第25話 お別れ

 どれくらい時間が経ったのだろう。ようやく目を開けることができた僕の視界に、久しぶりに顔を覗かせた青空が映る。


「狐の嫁入り……」


 穏やかな風が吹き、空には綺麗な虹がかかっている。それにも関わらず、ぽつぽつと降り続く雨。太陽光を浴びた雨がとてもキラキラしていて、神秘的な空間にいるように思えた。


「終わったのですね……」


 イリスが僕の隣まで歩いて来た。


「うん。これでブルーローズのマナは、全部ブレイブソードに吸収されるはず……ねえ、イリス」

「はい、何でしょうか?」

「剣に吸収されたマナはどうなるのさ。もしこのまま剣に残されたままだったら、ブルーローズの時と同じで、またこの剣を狙う人が現れるかもしれない」


 今のままでは、ブルーローズの時と状況が変わらない。僕やイリスが望むのは、ブルーローズに溜められたマナを無くすこと。


「大丈夫です。そうですよね、クリス」


 後ろを振り向くと、そこにはクリスがいた。


「ブレイブソードに蓄えられたマナは、誰もが自由に使うことができる。使いたいマナを自由に取り出せるところが、ブルーローズとの一番の違いだ」

「つまり強大なマナにのみこまれる心配がないってこと?」

「ああ。そういうことだ」


 力の暴走がない。それはアリアスにとって、とても良いことに違いない。


「クリス……本当に無事で良かった」


 イリスはクリスの胸に飛び込んだ。


「姫様。心配かけてすみませんでした。ダーゲンの攻撃を受けましたが、辛うじて急所を外すことができました。本当はもっと早く駆けつけたかったのですが、回復に時間が」

「いいの。クリスが無事なら。私はそれだけで……」


 イリスの頭を撫でながら、クリスは僕を見据えた。


「ヒカル……姫様を、アリアスを救ってくれたこと。本当に感謝してる。ありがとう」


 頭を下げたクリスに、僕は顔を上げるように促す。


「僕はただ、自分にできることをしただけで。実際に僕は何もしてない。イリスが僕に力をくれなかったら、何もできないただの人間でしかないし。それでも僕はこの世界に来た。それは、イリスが最初から僕を信じ続けてくれたからで」


 夢を夢で終わらせなかった。それを現実だと最後まで信じぬいたイリスの思いが、結局はアリアスの平和につながったんだと今は思う。


「そうだ、これからアリアスの復興ですよね。退魔の剣のマナを使って、城下街やアリアス平原を元通りの姿に」

「ええ。そのつもりです。ですが、その前に……」


 イリスが横を向く。その視線の先にはダーゲンの亡骸があった。僕は近づき、ダーゲンの心臓から剣を抜く。既にブルーローズのマナは、剣に移行されていた。


「本当に哀れな男です。強大な力を欲したあまり、その力の大きさに飲み込まれるとは。ダーゲンについては、これから調査が必要になると思います。もしかしたら、我々が判断を誤った可能性もありますので」


 ダーゲンは既に息絶えていた。本人の口から聞くことはもうできない。でも、もしダーゲン自身が言っていた通り、アリアスで生まれ追放されたのだとしたら。いずれ全ての原因が判明するはずだ。


「それよりも、今はもっと大切なことがあります」

「大切なこと?」


 イリスの表情が歪む。俯いたイリスが話し出すのを、僕は黙って待つ。


「……役目を果たしてくれたヒカルを、元の世界に帰さないといけません」

「元の世界って……たしかにそうかもしれないけど、僕には帰る手段がない」

「ありますよ。転移魔法が」

「絶対に駄目だよ。僕は転移魔法を使いたくない。だってそれを使うってことは、誰かの命を犠牲に……」


 イリスの言いたいことに僕は気づく。あるじゃないか。僕の世界にあった、思い入れのあるものが。ズボンのポケットに手を突っ込んだ僕は、そこから小袋を取り出す。まだ開封されていない小袋を手にした時、僕の頬を一筋の涙が流れた。


「えっ……」


 自分でもわからなかった。どうして涙が出るのか。

 瞬間、僕の身体全体が青白く光りはじめる。


「これって……」


 動揺する僕はイリスを見つめる。イリスは落ち着いていた。まるで僕に起きていることを、事前に知っているみたいに。


「帰る手段に気づいた今、この世界で行うべきヒカルの役割は全て果たされました。その光はヒカルの意志を聞いています。元の世界に帰りたいのか、この世界に住みたいのか」

「僕の……意志……」


 戸惑う僕に対して、突然イリスは深く頭を下げた。その行動に僕は驚きを隠せなかった。


「イリス?」

「これは私のわがままだと思って聞いてください」

「わがままって……」

「アリアスを救ってほしい。そう頼んだ私の望みを、ヒカルは叶えてくれました。本当にこれ以上のことはありません……もし、ヒカルがこの世界で生きたいと思うなら。私はヒカルの栄誉を称え、永住の権利を与えたいと思っています。誰も反対しません。だってヒカルは、アリアスを救った英雄なのですから。それに……」


