第29話 事故

 白い桜の並木が目にも楽しい海岸線の道なり。

 大きく湾曲した、片側一車線の、決してきれいとは言えない道路を、一台の車が時折車体を揺らしながらも、軽快に通り抜けていく。

 前後に他の車の姿がないこともあってか、法定速度よりも若干速度を落として走行を続ける車の中では、時折舞い落ちる花びらに風情を感じながら、運転手は後部座席ではしゃぐ、自らの娘の姿にわずかに頬を緩める。

「ねぇねぇ、お父さん。さくら! たくさんあるよっ!」

 後部座席からガラス越しに外の様子を眺めていた3歳ほどの女の子は、父親の期待した通りの、喜びと興奮を織り交ぜた声を上げる。

 その格好は、よそ行きの服なのだろう、黄と白を基調とした、シワもなく、フリルもふんだんに用いられた、明るさ溢れる華やかなドレス調の衣服であり、可愛らしいリボンのついた帽子も相まって、人形のような愛らしさを覚えるほどであった。

 そんな娘のはしゃぐ姿に、車を運転する父親も頬を緩ませる。

「そうだな。今度母さんもつれてお花見にでも行こうか」

「お花見? 本当⁉ わたし、ういんなー食べたい!」

「ウインナーか。じゃあ、母さんに忘れないように言っておかないとな」

「うんっ!」

 溺愛気味とも取れる、父娘の会話を十分に堪能している間にも、桜の並木は終わりを見せ、前方には薄暗いトンネルがぽっかりと口を開き、待ち構えていた。

 それにいち早く気付いた父親は、早速愛娘に呼び掛け、注意を促す。

花音かのん、もうすぐトンネル入るから、静かにな」

「はーい」

 父親の言葉に素直に返事をすると、幼い花音は窓ガラスにべったりくっついていた自らの身体を、シートの上に戻し、足をぶらつかせながら前の様子をうかがう。

 フロントガラス越しには、かろうじて路面を照らしている程度の、今にも消えそうな薄い灯りが、点々と続いていた。

「はい、トンネル入りまーす」

 花音のことを気遣ってのことなのだろう、運転手はアトラクションの案内役のように軽快な口調でトンネルへの進入を告げる。

 途端、急激に低く感じる明度と温度。

 まるで異空間に入り込んでしまったかのような、劇的な風景の変化に、漠然とした不安を覚える花音であったが、その心中を口にするよりも早く、それは起こった。

「……んっ?」

 車体から伝わってくる振動に違和感を覚えてか、不意に車を停め、様子をうかがう父親。

 しかし、車体の揺れは治まらず、ヘッドライトで照らされた路面でも、小石たちが小刻みに震えている。

 そこで事態の深刻さに気付き、父親はすぐさまエンジンをふかし、転回する猶予も惜しいと踏んだのだろう、そのままバック走行で来た道を戻り始めた。

「花音、危ないから、しっかり掴まってるんだぞ!」

「お父さん、ねぇ、どうしたの? 何があったの?」

 言われるがまま、ロックのかかったドアノブやシートベルトを握りつつも、花音は抱いた疑問を父親へとぶつける。

 しかし、その問いかけに父が答えることはなく、ただ鬼気迫る表情で後方を確認しながら、アクセルを踏み込み、スピードを上げていく。

 高まる緊張感。

 速まる鼓動。

 数分にも満たない時間のはずなのに、やたらと遅く感じる車窓の風景。

 そして、暗所から明所へ、何とかトンネルから脱出を果たそうかという頃合い。

 父親の表情にも、ホッと安堵の色が見え、車体の減速と共にその顔を運転席のいつもの位置へと戻した瞬間であった。

 何の宣告もなしに、唐突に、轟音と共に雪崩のように激しい衝撃が、二人の乗る自動車を叩きつけた。

 その強大さ故に、放った悲鳴も容易にかき消され、金属が折れ、歪む鈍い音が空気を震わせ、ガラスなのか砂なのか、細かな粒子が宙を泳ぐ。

 そんな大地震が落ち着いたのは、それから数十秒の時間が過ぎてからのことであった。

「お父……さん?」

 周囲が静まり返り、災厄が過ぎ去ったことを悟ると、花音はゆっくりと顔を上げ、自分の最も安心できる声を求める。

 身体が痛くないといえば嘘になる。

 怖さを感じないといっても嘘になる。

 それも当然で、今まで自分が乗っていた車という空間が、一瞬にして崩壊したのが、全身から感じる痛みと、せき込みそうな空気と土の臭いから理解できたからである。

 ただ、それでも近くに父親がいるのだという、頼みの綱があったからこそ、花音は意識を保つことができていた。

 だが、現実というのは、人間の都合など厭わないものであり、どこまでも残酷であった。

「ぁ……」

 呆然と、言葉を失いながら、ただ見つめるしかできない幼い娘の視線の先にあったもの――それは、頭から血を流し、四肢をだらりと垂らしたままピクリとも動かない、自らの父親の姿であった。

