Monologue:回想③

 負傷から十二日後。職場に復帰したあたしはこの上なく不機嫌だった。

 署の連中はあたしと顔を合わせると、我慢できずに吹き出すか、怪訝な顔をするかのどちらかだ。理由は明白。今朝、出勤直後に花束と一緒に渡された退院祝い。

「直結義眼が馴染むまではしばらく着けといたほうがいいって、医者が言ってたぜ」

 そう言って、ドニーが満面の笑みで渡してきたのは、革製の黒い眼帯だった。ご丁寧にも、銀の糸でドクロの刺繍まで入っている。

 つっかえしてやろうかとも思ったが、恩のあるドニーの手前もある。しかたなく、しばらくはハロウィンの中途半端なコスプレみたいな格好で仕事をせざるを得なかった。

 チェルシーにも散々笑われた。

「なにそれ!」

 顔を見るなり大笑いし始めた相棒の椅子を蹴る。

「やっぱ外すわ」

「ごめんごめん!いいじゃん似合うよ。そのままにしとこう。ね?」

 チェルシーは笑いっぱなしだったが、あたしはひとまず聞き入れた。

「署長の呼び出し、なんだって?」

「次からああいう時は応援を待て、だって。あたしに新しい目玉を買うのがよっぽど惜しかったみたい」

「あんたも大概ひねくれてるね」

 そう言いながら、チェルシーは端末の電源を入れた。

 病み上がりということで、外回りの仕事は当面見合わせ、とりあえず溜まった書類を片付けるところから始めた。もっとも、外回りよりこっちの方がはるかにキツいというのが正直なところだ。

 自分の仕事を片付ける傍ら、あたしの書類を見てくれているチェルシーと無駄話をしながら、どうにか書類をやっつけていく。

「とにかく、バイクに乗れないのがつらいよ。あの寮の立地、一体何なの?おかげで普段より一時間も早起きしなきゃなんない」

 自分の端末を見ながら、チェルシーは答える。

「だからみんな、しばらくしたら寮を出て別の部屋借りるのよ。あんたもそろそろ探したら?厚生課で物件紹介してくれるよ」

「考えとくわ。バイクの調子もそろそろ良くないし、もっと近い所がいいかも」

 中古をだましだまし乗ってたからなあ、とあたしはぼやき、チェルシーがふーん、と呑気な返事をする。

 しばらくお互い書類に集中していたが、ふとチェルシーが、あのさ、と言った。

「なに?」

「…目の具合が良くなるまで、ウチに泊まる?」

 端末から目を離して、向き直る。チェルシーは画面を見たままだ。

「ちょっといじれば寝る場所は作れるし…余計な早起きもしなくて済むよ?」

 こっちを向かないままそう言った。

 あたしは相棒の横顔をしばらく眺めて、

「…考えとく」

 とだけ答えた。



 身体の関係を持つようになるまで、一週間とかからなかった。

 なにしろ、チェルシーが「そっち」だとカミングアウトしたのが…まあ薄々感づいてはいたが…初めての夜だったのだ。あたしは同性とこういうことになるのは初めてだったけど、全く違和感が無かった…というか、なんだかすごくしっくり来たし、信じられないくらい良かった。

「ホントに初めて?」

 狭いベッドに横になりながら、チェルシーが聞いてきた。

「女同士はね。ストリートにいた頃は、彼氏作って試したこともあったけど…ぜんぜんだった。理由がわかったよ」

 暗い部屋の中、ベッドの横の読書灯がお互いを照らし出していた。あたしの話を聞いたチェルシーが、クッションに顔を押し付けて、ぐふふふ、と不気味な笑い声を上げた。

「なに、気持ち悪い」

「べつにぃ」

 クッションから顔を上げて、あたしの方を向く。

「でも、仲のいい友達がいたんでしょ?三人でいつもつるんでたって」

「あのふたりは、そういうのじゃなかった」

 あいつらの事を思い出すのが、久しぶりのような気がした。ここのところバタバタしてたしな。

 チェルシーが、少しだけこちらに身を寄せてくる。

「どんな子達だったの?」

 甘く優しいチェルシーの声がどういうわけか癪にさわって、あたしは答えずに、その口を唇で塞ぐ。相棒はちょっと驚いたような顔をしたが、すぐにそのまま舌を絡ませてくる。

 チェルシーの指が身体をまさぐり、撫で回す。あたしは彼女の首筋を咬む。



 チェルシーの部屋は、本が多かった。

 バスルームと寝室、小さなキッチンをしつらえたリビングという彼女の部屋は、壁という壁が本棚で覆われていた。心理学や電脳医療関係の専門書、過去の事件のルポタージュのようなカタい本から、刑事ものや探偵ものの小説、格闘技や射撃のマニュアル本などが並んでいる。床にはけばけばしい表紙のゴシップ誌が積み上げられ、一部は紐で縛ってあった。事務の連中がオフィスで使うようなファイルを並べた棚もある。