 イリスは一度言葉を切ってから、僕を見つめて言った。


「私はヒカルとずっと一緒にいたい。そう思っていますので」


 イリスの言葉に、僕は心臓が止まりそうになった。

 嬉しくないわけがない。誰かに一緒にいることを望まれるのは。高校生のほとんどを透明で過ごしてきた僕にとって、イリスの言葉は心の奥深くに突き刺さるものだった。

 この世界で過ごせば、確かに僕は自分の存在を肯定できるのかもしれない。不自由なく過ごせるのかもしれない。それに僕にしかできないことだってある。透明でいる機会は、もう一生ないはずだ。

 でも。

 僕は今の思いをイリスにぶつける。


「この世界で、僕は大切なものを取り戻せた。それは間違いなくイリスのお蔭だと思ってる。イリスが僕に手を差し伸べてくれなかった、僕はこれまで通り、この先の人生も台無しにして生きていくしかなかったから。本当にありがとう」


 僕は深く頭を下げた。数十秒の間、沈黙が続く。そしてゆっくりと身体を起こした僕は、自分の意志をイリスに告げる。


「だけど僕には、まだやるべきことがある。透明の自分を本当に終わらせるためにも。だから僕は……僕の世界に帰るよ」


 後悔したまま終わることは、僕には耐えられなかった。自ら積み重ねてきた過ちの数々。それを償うためには、戻らないといけない。現実と向き合って戦うことができるのは、他の誰でもない僕自身なのだから。


「……わかりました」


 イリスは目を閉じると、何かを吹っ切ったように晴れやかな表情を晒した。瞬間、身体全体の光が消えていく。


「光が……」


 イリスは悪戯を成功させた子供のように、ニヤリと笑みをみせた。


「ヒカルの本音を聞きたくて、クリスに演出してもらいました」

「え、演出?」

「そうだ。もしヒカルがアリアスに残る選択をして、その選択に後悔してほしくなかったからな。でも、今の思いは間違いなく本物だった。光が消えたことがそれを物語っている」


 クリスが僕の頭をポンッと叩くと、地面に魔法円を書き始める。それを横目に、イリスが口を開く。


「アリアスに来る前、私はヒカルと約束をしました。もしヒカルがアリアスを救ってくれたのなら、石川さんと高岡君の真意を教えるって」


 確かに僕はその約束をした。だから僕には知る権利がある。実際に僕はどこかで期待していた。イリスが二人の真意を教えてくれることを。魔法で知ることに、嘘はないと思っていたから。

 でも、今は……。


「それについては、聞かないことにするよ」


 そう言えるだけの自信が、今の僕にはあった。


「……いいのですか?」

「うん。もう大丈夫。それに魔法で相手の心を知るのは、やっぱり良くないって思う。ちゃんと向き合って、本音をぶつけ合う。そうすることでしか伝わらない何かが、きっとあると思うから」

「……そうですね。ヒカルの言う通りだと思います」


 イリスは笑みを見せると、僕に手を差し伸べた。


「ヒカル、小袋を私に」


 イリスは僕から小袋を受け取ると、僕に背を向けて袋の中身を取り出した。


「これは……」


 言葉を失っていたイリスのことが気になり、僕はイリスの手元を覗き込む。しかしイリスの右手は、ギュッと握られていた。


「何が入ってたの?」

「……内緒です」

「えっ……どうして?」


 イリスは僕を見つめると、いたずらっぽく笑った。


「ヒカルにとって、一番の宝物になる代物なので。ヒカルの世界で直接確かめてください」


 僕にはイリスの言いたいことがよくわからなかった。でもイリスが言うように、内緒にされたままでいることで、袋の中身が一番の宝物になるのなら。それでいいと思った。


「姫様、ヒカル。準備できました」

「ありがとう、クリス。それじゃ、ヒカル。魔法円の中心に」


 イリスに背中を押され、僕は魔法円の中心に立った。すると魔法円が光を帯び始める。

 その光景を見た瞬間、とてつもなく大きな寂寥感に襲われた。


「イリス、やっぱりまだいいよ。アリアスの復興を手伝ってからでも遅くないって。それに、他にも挨拶しないといけない人が――」


 突然されたことに僕は理解が追い付かなかった。先程まで魔法円の外にいたイリスが、僕の目の前にいる。それだけなら、こんなに驚くことはなかったかもしれない。僕が驚いたのは、イリスの唇が僕の唇と触れていたから。

