第4話 アリアスとブルーローズ
栗ヶ峰高校は北棟と南棟の二棟を中心とした作りになっている。僕は最初に教科別の教室が集約されている北棟へと、イリスを案内しようとした。
でもイリスは僕の提案に首を横に振ると、行きたい場所を告げてきた。
「屋上に行ってみたいです」
呆気にとられる僕を余所に、イリスは僕の手を握るとゆっくり歩き出した。
「ちょ、イリス……さん」
「呼び捨てでいいですよ、ヒカル」
平気な顔をしているイリスとは違って、僕は異性と手を繋いでいることを意識してしまい、頬が熱くなるのがわかった。
テスト終わりの放課後ということもあり、廊下に生徒はほとんどいなかった。それでもすれ違う生徒はいるわけで。僕とイリスが手を繋いでいるのを見て、唖然とした顔を晒す人がほとんどだった。
当然の反応だと思う。冴えない容姿。筋肉のない細いだけの身体。そして眼鏡。何一つ取り柄のない男子の隣に、容姿端麗で笑顔の素敵な金髪の女子がいるのだ。美女と野獣とでも言うべきなのだろう。それくらい僕とイリスが並んで歩いているのは、傍から見ても意外すぎることなのだ。
なるべく目立たない様にしないと。僕は俯いたまま、イリスに手を引かれるようにして歩くしかなかった。
階段を上り、教室があった三階から最上階の屋上へと移動する。その間、イリスが僕に話しかけてくることはなかった。僕の方を見向きもせず、目的の場所へと淡々と歩を進めていく。
周囲に生徒がいなくなったのを機に、僕は顔を上げて前を行くイリスの横顔を見た。そこにはさっき教室で見せていた笑みは一切なく、まるで男性のような精悍な顔つきをしたイリスが僕の手を引いていた。
栗ヶ峰高校の屋上は緑化推進プロジェクトと銘打って、草花が生い茂る庭園になっている。誰でも出入りが自由なこともあり、お昼休みには所々に設置されている東屋が女子のたまり場となっていた。そんな東屋もテスト明けの放課後ともなれば、このように閑古鳥が鳴いている。目の前に広がる庭園を見たイリスは、感嘆の声を漏らしながら僕の手を離すと、近くの東屋へと向かった。
「ヒカルも早く来てください」
イリスの声に導かれるように僕も東屋へと向かい、隣に腰を下ろす。普段は屋上など来ない僕にとって、この東屋から見る景色は新鮮だった。周囲の草花に癒され、気分が楽になる。
「いきなりすみません。わがまま言ってしまって」
「いや、別にいいけど。どうしてイリスは屋上に来たかったの?」
「ここなら、ヒカルと二人だけで話せると思ったからです」
イリスは身体を僕の方へと向けると、さっき見せていた精悍な顔つきで僕を見つめる。そして腰を上げたイリスは、頭を下げて言った。
「単刀直入に言います。ヒカルに私の国を救ってほしいのです」
「国を救うって……もしかして、アリアスのこと?」
「はい」
イリスは顔を上げると、さっきよりも距離を詰めて僕の隣に腰を下ろした。イリスの真剣な眼差しが、僕の両目を捉える。
「私、小さい頃から同じ夢を何度も見ていました。アリアス周辺が真っ黒な雲に覆われていく中、隣国のブリノスの王子であるダーゲンに追われる夢を。そんな時に私は、一人の男性と出会いました。その男性は雨が降りしきる中、傘もささずにアリアスの地に立ち尽くしており、黒縁の眼鏡をかけていました」
「黒縁の眼鏡……それって」
僕は自分を指差す。イリスは首を縦に振った。
「私は会った時に思いました。もしかしたら、この人がアリアスを救ってくれるのではないかと。だから私は言いました。アリアスを救うために来てくれたのかと。しかし返事を聞く前にダーゲンが現れて……」
その後の結末は僕も知っている。僕は黒マントのあいつに殺されるのだ。
「ダーゲンの放った魔法によって一時は窮地に陥るのですが、その魔法を見事に打ち破って、ダーゲンに最期の一撃を与えることに成功するのです」
言い間違いだと思った。僕がずっと見ていた夢と、イリスが語ってくれた内容が異なっていたから。
