一章
第2話 欧州からの転入生
「はい、そこまで。一番後ろの席の人は、前の列の解答用紙を回収して教卓まで持ってきてください」
チャイムと同時に、試験監督の声が教室に響き渡る。
高校二年生の五月下旬。一学期の中間テスト全日程が、たった今終わりを迎えた。生徒達の話し声を皮切りに、教室内に張り詰めた空気が弛緩する。
「光、どうだった?」
そんな空気に便乗するように、爽やかな笑みを見せ、僕に声をかけてくる好青年。
「うーん……微妙かな。聡は?」
「まあ、悪くはないな」
「悪くない、か。そう言うときの聡は、いつも成績上位に入ってるんだよな」
「そんなことないって。光だって今回も頑張ったんだろ。テスト勉強」
「うん……でも、どうせ頑張ったって――」
僕には無理だから。
そう言いたかったのに、言葉が出てこなかった。
決してマイナス発言をしたくなかったからではない。僕が頑張っても無理なのは、自分自身でもわかっている。ただ今は、笑顔で話す彼女の姿が目に入ってきたからで。
小さい頃から可愛いと言われていた咲は、中学生になってからますます可愛さに磨きがかかり、高校生となった今、可愛いだけでなく綺麗な女の子へと成長していた。性格も温厚で、飾ることが一切ない彼女の人気は絶大で、ほとんどの男子が好意を寄せているほどだ。
――ずっと三人でさ、いつまでも仲良くしてようね。
高校生になる直前の春休み。咲は笑顔で僕と聡にそう告げた。
「当然だろ。俺達はずっと変わらない。そうだろ、光」
「ああ」
僕達二人も咲と同じ気持ちだった。だからこそ二つ返事で、咲の思いに頷いていた。
変わらない。ずっと信じて疑わなかった。
同じ高校に進むことが決まったのも、どこかで離れ離れになりたくないって三人が思っていたからで。この強固な関係に亀裂が生じる隙なんてどこにもないはず。そう思っていた。でも僕達三人の関係は長くは続かなかった。
高校一年生の夏休み以降、僕は咲と会話を交わさなくなった。理由は不明。ただ高校に入学してから咲と会話する回数は、明らかに減っていたのを僕自身も感じていた。だからこそ、こうなることは自然の流れだった。
そもそも僕は容姿も良くないし、咲みたいに華があるわけでもない。特に優れているところも一切ない普通の生徒。所詮、教室の隅で本にかじりついている眼鏡男子だ。
そんな何をとっても良い所なんて一つもない僕が、学年一の美少女である咲と話す資格なんて、そもそも最初からなかったんだ。
「咲、テストどうだった?」
声をかけた聡は、僕の元を離れて咲のいる席へと向かっていった。
そう。咲と話す資格があるのは、聡みたいなイケメンだけ。僕は遠目で二人の様子を窺う。
「うん、今回もほぼ完璧かな」
「流石だな。学年一位には敵わないわ」
「そんなことないって。聡君だって本当にすごいよ。部活大変なのに、成績上位にいつも入ってるんだから」
二人の笑い声が僕の耳へと入ってくる。さっきまで咲と一緒にいた女子達が、いつの間にかいなくなっていた。聡と咲を二人にしてあげたのかもしれない。そうしてあげたくなる気持ちは、僕にも十分わかる。
聡と咲。学年一の美男美女である二人が仲良く話している姿を見れば、誰もがお似合いのカップルだと口を揃えるはずで。それに加えて二人は幼馴染同士ということもあり、既に付き合っているのでは。という噂が後を絶たなかった。
「席に着いてください。帰りのホームルーム始めます」
先生の声に従い、皆が一斉に自分の席へと戻る。聡も咲に笑みを見せてから、自分の席に座った。その後ろ姿を見届けた僕は、視線を教壇へと向ける。
瞬間、僕は自分の目を疑った。
「綺麗……」
「誰? 誰?」
「金髪の美少女だ」
先生の後ろをついてきた可憐な女の子から、僕は視線を逸らすことができなかった。
歩くたびに揺れる金色の綺麗な髪。翡翠を埋め込んだような大きな瞳。その姿は気品があり、見るもの全てを虜にする美しさを放っていた。
「どうして……」
僕は目の前に現れた彼女を、確かに見たことがあった。
でもそれは、僕の世界に存在する人物のはずで。僕だけしか知りえないはずで。
何度も目を擦り、僕は再び教壇の方へと視線を向ける。しかし彼女の姿は、確かに僕の視線の先に存在していた。