「なんで紙なの?」

 あたしは思わずそう聞いた。ベッド脇にまで迫る本棚に置いていた携帯端末を取って、振ってみせる。

「こっちに入れとけば、この部屋もっと広く使えるでしょ」

「紙の方が、うまく頭に入る気がするんだよ」

 本棚と小さな机以外で、寝室の唯一の調度であるコーヒーメーカーに向かいながら、チェルシーは答えた。

 オフの重なった貴重な日、たっぷり朝寝をした後だ。マグを持った後ろ姿の、LLサイズのTシャツから伸びる長い脚を眺めながら、無駄話をする。

「…十四の時だったかな」

 思い出すままに、口を開いた。

「具合のいい『ベッド』をさがして、放棄区画のあたりをウロウロしてたことがあってさ。そこらの廃ビルを覗いて回ってたの」

 コーヒーメーカーのごぼごぼいう音に混じって、チェルシーがふん?、と相槌を打つ。

「で、その廃ビルのひとつに、本棚だらけの部屋があってさ、それが全部プログラム関係の本で」

 コーヒーを淹れるチェルシーの後ろ姿に、あたしは話し続けた。

「古い本ばっかりだったけど、ケリーのやつは夢中で読んでた。宝の山だって。あいつが言うには、現行のプログラム言語も過去からの延長線上にあるから、古い言語を知ってれば、知らない言語にも当たりをつけられるし、裏技が使えたりもする…んだってさ。頭いいんだよ、あいつ」

 へえ、とチェルシーが背中で答える。

「今どうしてるの?その子」

「あたしが警官になった時には、ちゃちなハッカー・カルトに出入りしてた。乗っ取るつもり満々だったよ。実際、腕はケリーのほうが上だったと思う」

 コーヒーの香りが漂ってきて、チェルシーがマグカップを持ってきてくれた。あたしはベッドの上で受け取って、一口すする。

「最近は連絡ないけど、まあ上手くやってると思うよ」

「…そう」

 チェルシーは、脱ぎ捨てていたあたしのシャツを放ってよこし、そのままベッドに腰掛けた。そろそろなんか着なよ、と言って、本棚のふちにマグを置く。

「もう一人は?」

「ん?」

 あたしがシャツに首を突っ込んでいる所に、チェルシーが聞いてきた。

「三人組だったんでしょ?」

「ああ、ルーシーね」

 シャツから首を出し、あたしはちょっと考える。

「あいつは…ルーシーは、あたしやケリーとはちょっと違ってた」

 あたしは記憶をたぐる。今でも鮮明に思い出す、あの目。

「初めて会ったのは十二の時。二つ目の施設を脱走した頃だったんだけど…その頃にはもう、あいつは人を殺してた」

 マグを取るチェルシーの手が止まり、視線がこっちに向き直る。

「わかるんだってさ。人間がどこをどうすれば痛いか、死ぬか、そういうのが。誰に習ったわけでもないのに。で、それを実行に移すのにためらわない。当たり前なんだよね、あいつの中では。一度、最初に殺したのはどんな奴だった?って聞いたことがあったんだけど」

 コーヒーを一口飲んで、思い出す。

「…あいつ、ちょっと考えてから『忘れた』だって。べつに殺しを楽しんでるって訳じゃないよ。ただ、一度『敵』だって決めたらもう、即。決断とか計算とかそういうの無しに、自動的に」

 チェルシーはちょっと頷いてからマグに口をつけ、息をつく。

「いるんだよね、そういう人。本当にごく稀に、何百万人に一人、っていう割合で。一種の天才」

 あたしは頷く。今でも思い出す、戦うルーシーの舞うような動き。晩飯の話をしながらチンピラの頭を撃ち抜く、その時の顔。

「本物のバケモノだったよ。すごい美人でさ、しょっちゅう男どもに声をかけられてた。しつこい奴らは遠慮なしに痛めつけてさ。ケリーが言ってた。『あいつの顔の良さ、あれは警告色だ』って」

