第5話 学生寮
「はぁ、今日も疲れたぁ~っ」
自室に入り、ドアを後ろ手に閉め、この空間にいるのが自分だけであるという状況が作り出されたとわかるなり、
寮の中とはいえ、多少気を張っていたのであろう、花音の身体からも余計な力が抜け、軽やかな動きで鞄を足元に置くと、そのまま壁際に置かれた机へと花に誘われる蝶がごとく近づいていく。
そして、花音はそのまま椅子を引いて腰掛けると、机上に置かれている数少ない私物のひとつ――海中を模しつつも、色鮮やかな魚たちと西洋の城が共存する、幻想的なデザインのスノードームへと目を向ける。
広さが6畳ほどの白塗りの部屋は、年頃の女子高生が住むにしては広さとしては申し分ないが、置かれているのは味気ない色合いをしたシングルベッドと、これまた白地が基調となっている机、そして収納用のクローゼットのみとなっており、一日の疲れを癒す憩いの場としての役割を担うには、いかんせん物足りなさを覚える。
他の寮生はクッションを持ち込んだり、組み立て式のラックやらミニテーブル、などを揃えたりしていて、独自にアレンジを加えているものの、花音がそれをしないのは、金銭的に余裕がなかったり物理的に運び込むのが難しいというよりは、彼女の性格に起因するものが大きい。
「今日もダメだったよ……先生は気にしなくていいって言ってはくれてるけど、2年になっても魔法が使えないの私だけだし、さすがに気になっちゃうよ」
ため息混じりに落胆の声を漏らし、スノードームへと話しかける花音。
しかし、当然ながらスノードームは何のリアクションも返さず、ただ静かな海中城の姿のまま、窓から差し込んでくる陽光を浴びては、カンバスのようにまっさらな机上に小さなアクアリウムを作り出していた。
「ここに来たら、私でも魔法使いになれると思ったんだけどなぁ……」
自らの心持ちがそのまま重荷となって、花音の両肩にのしかかる。
花音はその負荷に促されるがまま、机に突っ伏しつつ、遠い家族を想い耽るのだった。
昨今の研究の結果、魔法の素養がある者は3歳から5歳の期間に魔法に触れることで、その魔法の系譜を受け継ぐことがわかっている。
通常、魔法の素養がある子が生まれた場合、大概は親族に魔法が使える者が存在するので、その者から簡単な魔法を見せてもらい、その系譜を代々引き継いでいくのが近年の習わしとなりつつある。
花音の場合も、その例に漏れず身内の魔法使いから魔法を見せてもらった過去があり、同席者の証言からも、それは間違いない。
にも関わらず、花音は使えるはずの魔法が使えていない。
何らかの手違いで、素養がないにも関わらず、あると判断された可能性も否定はできないが、その確率は低いと言える。
というのも、素養の検査の精度の高さもあるが、その頻度も学校入学時の健康診断にて、その都度調べられる為、仮に誤認識だった場合、小中高のすべての検査が間違っていたということになり現実的ではないのだ。
だが、系譜を継いだはずなのに魔法を使えないといった問題は、決して珍しいことではない。
魔法という存在は、自分たちが意識している以上に生活に溶け込んでおり、知らず知らずの内に触れてしまっているものなのである。
その為、親族の魔法に触れるよりも先に、何らかの別の魔法に触れ、別の系譜の魔法に染まるといったことは十分にあり得ることなのだ。
実際、
そんな生徒たちも、さすがに一年もすれば自らの系譜を見つけ、多少の練度の差こそあれど、立派に魔法を使って授業に参加をするようになるのだが、花音のように1年が経過してもなお、見つかっていないという状況は至って稀なのである。
「……うん、いつまでも残念がっていても仕方ないよね」
お気に入りのスノードームとのお見合いを終えると、花音は一人そう呟いた後、スノードームを机上の奥側へと置き直し、立ち上がる。
そして、部屋の中央へと移動をすると、片手を前へと突き出し、ポーズを取る。
「今まで何度やってもダメだったけど、何もしないよりはいいよね。もしかしたら、何か変わるかもしれないし……」
そう口にすると、花音はまっすぐ伸ばした手の先へと意識を集中させ、呼吸を整える。
改めて感じる、部屋に広がる静寂。
より鋭敏になった五感を挑発するように、対流する空気の感覚が体表を撫で、陽光から放出される熱量が身体にしがみつき、それまで意識していなかった部屋の空気のにおいがより強く感じられる。
その状況下において、花音は浅くなりつつあった呼吸を一度止め、改めて深く息を吸い込む。
そして、記憶の片隅に残る、
「世に存ずる御霊の力よ、この手に宿り、具現と化せ――」
周囲に漂う空気の質が変わり、これから何かが起こるような雰囲気に包まれる。
しかし、それが持続したのは花音が意識を集中した数秒のみで、すぐさま室内の空気感は日常へと逆戻りした。
「……やっぱり、ダメかぁ」
手応えがなかったのだろう、花音は伸ばした腕を下ろし、がっくりとうなだれる。
「でも、諦めたらそこで終わりだよね。もう一回!」
花音はすぐさま気持ちを切り替え、再度腕を持ち上げ、御厨家に伝わる呪文を口にする。
「世に存ずる御霊の力よ――」
その後も花音は、呪文を唱えるスピードを落として、声色を変えて、言葉に強弱をつけてみたり、独自のアレンジを加えながら、幾度と呪文を繰り返す。
しかしながら、どれだけ花音が呪文を唱えても、魔法が発せられる気配は一向になく、時間ばかりが流れていき、窓から差し込む日差しも赤味を帯び、より部屋の奥まで届くようになっていた。
そして、花音がそれを意識する頃には日は大きく傾き、寮内にも人の気配があちこちから感じられるほどになっていた。
そこへ途端に鳴り響く、軽やかなベルの鳴音。
それが意味するのは、寮の食堂が開く時間であり、夕食の刻を知らせる合図。
もちろん、昨年より寮で生活をしている花音が知らないはずはない。
「あっ、いけない――もうこんな時間っ!」
我に返った様子で、花音は部屋を出ようとする。
だが、廊下へ向かって歩き出した花音の足はピタリと動きを止める。
「――って、私、まだ制服のままだった! 早く着替えないと!」
基本的に、学園より帰宅したらすぐに部屋着へと着替えることになっている。
それを思い出して、花音は慌ただしく身に着けていたセーラー服を脱ぎながら、クローゼットを開けて部屋着を探し始めるのであった。
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