「違う……僕は黒マントのあいつ……ダーゲンに負けたんだ」
「いいえ。ヒカルは勝ちます。私は何度も勝つ瞬間を見てきました」
「僕だって、イリスと同じ夢をずっと見てきた。僕が覚えているのは、ダーゲンの魔法で殺される結末で」
「ヒカルは何処まで覚えているんですか?」
「何処までって、ダーゲンの魔法に取り込まれて……」
いつも僕の夢はそこで終わっていた。だからその後に何が起こったのかなど、考えもしなかった。
「ダーゲンの魔法に取り込まれるまで、私とヒカルは全く同じ夢を見ています。ヒカルは知らないだけなんです。取り込まれた後に、ダーゲンの魔法に打ち勝つことを。そしてアリアスが、私達の世界がヒカルの手によって救われることも」
イリスが僕の手を包み込むように握ってきた。
「この夢は、アリアスを救うためのお告げだと私は思ってます。そうでなければ、こうして私とヒカルが出会うこともなかったはずです」
夢のお告げ。
確かにお告げとでも言わなければ、僕にも説明がつけられなかった。
二人が同じ夢を見ていて、同じ出来事を共有していて。そして今、こうして夢以外の場所でも会話を交わしている現状に。
「アリアスに危機が迫って……いや、もしかしたら今この瞬間にもダーゲンが動き始めるかもしれません。お願いします。どうか私と一緒にアリアスに来てください。そしてアリアスを……救ってください」
ぎゅっとイリスに握られた手に力が入ったのがわかった。イリスは本気で僕に助けを求めている。ただ同じ夢を見ていただけの僕に。
本当にできるのか。少し考えてみる。アリアスを救うには、あのダーゲンを倒さないといけない。でもいくら考えても、ダーゲンに倒されるイメージしか湧いてこない。
「……やっぱり無理だよ」
「無理ではありません」
「無理だって! 僕には……無理なんだ」
そうだ。今の僕には何かできる力なんてこれっぽっちもない。それは誰の目から見ても明らかだ。現に僕は親友の咲を泣かせ、聡からも最低と言われる人間。周りの人達を悲しませている僕なんかが、一国の危機を救うなんて絶対に出来っこない。
「ダーゲンに勝つ力なんて、僕にはこれっぽっちもない。腕力や脚力があるわけでもないし、そもそもあの黒い球体に対抗できる手段なんて……」
ふと違和感を覚えた。どうして僕はイリスの話を真に受けていたのだろうか。
そもそも魔法なんて、実際に誰も使えないはずなのに。
「ヒカル……」
イリスが僕を見つめてくる。その真剣な眼差しを見ていると、イリスが嘘をついているとは到底思えなかった。どうにかして僕に救ってほしいと願うイリスの思いが、未だに強く握られた手からも、十分伝わってくる。
もし魔法が使える世界があるのなら。間違いなく僕の住んでいる世界の話ではない。
それならイリスはいったい何処から来たのか。
僕はまだ知らないことが多い。イリスについて、もっと知らないといけないことが沢山ある。
「あのさ、イリスって何処から来たの?」
「何処って……アリアスですけど」
「そうじゃなくて。さっき先生はイリスがヨーロッパから来たって言ってた。でもそれって嘘だよね?」
もしかしたら知らないだけで、アリアスという国が実在するのかもしれない。でもアリアスのことなんて、テレビやネットでも僕は目にしたことがなかった。
「……ごめんなさい。ヨーロッパにあるって言ったのは嘘です。でも、アリアスは本当に存在します。ヒカルの世界には存在しないのですが」
「それじゃ、何処にあるのさ」
「そうですね……わかりやすく言うなら、異世界ってことになるのでしょうか」
異世界。イリスの口から出てきた言葉を、僕は上手く消化できなかった。異世界なんて、小説やゲームの中でしか出てこない世界だと思っていたから。
でも異世界とでも言わなければ、魔法が使えることに説明をつけられない。
「その異世界……アリアスからイリスはどうやってここにきたの?」
「魔法を使ってきました……もしかして、一緒に来てくれるのですか?」
イリスは密着しそうなくらい顔を近づけてきた。
