我に返り、ベッドの上で見ていた夢について、思いを巡らせる。

 先程まで見ていたのは、間違いなく遠い昔の記憶であり、花音自身の経験した出来事であった。

 ただ、何故それを今になって思い出したのか、記憶の中の女性が何者だったのか、明確な理由は出てこない。

 かといって、それをこの場で切り出すのも気が引けて、花音は抱いた微々たる疑念を胸の内へとそっと留め、今は同じ空間で笑いあう仲間と共に、この時を共有するのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る