 やがて唇が離れ、僕はイリスと目が合う。


「い、イリ――」


 イリスは人差し指を僕の唇に当ててきた。イリスの行動に、僕は息を呑む。


「人の心は移ろいやすいのです。だからこれ以上、ヒカルをこの世界に残すわけにはいきません。いつでも帰れる。その油断が、後に大きな悪影響を与えるかもしれないのですから。ヒカルには、ヒカルの世界でやるべきことがあるはずです。だから……今すぐ帰りなさい。ヒカルのいるべき場所へ。これは……王女である私からの最後の命令です」


 イリスは手に持っていた物を床に置くと、僕に背を向けて魔法円から出ていった。

 僕はギュッと手を握る。人の心は移ろいやすい。本当、イリスの言う通りだ。僕は離れて行くイリスを見るだけで、涙が止まらなかった。

 でも、僕は自分で決めたんだ。アリアスに残らず、元いた世界に戻ることを。それをイリスも望んでいる。なら、僕が言うべきことは……。


「……わかったよ、イリス。僕は……最後の任務を果たしてくる」

「……ええ」


 振り向いたイリスは満面の笑みを見せていた。僕もその笑みに応えるように、笑顔を作る。

 とめどなく溢れる涙を止められなった。でも、僕は嘘をつけなかった。この涙だけは、何があっても否定したくなかったから。

 僕を包む光が一段と強くなった。

 もう三度目。この後どうなるか、僕には容易に想像できた。想像通り、床に置かれた物がゆっくりと宙に浮かび上がっていく。そしてそれは僕の目の高さで停滞した。瞬間とてつもない光を放ち始め、僕を一気に飲み込んでいく。

 これで本当にお別れだ。アリアスとも、イリス達とも。目を閉じた僕は、そのまま流れていく時に身を任せようとした。


「ヒカル!」


 何処かで僕を呼ぶ声が聞こえる。目を開けると、見渡す限り白い靄に包まれた世界に一匹のリスの姿が見えた。


「ロゼッタ!」


 僕はロゼッタの元へ歩み寄る。


「ちょっとあんた、私に何も言わないで帰るつもり」

「違うって。さっきまで姿が見えなかったからさ」


 ダーゲンに最後の一撃を与えた後、肩にいると思ったロゼッタは姿を消していた。


「流石に使い魔には限界だったわ。何なの、あの高圧的なマナは。苦しくて、姫様の中に隠れていたのよ」

「そうなんだ……ごめん、苦しい思いをさせて」


 僕はロゼッタの頭を撫でる。出会った頃は直ぐに尻尾で叩かれたけど、今は素直に撫でさせてくれた。


「べ、別に。それより……私も悪かったわ。ずっと一緒に戦えなくて」


 ロゼッタは突然僕の手を尻尾で振りはらうと、その尻尾に顔を埋めた。


「何してるの?」

「う、うるさいわね。こうすると落ち着くのよ。本当、あんたと一緒にいると……それより、伝えたいことがあるの」

「伝えたいこと?」

「ええ。姫様は言わなくていいって言ってたけど……本当はヒカルに知ってもらいたかったはず。だから代わりに伝えに来たの。姫様の……真名を」

「……教えてロゼッタ。僕も知りたい。イリスの本当の名前を」


 ずっと知りたいと思ってた。イリスという名が、王女につけられる名だと知った時から。夢で出会い、僕を変えてくれた大切な人の名前。それを知らずに帰るのは、僕にとって一生悔いの残るものになる。


「わかったわ……姫様の真名は――」


 名前を聞いた瞬間、意識が薄れていく感覚に襲われる。

 イリスの真名。それはイリスにぴったりな名前だった。アリアスを愛し、皆を愛し続けた一国の王女。そんな愛に溢れた人につけられた名前だと。僕はそう思った。

 ゆっくりと目を閉じる。次に目を開けた時には、僕のいるべき世界に戻っているんだろう。アリアスの騎士ではなく、ただの高校二年生に。

 でも、以前とは違う高校二年生だということは僕もわかる。

 だって僕は、僕の世界でも使える魔法をこのアリアスで手に入れたのだ。

 勇気という一番大切な魔法を。

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