翡翠色の綺麗な瞳に、僕は思わず吸い込まれそうになる。綺麗な鼻筋が示している通り、バランスの取れた顔つきをしているイリス。それに加え女の子特有の良い匂いが、僕の鼻腔をくすぐった。
「ちょ、ちょっと待って。第一、僕はまだイリスについて知らないことが多すぎるんだ。だから色々と聞きたくて……」
「そ、そうですよね。私ったら、つい嬉しくて……」
頬を赤らめたイリスは、僕と少し距離を取った。おそらく僕の顔も、イリス以上に赤くなっていると思う。
「あのさ、イリスのお父さん……国王様に夢のことは話したの?」
「はい。既にお父様にはこの夢のことを告げています。ですが、私の話に聞く耳を持ってくれませんでした。当然です。所詮私の見た夢の出来事なのですから」
「そっか」
「私の話を信じてもらえないだけなら、良かったかもしれません。最悪なことに、お父様はブリノスとの和睦を進めているのです」
「ちょっと待って。和睦を進めるのは良いことじゃないの?」
争いがなくなるのなら、イリス達にとっても決して悪い事ではないはずだ。ダーゲンと仲良くなれば、アリアスだって救われるかもしれないのに。
イリスは僕の問いを激しく否定した。
「絶対に駄目です。和睦を進めれば、それこそダーゲンの思う壺です。私には何となくわかるのです。ダーゲンが和睦の先に何を狙っているのかを」
「狙い?」
イリスは頷くと、僕にその狙いについて話した。
「ダーゲンは、アリアスにあると言われている一輪の花『ブルーローズ』を手に入れようとしているのです」
「ブルーローズ……」
「ブルーローズは、何でも一つ願いを叶えてくれる奇跡の花と言われています。もしダーゲンのような悪しき者の手に渡れば、アリアスだけでなく全世界がダーゲンの手に渡ってしまうことでしょう。私はそれをどうにかして阻止したいのです」
イリスは膝の上でギュッと手を握った。その手は小刻みに震えている。
「そのブルーローズは何処にあるのさ。誰かが守っているの?」
「いいえ。そもそも守る必要がないのです」
「必要がないって……どういうこと?」
「ブルーローズの在り処は、誰も知らないのですから」
イリスの発言に、僕は開いた口が塞がらなかった。
「知らないって……それってブルーローズはないかもしれないってことだよね。どうしてダーゲンは、ないかもしれないものを狙うのさ?」
「わかりません。でもダーゲンは絶対にあるという確信を持って、我々に接してくるのです。まずは和睦と銘打ってお父様へと近づきました。そしてお父様の機嫌を窺っては、しきりにブルーローズが何処にあるのかを尋ねてくるのです。当然、私もお父様も在り処など知りません。私達が何も答えない日々が続くと、ダーゲンは次の手段として私との婚約を迫ってきました。和睦を進めるための口実として」
「こ、婚約って……」
イリスとダーゲンが結婚……いやいや、絶対にありえない。
動揺する僕を見て、イリスは微笑んだ。
「当然、断りました。あの男からは悪しき感情がにじみ出ています。もっとも、お父様は気づいていないみたいですけど」
イリスはすっと立ち上がると、僕を見据えた。
「私にはわかります。あの男は外堀を埋めて、本来の目的であるブルーローズを手に入れようとしている、卑劣極まりない男だと。このままだとお父様がダーゲンとの和睦を結び、アリアス内で自由を与えてしまうのも時間の問題なのです。お父様はもう当てになりません。ですから、私とヒカルで何とかしてダーゲンを止めたいのです」
ようやく僕は事情を飲み込んだ。
どうしてアリアスを救いたいのか、どうして僕を探しに来たのかを。
「ヒカルには誰にも負けない勇気と、誰かを守れる優しさがあります。実際に夢で私達のことを救ってくれました。だから絶対にできるはずです」
一切の迷いをイリスから感じることがなかった。絶対に信じて疑わない。それだけの何かが僕にはあるみたいだ。
でも。
