Monologue:回想②
その日、あたしがマリネロ・ファミリーの重役クレメンテを見つけたのは、まったくの偶然だった。
あたしが署の仮眠室から這い出した時、チェルシーは空振りに終わった一昨日のガサ入れの件で鑑識に行っていた。向こうで合流して、現場周辺の聞き込みにかかるつもりでバイクに乗った、そのすぐ後だ。
信号待ちでバイクを停めた、そのすぐ隣。白いセダンの後部座席に、どこかで見たような顔があった。日没も過ぎた時間に付けたサングラスに、いまひとつ収まりの悪い口ひげ。明らかに変装だ。男は車の中で忌々しげにサングラスを外すと、ハンカチで顔の汗を拭った。
その瞬間、捜査資料で見た写真の一つと、目の前の男の顔が直結した。
一昨日のガサ入れで取り逃がした武器密輸組織の幹部。その一人が、今まさに目の前にいる。
全身から汗が吹き出す。さいわい、あたしはフルフェイスのヘルメットで、バイクも私物だ。むこうは刑事と気づくどころか、こっちに全く注意を払っていない。
信号が変わり、白いセダンは荒っぽい発進であたしを追い抜く。セオリー通り二台あけて追跡するが、背中は冷や汗が止まらない。単独の尾行で、勘付かれずにどこまで追えるか。一度停まって署に連絡することも考えたが、車を変えられたらそれまでだ。ギリギリまで張り付くしかない。
刑事になって新調した拳銃が、脇の下でいやに重かった。
クレメンテは車を変えなかった。よほど焦っているのか、それとも同乗する手下が不慣れなのか、どうやら尾行も気づかれた様子はない。
車が人気のない港湾区画に入ったところで、あたしはバイクを降りた。さすがにこれ以上は気づかれる。端末を取り出し、署にコールする。
「109よりNI3」
『こちらNI3。109どうぞ』
「マリネロ・ファミリーのカミッロ・クレメンテを発見。現在尾行中。大至急このあたりのブロックを封鎖して」
相手の車のナンバーを告げて、続ける。
「たぶん船で逃げる気だと思うから、警備艇も何隻かこっちにお願い」
『NI3了解』
「あたしはこのまま監視を続ける。ああ、それとチェ…76にも至急伝えて。鑑識に行ってるはずだから」
『NI3了解。お気をつけて』
端末を懐にしまうと、一つ息をついて銃を抜いた。薬室を確認して、スライドを引く。
ガサ入れは空振りに終わったが、連中は焦ってる。他の幹部が次々に行方をくらます中で、どういう訳かクレメンテだけが逃げ遅れたのだ。片付ける厄介ごとがあったのか、組織の内紛でハメられたか。いずれにしても、こんな所でのんびりとはしていないだろう。応援の到着はおそらく間に合わない。足止めが必要になる。
暗い港湾区画を、あたしは走り出す。
さほど広くない区画だ。それに車が向かった先もわかっている。五分も走らないうちに、岸壁沿いに立つ人影を見つけ出した。
人影は四人。一人が咥えたタバコの火が、闇の中に小さく光る。恐らくあれがクレメンテだ。他の三人は所在なげに辺りを見回している。
あたしは倉庫の影にしゃがみ込み、四人の様子を伺う。そのうち一人がクレメンテに近づき、なにか囁いた。小さくタバコの火が揺れると、それを合図に一人が車に乗り込んだ。
ヘッドライトが、暗い海に光の筋を投げかけた。
やがて、波を蹴る音とエンジンの低い響きが、海の方から聞こえてきた。小さなボートが一隻、こちらに近づいてくる。
まずい。
応援はまだ来ない。ボートはもう目と鼻の先だ。水上課の警備艇もまだ姿を見せない。
やるしかない。
あたしは倉庫の裏手を回り込み、連中の真後ろにつく。ボートはいよいよ近づき、クレメンテが車に向かって、なにか怒鳴り散らすのが聞こえた。ヘッドライトが消える。
多少手間取りつつも、ボートは岸壁に横付けした。
クレメンテがボートの男となにやら話している。早口のイタリア語であたしには全く理解できないが、和やかな雰囲気とは言えない様子だ。だがともかく合意が成立したようで、ボートから岸壁に踏板が渡された。
限界だ。
あたしは倉庫脇の暗がりから飛び出すと、
「警察だ!」
と叫んで引き金を引いた。
マズルフラッシュが辺りを照らし、銃声が倉庫街の静けさを引き裂く。
狙ったのはボート、その後部の船外機だ。警備艇が到着するまで海に逃しさえしなければ、なんとかなる。
暗さと距離で、弾はなかなか当たらない。だが効果はあった。恐れをなしたボートの男は床に腹這いになると、頭を下げたまま船外機を始動させた。そのまま、クレメンテたちを置き去りにして沖に逃げ出していく。
イタリア語の叫びが聞こえた。
四つの銃口がこちらを向く。あたしは慌てて倉庫脇の物陰に飛び込む。スクラップの満載されたカーゴが弾丸を弾く音を聞きながら、あたしは銃のマガジンを入れ替える。カーゴの陰から、ふたたび撃つ。
正面から撃ってくるのは二人。他は回り込んでくるつもりだろう。三発撃って、あたしは逃げをうつ。ボートさえ引き離してしまえば、あとは時間を稼ぐだけだ。逃げ回っていればいい。カーゴを背にして倉庫の路地を駆け出す。