「警告色?」

「ほら、毒のある生き物とか植物とかって、綺麗な色をしてたりするじゃない。それと同じだって」

 チェルシーはああ、と言ってから、訝しげな顔をした。

「でもそれだと、その警告色がかえって害虫…もとい、そういう男どもを引き寄せてるって事にならない?」

「あたしもそう思って、ケリーに言ったんだ。そしたらあいつ、なんて言ったと思う?」

 チェルシーが微笑み、なんて?、と聞いてくる。

「『だから人間は馬鹿なんだ』だってさ」

 チェルシーは大笑いして、あやうくベッドにコーヒーをぶちまけそうになった。



 久しぶりに寮の自室から出勤した日、チェルシーは機嫌が悪かった。

 仏頂面で端末にむかい、報告書を書いているチェルシーに声をかける。相棒はちらと目を上げて、おはよ、と言うだけだった。

 ちょっとカチンとくるものがあったが、あたしはひとまず自分のデスクについた。横目でチェルシーの顔を少し眺めて、自分の端末に向かう。ふと、斜め向かいのデスクにいる同僚のモートンと目があった。視線でチェルシーを指してから、肩をすくめる。おまえがなんとかしろ、という事らしい。

 たしかに、いつも冷静なチェルシーらしくない。

 あたしは少し考えてから、デスクの引き出しを開けた。しばらく中を掻き回して、目当てのものを見つけ出す。

 あたしはそれを、これ見よがしにチェルシーの机の上に置いてやった。

 銀色の包装紙で包んだボンボンが三つ。このあいだアキコさんからもらったとっておきだ。

 チェルシーは目を瞬かせて、不思議そうにそれを眺めてから、そのままあたしの方に顔を向けた。

「まあ、あんただって不機嫌な時ぐらいあるでしょ」

 あたしは自分もボンボンをひとつ剥いて、口に入れた。

「食べなよ。美味しいよ」

 チェルシーはしばらくあたしの顔をまじまじと見ていたが、不意に笑い出した。

「なによ」

「ごめんごめん。なんでもないよ」

 そう言ってボンボンをつまみあげ、手のひらの上で転がす。

「今朝、ちょっと嫌なことがあってさ…あとで愚痴に付き合ってくれる?」

「あんたの奢りね」

 はいはい、とチェルシーは言って、自分もボンボンを口に入れた。

「おいしいね」

「でしょ」

 あたしはそう言って端末に向き直る。と、いきなりチェルシーがあたしの首に腕を回してきた。

「ちょ、なに!」

「まったく!キミはかわいいなあ!」

 そういって無理矢理に頬を寄せてくる。長い腕はしっかり嵌まっていて、抜け出せそうにない。こいつ本気だぞ。

 そのまましばらく、チェルシーの絞め技から抜け出そうともがき回る羽目になった。視界の端で、鼻の下を伸ばしてこっちを眺めていたモートンが、相棒のロニにどつかれるのが見えた。



「8マイル・モート」に連れて行かれたのは、その時が初めてだった。

 店主のモンドは退職警官で、古臭いピンクの義手で器用に酒を注ぎ、料理を作った。チェルシーがあたしを紹介すると、お前が噂の海賊か、という反応が返ってきた。眼帯をしていた頃についたあだ名はいつの間にか定着し、署でもちょくちょくそんな呼び方をされている。ちなみに全く気に入ってはいない。

「もう眼帯はしてないんだけど」

「カタいこと言うな。あだ名なんてのはそういうもんだ」

 抗議しようとするあたしを、チェルシーは奥のテーブル席まで引きずっていった。渋々席につくあたしの前に、ビールのジョッキがどんと置かれる。

「義眼、ちょっと色が違うね」

 最初のひとくちを飲み下した所で、チェルシーはあたしの目を覗き込みながら言った。

 補償で入れた義眼はすっかり馴染み、違和感を感じることもほとんどなくなっていた。ただ生身の左目と比べて、少しだけ明るい色味になっていることに最近気づいた。

「メーカーに連絡入れる?まだ保証期間内でしょ」

「いいよこのくらい。また営業の売り込みがうるさいでしょ」

 義眼を入れる直前、義肢メーカーの営業がオプションを色々売り込みに来た。ワイヤレス端末接続操作やら、軍規格スマートガンシステムやら。サイボーグ戦士になるつもりはなかったので、普通の目玉だけであとはきっぱり断った。

