第8話 住む世界

「えっ……あぁ、かおるちゃん、おはよう」

 背後からの声に、素直に従って振り返った花音かのんの視線の先にいたのは、スニーカーにジャージ、そして首にタオルを掛けた出で立ちのクラスメイト――薫であった。

 薫は直前まで走っていたのだろうことがうかがえる荒い呼吸を整えながら、タオルで顔から噴き出た汗を拭いつつ、花音の側へゆっくりと近づいてくる。

「おはよ。やっぱり花音だったんだ。どうしたの? 部活の朝練っていうわけでもないでしょ?」

「うん、今日は日直だから、早めに登校しなくちゃいけなくて」

「そういえばそんなのもあったっけ。私みたいに練習のついでに仕事こなせるならともかく、日直だけのために登校時間早めるなんて大変ね。お疲れ」

「ううん、そんなことないよ。早起きは大変だけど、いいこともあったし」

「いいこと?」

 薫の問いかけに、花音は答えを指し示すように顔を、アカツキと名乗った少女の板方角へと向ける。

 花音にならって、薫も同じ方角へと顔を向ける。

 しかし、そこにはもうアカツキの姿はなかった。

 それだけではない。

 少女の姿ばかりではなく、彼女の足元に並べられていたアクセサリーや、その台座として使われていた段ボールまで。

 アカツキという少女がそこにいた痕跡が一切消え去っていたのであった。

「あれ? おかしいな……さっきまで確かに居たんだけど」

 まるでキツネにつままれたかのような、腑に落ちないといった顔で、花音は首を傾げる。

 だが、薫はその仕草から花音の伝えたかったことを察したらしく、渋い顔で友人へと忠告を述べる。

「あぁ、あの子ね。最近になってこの辺で店開いてる子でしょ? 私もロードワークの最中に何度か見かけてるから知ってるよ。でもさ、あんま関わり合いにならない方がいいと思うよ」

「えっ、当たってるけど……どうして?」

 驚き半分、戸惑い半分といった様子で聞き返す花音。

 その純粋な疑問をありのまま表に出した花音の顔に、薫は気まずそうに視線をそらし、それでも律儀に自らの抱く思いを伝える。

「いや、そういうグループと関わると、変な噂が立っちゃうからさ。関わりがあるだなんて知られたら、最悪警察のお世話になるかもしれないし……」

「警察が⁉ そんな、大袈裟じゃない?」

「いや、前はそんなでもなかったんだけどね。最近になって、そういう人たちを摘発するみたいな、そういう動きがあるんだってさ。治安維持がどうだとか……」

「でも、私見たけど、そんな悪そうな子じゃなかったよ!」

 摘発という言葉に反応して、花音は感情に任せて薫に詰め寄る。

 そんな花音の反応に気圧され、目を丸くしつつも、薫は丁寧に理由を説明する。

「そんなの私に言われても困るって。第一、この辺を拠点にしてるホームレスだとか戸籍だとか身寄りのない人たちが、生きる為とはいえ犯罪をしてるのは事実なわけだし、それで被害を受けて困ってる人もいるんだよ。もちろん、花音が言う通りそうじゃない子とかいるかもしれないけどさ、そういう組織に属していたら、仕方のないことなんじゃないの?」

「それは、そうかもだけど……助けられるんだったら、助けたいよ」

 薫の言葉に、花音はうつむき、身体全体に悲痛な感情をにじませる。

 そんな花音の姿に、薫も申し訳なさを覚えたのか、一拍置いて、今度は優しく、諭すように言葉を添えた。

「まぁ、私も気持ちはわかるよ。目の前で苦しんでる人を放っておくのはさ。でも、その都度誰かの世話をしてたらキリがなくなっちゃうでしょ」

「うん……そう、だよね」

「……きっと大丈夫だって。行き場のない人たちだってわかってるんだから、警察も捕まえた後でそのまま放り出すなんてことしないよ」

「そう、かな?」

「そうそう、きっと今よりはマシな生活送れるようになるはずだよ。だから、ほら。暗い顔しない。それに、いつまでもこんなところにいたらせっかく早目に登校した意味がなくなっちゃうって」

 不自然に明るい声を作り、先だって駆け出す薫。

「そうだった。私も急がないとっ!」

 自分がこの時間帯に登校をしていた理由を思い出し、ハッと我に返ると花音もまた慌てて駆け出そうとする。

 しかし、元々運動が得意な方でないこともあって、足元がもたつき、大きくバランスを崩してしまう。

「きゃっ!」

 そのままいけば、顔面から地面へ激突してしまいそうな、きれいな弧を頭で描いたマンガのような転倒。

 その迫りくる衝撃に備え、花音はできる限りの反射神経を用いてギュッと目をつむり、身体に力を込める。

 だが、次に花音が感じたは、固い地面の感触などではなかった。

 柔らかで、温かな感触と、どこか落ち着くにおい、そしてトクトクという鼓動の音。

 自分の顔がそこに埋まっていると気付いた花音は、恐る恐る顔を持ち上げる。

 すると、そこには安堵の表情を浮かべた、薫の顔があった。

「花音、大丈夫だった? 急かしたりしてゴメン。まさか、こんなコケそうになるとは思わなかったからさ」

 そう言って薫は優しく抱き留めていた花音の身体を、自らからゆっくりと引き離し、その場に立たせる。

 そして、改めて向かい合ったところで、そっと左手を差し出した。

「ほら、一緒に行こ? こうすれば転ばないから」

「……ありがとう、薫ちゃん」

 差し出された手に、花音は自らの手を重ね、ギュッと握る。

 そして、ギュッと握り返してくる薫の手の感触をしっかりと噛みしめながら、二人は学校への道を、足早に歩んでいった。

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