車で逃げないのは、よほど頭に血が上っているか、あたしがここにいる時点で応援を呼ばれたと分かっているからだろう。あるいは、あたしを人質にして逃げる気かも。そうはいくか。
路地から顔を出して左右を伺う。右側、すぐそこの距離で男と目があった。なにか叫んで、こっちに銃を向けてくる。
まとまりのない射撃を、膝をついてかわす。そのまま二発。声もあげずに男がくずおれる。そのまま脇を走り抜けた。
背後を振り返りながら、積み上げられたコンテナの陰に隠れる。一拍おいて、向こう側の角から男が飛び出してきた。倒れた仲間を見て一瞬、凍りつく。
また二発。
二人目が突き飛ばされたように倒れる。あたしって獰猛だな、と他人事みたいな感想が、今になってふと湧いてきた。
二人目はまだ動いている。あたしは走り寄ると、そいつが拾い上げようとしていた拳銃を蹴飛ばした。動かなくなる。
よし、と思った次の瞬間、あたりが強烈な光で照らし出された。
車のヘッドライトだということに気づくのに一秒ほどかかった。クレメンテたちの乗ってきた車。バカめ、今更逃げようとしたって手遅れだ。そう思っていたら、車はものすごい唸りを上げてこっちに突っ込んできた。
あれ?と一瞬固まってから、間一髪で飛び退いた。
タイヤが金切り声を上げて、スピンターンで車はこちらに向き直る。一瞬、サングラスも付け髭も放り出したクレメンテが、引きつった顔でこっちを睨むのが見えた。そうか。完全に頭に血が上って、あたしだけでも殺す気か。
「冗談じゃない…!」
ふたたび車が殺到してくる前に、あたしは路地に飛び込んだ。そのまま走る。耳障りなブレーキ音が聞こえ、背後から数発の銃声。そのまま、回り込むつもりで走り過ぎる。
さっきのボートは数発の脅しで逃げてくれたが、今度の相手はキレたマフィアだ。いまさら逃げるつもりはないだろうし、スピードの乗った車を拳銃だけで停めるのは無理だ。
がぜん怪しくなってきた雲行きに冷や汗をかきながら、あたしは走った。路地の出口で立ち止まり、あたりを見回す。
狙いすましたように、左の角を急角度で曲がりながら車が出現した。猛然とこっちに走ってくる。運転席の窓から、クレメンテが大きく体を乗り出している。なにか喚きながら、手に持った拳銃をこちらに向けていた。
慌てて頭を引っ込める。壁に数発、嫌な音とともに着弾する。なんとかしてタイヤでも撃ち抜いてやろうと、膝立ちで身を乗り出し銃を構える。
ヘッドライトの光が目に突き刺さった、その瞬間。
車のボンネットに穴が空いた。
形容しようのない轟音が響き渡って、車が宙を飛んだ。そのまま逆さにひっくり返って、火花を上げながらアスファルトの上を滑っていく。やがて倉庫の壁にぶつかって止まった。
あたしは唖然としてそれを見ていたが、ふと我に返って空を見上げた。
いつの間に到着したのか、戦術チームのヘリが飛んでいた。かなりの低空。身を乗り出した狙撃手が、バカみたいに巨大なライフルを構えているのがちらりと見えた。あれでエンジンごと撃ち抜いたのか。
ひっくり返った車の向こうに、巨大なタイヤを履いた六輪車が現れた。窓のない車体のドアが開くと、白い装甲スーツに身を包んだ戦術チームが続々と降りてくる。すばやく車を取り囲み、中をあらためる。驚いたことに、クレメンテは生きているらしい。
ジャッキがいるな、車両回収班に連絡しろ、悪運の強い野郎だ、などと騒いでいる戦術チームを眺めていると、その向こう、見知った顔が六輪車から降りてきた。
「ジェニー!」
こっちが声をかけるより早く、チェルシーが駆け寄ってきた。それを見て、急に肩の力が抜けるのがわかった。
「怪我はない!?」
「え、うん」
チェルシーが思ったより真剣な顔をしていたので、なんとなく気圧されてしまう。彼女は大きく息をついて、まったくもう、と独りごちた。
「戦術チームの応援までは頼んでないはずだけど」
「あたしが呼んだの。武器の密輸屋が相手でしょ?なに持ってるかわからないし」
そういえばそうだな。
「相手は四人だったよね」
「二人はあたしがやった。クレメンテはそこで、あと一人はわからない。逃げたかな」
オーケイ、とチェルシーが言うと、走り回る戦術チームの方に声をかけた。
「ドニー!」
指揮官らしい男がこちらに振り向き、やってくる。浅黒い肌に彫りの深い顔。右頬に傷跡があるが、男前だ。
「ホシの一人が行方不明。まだ遠くには行ってないはず」
「わかった」
ドニーと呼ばれた男前は、ヘッドセットに手をやりながら即座に指示を飛ばす。やがてこっちに向き直り、あたしを見た。
「きみがコリガン巡査?」
はあ、とあたしが言うと、ドニーは装甲スーツの手袋を外し、右手を差し出す。
「小隊長のドニー・シャープだ」
「どうも」
そう言って手を握り返す。
「たった一人で、大した度胸だ。うちの前衛に欲しいくらいだよ」
「やめてよ。この子は一課の期待の星なんですからね」
そんなの初めて聞いたぞ?