「それに、眼帯はもうたくさんだ」

「そう?可愛かったのに」

 あたしが睨みつけると、チェルシーはにやにやしながら冗談よ、と言った。

「それで?」

 ぐいぐいとジョッキの内容量を減らす相棒に、あたしは聞いた。

「なにが?」

 ジョッキを下ろした相棒が聞き返してくる。マジかこいつ。

「嫌なことがあったんじゃないの?」

 チェルシーは、ああ、と思い出したような声を上げた。どうも本気で忘れていたらしい。

「いやあ、なんかどうでも良くなっちゃったな」

「話しなよ。でないと奢られる理由がなくなる」

「変なとこ律儀だね、あんたも」

 チェルシーは頬杖をついて、混み始めた店内をしばらく眺めていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「電話があったのよ」

「誰から?」

「母親」

 頬杖をついたまま、チェルシーはそう言った。あたしはその横顔を眺める。

「そういえば、あんたの身の上話って聞いたこと無かったね」

「特に面白いこともないからね」

「噂はあるよ」

 チェルシーが向き直り、どんな?、と聞いてくる。

「内地の大学で暴れて追い出された、とか」

「なにそれ」

 苦笑いを浮かべて、またジョッキを傾ける。

 ニューアイランズの市民、とりわけ居住歴の長い連中は、橋と船でつながった対岸とその向こうを「内地」と呼ぶ。特区として様々な特措法が敷かれた混沌の人工島、その住人が抱える複雑な感情が詰まった呼び名だ。

「内地の出なのは本当でしょ?」

「…わかる?」

 あたしは頷く。チェルシーは腕を組んで、うーん、と呻いた。

「上手く馴染めてると思ってたんだけどな」

「わかるよ。言葉が違う。あたしみたいに育ちの良くないのから見れば特に、ね」

 そう言うと、チェルシーは少しだけ悲しそうな顔をした。しまった、と思う。

「いや、でも、ここじゃそんな事気にするやつはいないし、チェルシーはみんなから一目置かれてるじゃん。あたしだってあんたの事は、その、ほら、なんだ」

 あたふたと取り繕うあたしを見て、チェルシーはくつくつと笑った。少しホッとして、同時にちょっと腹も立つ。

「…あんたの話も聞かせてよ」

 不公平じゃん、とあたしは言い募る。チェルシーは小さく、そうだね、と言う。

「さっきも言ったけど、あまり面白い話でもないよ」



 お察しの通り、あたしは内地の生まれ。といっても、ニューアイランズからそんなに離れてはいないけど。クルマで二時間ちょっとかな?海の近くなのはここと同じだね。

 十二の時に父さんが死んでさ。くも膜下出血。ヘビースモーカーだったからね。大学で教授をやってたんだけど、保険と、ちょっとした特許をいくつか残してくれたおかげで、母さんとあたしが生きてくぶんには困らなかった。

 高校を出た時に、母さんが再婚したの。あたしは首都の大学に進学が決まって、一人暮らしを始めるところだったから、どうぞご自由に、ってなもん。むしろもっと早くするべきだったって思うよ。

 ところが、この再婚相手ってのが問題だったの。

 父さんの大学の同期でさ。大学に残った父さんと違って、大企業に就職してどんどん出世した男。入学前に二、三度会ったけど、どうも好きになれなかった。なんていうかな…支配者ヅラ、っていうか。私が君を幸せにしてあげよう、っていうオーラが出てるの。誰も頼んでないってのに。

 大学の二年目の夏に、母さんに言われて顔見せに言ったらさ、そいつが「会ってほしい人がいる」なんて言うわけ。

 そう。お見合い。それも、帰ったその日にもう相手を家に上げてやがってさ。いやあいつの家なんだけど。こっちは会うなんて一言も言ってないのに。断られるなんて欠片も考えないんだろうね。

 その見合いの相手ってのが、そいつんとこの子会社で社長やってるとかって奴。二十八、九だったかな。フレームの厚いメガネに顎髭で、マニュアル通りって感じの。

 で、あたしにそいつと結婚しろ、とか言うの。

 学生結婚して、卒業まで大学にはいてもいい、とにかく籍は入れろ、とこう来るわけ。母さんまで頷くばっかりで、それが堪えたよ。

 それでそのヒゲメガネがさ。

『お父様の分まで、あなたを愛します』

 とか言いやがってさ。TVドラマ見て練習したようなニヤけ面で。

 うん。ぶん殴った。

 それで全部おじゃん。夏休み明けに大学も辞めた。教授連中にも顔の効く男だったからさ、何されるかわかんないし。その夏はバイトに専念して、誰にも言わずにニューアイランズに来た。