「帰りのホームルームを始める前に、新しい仲間を紹介しようと思います」
先生の声を皮切りに、教室内のざわつきが瞬時におさまる。その行為に敬意を示すように、皆に向かって一礼した彼女は、一歩前に出ると教室内を見渡していた。
僕は彼女に見つからない様に、前の席の生徒の背中に隠れるように身を潜める。
何となくだけど、見つかりたくなかった。彼女と目が合えば、嫌でも本人だと認めてしまう気がしたから。
深呼吸をして、焦る気持ちを落ち着かせる。そして僕は、一つの答えに辿り着いた。
目の前にいる彼女は容姿がに似ているだけで、僕の知らない人。焦っている自分が可笑しいのだと。
しかし彼女の発した一言が、僕に現実を突きつけてきた。
「イリスと申します。このクラスに転入してきました。よろしくお願いします」
クラスメイトの拍手に教室が包まれる中、僕はただ一人動揺していた。
別人ではなかった。僕が知っている彼女と同じ名前で、同じ容姿。そして何より、夢の中で聞いたイリスの声がこの教室に響き渡った。目の前にいるのは、僕の知っているイリス本人。
ゆっくりと身体を起こして、教壇に立っているイリスへと顔を向けた。
瞬間、吸い込まれるように僕の瞳とイリスの瞳が交差する。
「イリスさんはご両親の仕事の都合で、今朝ヨーロッパの方から日本へ来られました。本来は明日、正式にこの学校の生徒になる予定でしたが、イリスさんが早くみんなにお会いしたいとのことでしたので、このタイミングで来てもらいました。明日から本格的にみんなと勉学に励んでもらうつもり……ってイリスさん!」
先生の制止を無視したイリスは、真っ先に僕の座っている教室の一番後ろ、窓側の席へと向かってきた。僕は咄嗟に机に入れていたノートを取り出し、イリスに見つからないよう自分の顔を隠す。
でも、そんな子供じみた行為で欺くことなどできず、僕の隣でイリスが足を止めた。
「ヒカル……ですか?」
「そ、そうだけど……」
ノートを閉じて机に置いた僕は、イリスに視線を向けた。するとイリスは満面の笑みをみせて僕に言った。
「私……ヒカルに会いたかった」
イリスは両手を横に広げると、突然僕の顔を包み込むように、優しく抱きしめてきた。
「えっ……ちょ、ちょっと……」
僕の声はイリスに届くことなく、とても柔らかくて温かい感触に顔全体が包まれる。夢の世界では気づかなかったイリスの豊満な胸に、僕は意識を持っていかれそうになる。
「おい。どういうことだよ、磨石」
「イリスさんって、大胆」
「外国じゃこれが当たり前なのか?」
イリスの度肝を抜く行動に、皆が歓声を上げる。僕はどうにか平静を取り戻すも、皆の視線を一斉に浴びてしまった現状に、深く後悔を覚えた。
「静かにしなさい!」
周囲の喧騒を一言でなだめた先生。その声に応えるように、イリスはようやく僕を開放してくれた。
「磨石君。もしかして、イリスさんと知り合いなの?」
「あ、いえ……その……ち――」
「はい。私の祖母が、ヒカルのおばあ様と交流があって」
イリスのとんでもない発言に、僕は開いた口が塞がらなかった。
満面の笑みを晒しながら、平気な顔して嘘を吐くイリス。でも、そんな嘘に先生が気づくわけもなく。
「そうなのね。それじゃ、磨石君。この後、イリスさんに校内の案内してもらえる?」
「えっ?」
「イリスさんも、知っている人の方が安心できると思うから」
「ちょ、ちょっと……」
「それじゃ、よろしくね」
先生に頼み事をされた僕は、暫く唖然としていた。そんな僕を横目にイリスが教壇の方へと戻って行く。
いったい何が起こっているのか。
未だに現状の整理ができていない僕の視界に、咲の姿が映る。いつもは教室の一番後ろ、窓側の席など見向きもしない咲が、顔だけ僕の方へと向けていた。
久しぶりに咲と目が合う。咄嗟に僕は咲から視線を外してしまった。そんな自分の行動に酷く後悔を覚える。咲のことが嫌いになったわけではないのに。これじゃ、避けているのは僕じゃないか。
ゆっくりと咲へと視線を戻す。しかし咲は、既に教壇の方へと視線を向けていた。
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