「……やっぱり無理だよ。実際の僕はポンコツなんだ。イリスだってさっき見てただろ? クラスのみんなから馬鹿にされる僕を」
「……ええ。先程、教室で」
本当の僕は優しさの欠片もない男。イリスができると言ってくれる僕は、所詮夢の中の僕でしかないんだ。
それに僕にはイリスの世界を救う以前に、やるべきことがある。自分のことさえ何もできていないのに、他人の頼みを聞いていられるほど、僕はお人好しではない。
断ろう。
僕はイリスに視線を向け、口を開こうとした。
しかしイリスの発言が、そんな僕の考えを上書きする。
「高岡君や石川さんの気持ち。私にも痛いほど伝わってきました」
「……なんだよそれ」
血の気が一気に頭に上った僕は、たまらずイリスを睨み付ける。そんな僕の視線など臆せずに、イリスは視線を逸らそうとしなかった。
「イリスにわかるわけないだろ! 今日、転入してきたばかりのくせに。僕達の関係を何も知らない人に口出しなんてしてほ――」
突然の出来事に僕は言葉を失った。イリスの金髪が僕の頬にそっと触れる。柔らかい感触に包まれ、僕は完全に体が硬直した。
「ヒカルは今、悩んでいます。石川さんや高岡君のことで」
イリスは僕の頭をゆっくりと撫でてきた。まるで子供をあやすお母さんのように。そんなイリスの優しさに包まれた僕は、完全に落ち着きを取り戻した。
「私が解決してあげましょうか。石川さんが何を思っているのか、高岡君が言った言葉の真意は何か」
僕は忘れていた。どうしてイリスが、咲や聡の気持ちがわかると言い切れるのかを。
「魔法を使って?」
イリスは僕から離れると、首を縦に振った。
「本当にできるの?」
「はい。だって魔法ですから」
屈託のない笑みを見せたイリスは、僕から数歩離れる。
「ヒカルが私と一緒に来て、ダーゲンの魔の手からアリアスを救ってくれた暁には。必ず石川さんや高岡君の真意をヒカルに教えます。だから……」
イリスは僕を見ると、再び頭を下げた。
「お願いします。アリアスを救うために、私と一緒に来てください。私に力を……ヒカルの力を……貸してください」
イリスの嗚咽が僕の耳に入ってくる。どうして僕はまた、女の子を泣かせているのだろうか。自分の無力さに腹が立って、悔しさを拳に込めた。
夢を夢で終わらせようとしなかったイリス。こうして異世界から僕の世界に来て、自分の国を守るために頭を下げている。よくよく考えれば、イリスは一国の王女だ。普通ならこんなポンコツでクズな僕に頭を下げるなんて、絶対にありえないこと。それでもイリスは国を救いたい一心で、自らの誇りを捨てる覚悟を持って僕にぶつかってきた。
それに比べて僕はなんだ。信じてくれる人の気持ちも考えずに、直ぐに断ろうと思っていた。
本当に最低だ。聡の言う通り、今の僕には何もわからないわけだ。
だって僕は自分のことしか考えていなかったのだから。
どうせ無理。いつの間にかその言葉が僕の口癖になっていた。まだ何もやってもいないのに。最初から無理と決めつけて、逃げるという選択肢しか選ばないようにしてきた。
でもイリスは違う。自分を信じるだけでなく、僕のことも信じて行動を起こした。そして夢を現実に変えようとしている。
もし僕にもイリスみたいに何かを変える力があるのなら。その先に僕が知りたかったことを知る機会を得られるのなら。
透明を望んでいた僕には見えなかった答えに、辿り着けるのかもしれない。
「……わかった。僕にできることなら協力するよ」
「……本当ですか?」
「うん」
最後まで駄目な僕を信じてくれたイリスに、賭けてみたいと思った。イリスの世界を僕の手で救う。それが僕にとってとても大事で、なくてはならないことのような気がしたから。
「ありがとう、ヒカル」
イリスは満面の笑みを浮かべた。目から涙が溢れている。でもその涙はさっきとは全く違った。とても綺麗で、儚く、そしてとても美しい涙。そう僕は思った。
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