 警官になったのは、この街で最初に目に入った求人広告がそれだったってだけ。陸上やってたし、体力には自信あるつもりだったんだよ。甘かったね。

 で、パトロール警官を二年やって、刑事になって、あんたに会ったの。



「警官になった翌年に、手紙が来たよ。書類が入ってて、父さんが取った特許に関して、今後一切相続権を主張しないと誓約しろ、って書いてあった。なんて事はない。つまりあいつが欲しかったのは、母さんでもあたしでもなく、父さんの残した特許だったわけだ」

 氷を入れたジンのグラスを眺めながら、チェルシーは話す。

「タネが分かってさっぱりした。喜んでサインしたよ。二度とあんたたちとは関わらないって書き添えてね。でもまあ、母さんだけはたまに連絡をよこすんだ」

 ジンを呷る。チェルシーはベッドを背にして床に座っている。あたしはそのベッドの上だ。戦術チームが加わって賑やかになったあたりで8マイル・モートからは退散して、チェルシーの部屋に戻っていた。寝室でジンを開け、二人ともそのまま酔いつぶれる気でいた。

「悪い事してるなあ、とは思うけど、どうしようもないんだよね」

「生きて、声きかせてるだけでも偉いんじゃない」

 あたしなんか顔も覚えちゃいない、と言いかけて、やめる。

「…親父さんて、どんな人だったの」

 チェルシーが肩越しにちらりとあたしの顔を見て、また向き直る。目の周りがわずかに赤かった。だいぶ酔ってるな。

「優しかったよ。怒られたことってほとんど無かった。本に埋まった書斎があって、いつもそこで机に向かってた。煙草のにおいがして…」

 唐突に言葉が切れた。立てた膝に額を当てて、うつむいている。あたしはしばらくそれを眺めていたが、突然顔を上げたかと思うと、グラスに残ったジンを一気に飲み干した。氷をばりばりと噛み砕く。

 そのままベッドに上がりこんできて、あたしにキスした。

 声も上げられないまま押し倒されたあたしは、それでも、すんでの所で部屋の明かりを落とすことには成功した。あたしじゃなく、チェルシーのために。



 ふたりで色々な事をした。喧嘩もしたし、仲直りもした。仕事中に死にかけたこともあったし、きれいなものも、ロクでもないものも二人で見た。そのたびに笑ったり泣いたり、酒を飲んだり愚痴を言い合ったりした。

 三年目の誕生日に、チェルシーからバイクをもらった。保管期限の過ぎた押収品で、官営オークションに出品される予定だったものを、ツテをたよって手を回してくれたのだ。純メタノールエンジンの直列二気筒。一般市場と比べれば破格の買い物だったろうが、決して安くはなかったはずだ。ストリート時代から乗り続けた愛車を泣く泣く看取った、その一ヶ月後だった。

 旅行にも行った。奇跡的に取れた五日間の休暇を、内地のホテルで過ごした。ホテルの窓から見る海は、ニューアイランズを取り囲む海とはまるで違った。深い青に波がきらめき、冗談みたいにきれいだった。海水浴客もサーフィンをやるやつもたくさんいたが、あたしたちは泳がなかった。ただ二人で、海を眺めて歩いた。

 休暇の帰り、島へつながる橋の上で、カーラジオから流れていた曲をチェルシーが歌っていた。好きな曲?と聞くと、うん、と答えた。Get a grip of yourself. it don't cost much.この歌詞が好きなんだ、と言って笑う。

 知らない歌だったけど、いい歌詞だと思った。



 半期に一度の署内全体朝礼で、SOCのAIによる証言を試験的に採用するという発表があった時、刑事部の総意は「クソ」の一言で統一された。

 突き上げを食うのを恐れた課長は会議や外回りを理由に雲隠れし、課のオフィスはイナモリ長官と上層部に対する悪口雑言で溢れかえった。かえって結束が高まったように、あたしには見えた。

 チェルシーも、そんな中で同じように振る舞っていた。

 今思えば、切れ者で変わり者、という評価で課でも一目置かれていたあいつが、周りに合わせて紋切り型の不平不満を鳴らしていたという事が、異変のきざしだったのかもしれない。でも、あたしはそれに気づかなかった。おなじ事に怒り、おなじ事に喜ぶことができるのが、あたしには何より嬉しかった。



 その半年後、チェルシーは死んだ。

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