「…引っ張り出せそう?」
首を伸ばして車の方を見る。ちょうど作業車が入ってきて、ひっくり返った車にベルトをかけている。救急隊員の姿も見えた。
「運のいい野郎だ。まあ、ひと月ほど首は動かせないだろうがね。おしゃべりに支障はないようだから、すぐにでも聴取にかかれるさ」
作業中の隊員がこっちを向いて、小隊長ォ!、と呼んだ。いま行く、とドニーが答える。
「署の連中もそろそろ来るはずだ、一緒に来てくれ」
ドニーが先に歩き出す。チェルシーを見ると、こっちを見てにこりと笑った。あたしも、ついつられて笑ってしまう。
背後で物音がした。
振り返ると、ゴミや埃にまみれたスーツ姿のチンピラが、こっちに銃を向けていた。目が血走り、呼吸が浅い。手が震えている。
イタリア語でなにか絶叫すると、引き金を引いた。
弾は当たらなかった。だが、倉庫の壁が抉られる音が聞こえた瞬間、右側の視界が赤黒く染まった。
「!」
一瞬遅れてきた灼かれるような激痛に、あたしはうずくまる。
チェルシーの身体が、あたしに覆い被さるのがわかった。間髪を入れず、戦術チームのアサルトライフルがフルオートで吼える。一瞬でチンピラをボロ雑巾に変えたドニーが毒づく。クソッ、ヘリは何をしてる!?医療班!こっちだ!
「ジェニー!大丈夫!?ジェニー!?」
チェルシーの声が遠い。激痛。左側の視界に、手からこぼれた血が地面に落ちるのが見える。ありがたいことに、それを最後にあたしの意識は途絶えた。
目が覚めたら、暗い部屋にいた。
窓から差し込む街明かりで、なんとか様子が分かる程度の暗さだ。殺風景な部屋、無機質な天井、鉄パイプのベッド。なるほど、病院か。
あいかわらず、右側の視界がない。痛みはほとんどおさまり、遠くの方でときおり疼く程度だ。ふと、右手に温かい感触を感じて、首を動かしてそっちを向く。
チェルシーがいた。
椅子に座って、あたしのいるベッドに突っ伏すようにして眠っている。汗と硝煙のにおいに混じって、わずかな香水の香りがした。こいつこんなの着けてたのか。
背中がピクリと動いて、チェルシーが顔を上げた。目の周りが少しだけ赤い。何度かまばたきをして、あたしの顔を見る。
「…気がついた?」
答えようとしたが、かすれた息が出ただけだった。喉がカラカラだ。
ちょっと待ちな、とジェニーが立ち上がる。ベッドの脇にある小さな冷蔵庫から、ミネラルウォーターのボトルを取り出して栓を開け、こっちによこした。
口元からこぼしながら、あたしは喉を鳴らして飲んだ。二日酔いの朝に飲む水みたいに、染み込むように美味かった。納得のいくまで飲んでから、ボトルを置く。その手を、チェルシーはまたにぎった。
「破片があと一センチ深く入ってたら死んでたって。運がいいって、医者が言ってたよ」
チェルシーが静かに言った。
「目、ちゃんと見えるようになるってさ。補償で直結義眼(マキナ・アイ)を入れられるって。ちゃんとしたやつを入れるよう、あたしがしっかり念押ししとくよ。ドニーも一筆書くって言ってくれたし」
「…そう」
頭がうまく働かない。おそらく麻酔のせいだろう。右手の感触だけが確かだ。
「寝ときな」
チェルシーが言う。低い、優しい声。母親のことはろくに覚えていないが、こんなふうだったのだろうか。
「いまはとにかく休むんだよ。面倒はあたしに任せて。どっちみち、しばらくはベッドの中なんだから」
そう言って立ち上がる。手を離すと、そのままかがみ込んできて、あたしの額にキスをした。
「また来るからね」
ドアが開き、やたらと明るい廊下が見えた。チェルシーがその向こうに出ていって、ドアが閉まる。足音だけはしばらく聞こえていた。
それが聞こえなくなる頃には、あたしはまた眠りに落ちていた。
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