「お父さん、助けないと……」

 眼前に広がる光景のショックがあまりにも強すぎて、現実と認識するのに時間がかかっているのか、それとも不安を抱くだけの心の余裕もなくなってしまったのか、幼い花音は、自らの身を守ってくれていたシートベルトを外し、後部座席のドアを開けて、車の外へと出る。

 そこに広がっていたのは、直近の地震によって崩落し、土砂と瓦礫のみとなったトンネルの跡地と、痛々しいほどになぎ倒され、所々ガードレールを突き破りながら道路に横たわる桜の木々だったものたちの骸ともいえる姿であった。

 不幸中の幸いだったのは、自動車のエンジンや電気系統が完全に沈黙しており、爆発の恐れが幾らか低くなっていたことであろう。

「戻れば、誰か……いるかな?」

 元々、車通りの多い道路ではないのは、ここまでの道のりを走ってきて、花音も大体わかってはいた。

 それでも、もしかしたら誰かが助けに来てくれるかもしれない、そうなったらけがをして動けない父親を助けることができるかもしれない――そんな希望的な思いもあって、花音はとぼとぼと、来た道を歩いて戻り始める。

 ただ、幼い花音にとって、その道のりは予想以上に過酷なものであった。

 大人であれば一跨ぎできるような、比較的細めの倒木であったり、瓦礫であったりという障害物であっても、花音にとってそれは乗り越えるべき試練となって立ちはだかる。

 小さな身体を駆使して、やっとの思いで乗り越え、大人にとっても悪路となっている壊れかけの道路を、花音は助けを求めるべく、一心に進んでいくのだった。

 決して楽とはいえない旅路。

 身体も万全とはいえない状態で、そのつらさに顔をくしゃくしゃに、今にも泣きそうになっているところを、寸前でこらえながら、花音は父親の為に、重い足を動かし続ける。

 通常であれば、そんな思いをもってしても、現在の状況的にも花音の努力は徒労に終わるところであるのだが、その時に限っては、天は彼女を見捨てることはなかった。

 疲労のせいであろう、今にも倒れてしまいそうな、ふらふらとした危なっかしい足取りの花音。

 その憔悴しきったといってもいい少女の小さな耳に、どこからともなく女性の歌声が流れ込んでくる。

 瞬間、花音は尽きかけていた希望を取り戻し、歌声の聞こえる方へと、足を進めていた。

 そこに居たのは、美人というよりは、可愛らしいという印象の方が強い、童顔のせいで正確な年齢こそわからないが、決して年配とは言えない外見の女性であり、女性は荒廃した世界の中心に取り残された一輪の花のように、土砂で歪に変形した世界の中心で、驚いた表情で花音を見やった。

「ちょっと、大丈夫⁉」

 女性は、花音の姿を確認するなり歌を止め、すぐ近くまで駆け寄ると、その身体を抱き留める。

「お父さんを……助けて……」

 人に出会えたという安心感故だろうか、花音は女性がどんな人物であるのかなど見極めることをすることもなく、ずっと胸に抱いていた想いを口にする。

 すると女性もまた、不安を煽らないようにする為であろう、日向のような温かな頬笑みを浮かべ、うなずく。

「大丈夫。私が助けてあげるから。だから、お嬢ちゃんも頑張るのよ……あっ、そういえば、お嬢ちゃんは小さいみたいだけど、今何歳?」

 思い出したように尋ねる女性に、花音は思考が満足に回っていないのか、指を3本だけ立てて自らの年齢を教える。

 それを確認するなり、女性は何やら考え込む。

 何か都合の悪いことをしてしまったのだろうかと、花音は不安そうに女性の服の袖をつかみ、その瞳を見上げるが、女性は独り言をぶつぶつ口の中でつぶやくと、何やら納得した様子で小さくうなずいた。

 そして、改めて花音の顔を見つめると、再び柔和な表情を作り、まるでこれから友達と遊ぼうとでもするかのように、とある提案をする。

「ねぇ、お嬢ちゃん。歌……好き?」

「うた? ……うん、好き!」

 女性の声色に誘われてか、花音もその時ばかりは自分に素直に従い、答える。

 すると女性は嬉しそうに花音のくしゃくしゃのくせっけを手ぐしで梳きながら、何やら諭すように、穏やかな口調で語り始める。

「じゃあ、今からあなたにおまじないの歌を教えるわ。もし、これから何か、今日みたいに、どうしようもなく困ったことがあった時、今から教える歌を歌って。もしかしたら、何かの助けになるかもしれないから……」

 そして、女性は花音の手を取りながら、一緒にその『歌』を空へと奏でる。

 その後、二人で花音の父親がいまだ捕らわれている自動車へと向けて、共に歩き始めると、世界は徐々に白みを帯びていき――花音はゆっくりと目蓋を押し上げ、目を覚ました。

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