真焉_6 百年の空を越えて
【注:時系列、順序が逆になっています】
「ソーシャぁ!」
崖から木霊する
エシュメノの声がアウロワルリスの断崖に、そして連なるニアミカルムの連峰に木霊した。
「生きてるから……エシュメノ、生きてるから。だから……」
嗚咽。しゃくりあげる息を飲み込んで伝える。
大切な想いを。
「だから……ありがとう、ソーシャぁ……」
誰にも言葉はない。
遥か崖の下に広がる大地を見るアヴィと、俯くルゥナ。
ルゥナが握る拳は震えていた。
「あんたのせいで……っ」
木霊が消えたところで、我慢の糸が切れたようにニーレが詰め寄った。
「あんたが、トワをしっかり見ていれば!」
「……すみません」
「どうしてトワが――」
「ニーレちゃん!」
ばしん。
アウロワルリスの空に肌を打つ音が響き渡る。
「違うじゃん、ニーレちゃん」
「……ユウラ」
「トワちゃんは……トワちゃんだったら、ね」
ユウラの目から大粒の涙がぽろぽろと零れた。
けれど、強い視線でニーレから目を逸らさない。
「トワちゃんは幸せだった……絶対に、最後まで幸せだったんだよ!」
疑わない。
否定させないと、強い意思を示す。
トワが決して不幸な最期ではなかったと、ユウラが信じる気持ちが真実だと断ずる。
「大好きなルゥナ様を助けられたんだもん……絶対に、トワちゃんは」
「ユウラ……」
ルゥナを責めたニーレだったが、彼女もわかっている。
誰のせいでもない。誰もが必死だったし、ルゥナがトワを見捨てられなかったからこその悲劇だったと。
「すまんのう」
崖で出会った清廊族、雪鱗舞の隣で唇を噛んでいた大柄な女戦士。ウヤルカが謝った。
「ウチらがもっとつようて、早けりゃ……どっちも助けられたんじゃ。すまん」
「貴女のせいではないわ」
アヴィが首を振った。
ウヤルカが謝ることなど何もない。
「貴女とユキリンがいなければ、ルゥナも……貴女はルゥナを助けてくれた」
「じゃけんども……」
「……ウヤルカ、ありがとう。ルゥナを助けてくれて」
誰が悪いと言うのなら、ルゥナが悪い。
トワにばかり気を取られて、周りを見ていなかった。
誰より自分がわかっている。
手が届かないとわかった時点で、やめるべきだった。
トワを助けようとルゥナまで死ぬのでは、何の意味があるのか。
トワが崖から落ちた。
ルゥナを庇って。
手を伸ばして、届かなくて。
我を忘れて飛び出した。ルゥナを捕まえよう駆けてきたエシュメノの手をすり抜け、崖に向けて飛んだ。トワを抱きしめようと。
それすら届かなくて。
崖の上から猛烈な勢いで飛んできた
けれど。
トワは、届かなかった。
アウロワルリスに立ち込める霧の中に消えていくトワ。
最後の顔は、幸せな色だった。
自分の命が尽きるという時なのに、ルゥナが助かると知って。ルゥナが命を顧みずにトワを助けようとした行為に心から満たされたように。
微笑んだ。
トワの微笑みが忘れられない。
失敗だ。ルゥナの誤断で、ルゥナの手落ち。そのせいでトワが失われた。
ルゥナが身を躍らせなければ、ウヤルカはトワを助けられた。
どちらも助かったはずなのに。
「……ルゥナ」
ずっと、何も言えなかった。
自分のせいでトワが死んだ。何も言えるはずがない。
「呼んであげなさい。トワに、ありがとうって」
けれど、アヴィはルゥナの甘えを許してはくれなかった。
トワの為に言葉を残せと命じる。
今ほど、エシュメノがソーシャに声を届けたように。
ルゥナを愛し、救ってくれたトワに向けて言うべきことがある。言わなければいけない。
震える手。喉も痙攣して、言葉がうまく出てこない。
だけど、言わなければ。
崖の近くに立ち、改めて下を見た。
急斜面から湧いてくるような霧。このせいで下はよく見えない。
少し離れていくと、ずっと下に広がる春の草原を風が撫でていく景色が映る。
口を開きかけて、奥歯ががちがちと音を立てた。
噛み締めて、頭を振る。
「トワ……」
絞り出す。
声を絞り出して、呼んだ。
「トワ、私は……」
皆が見守る中、精一杯の気持ちを絞り出した。
トワが示してくれたのは真実の愛。ならばルゥナも応えたい。本当の気持ちで応えなければいけない。
「トワ――」
アウロワルリスに、優しい風が抜けていった。
※ ※ ※
「何か、落ちて――」
銀色の輝きが落ちてくる。
危ういもの。
崖の上から、刃の煌めきにも似た銀灰色の――
「いけませんわ」
「マルセナ!?」
身を躍らせた。
イリアの手をすり抜けて、純白の翔翼馬の背から飛んだ。
「
紡いだのは、知らない物語。
違う。忘れていただけ。
母様はたくさんの物語を教えてくれたのに、忘れてしまっていた。忘れさせられていた。
清廊族の言い伝え、物語だっていっぱい教えてくれていたのに。
清廊族が住む、どこかの谷の御伽噺だとか。
春先に霧が立ち込める谷に幼子が落ちそうになった。
そこにふっと谷底から吹いた風が、白い花のように見える霞を舞い上げ、幼子をふわりと持ち上げてくれたのだとか。
紡いだ。唱えた。
母様の温もりを感じる始樹の杖を手に、清廊族の魔法を。
そして受け止める。抱き留める。
決して零さないように、灰色の娘を。
「マルセナ!」
「平気……平気、ですわ。イリア」
落ちてきた灰色の娘はマルセナの腕の中。
共に、ふわりと柔らかい風に受け止められて、崖近くの地面に降りた。
「あ……あぁ……」
「マルセナ? どこか痛めて――」
すぐにディニから降りてきたイリアが駆け寄ってくるけれど、そうではない。
怪我をしたとか、どこかを痛めたとかではなくて。
心配するイリアを見上げ、ただ小さく首を振る。
「わたくし……わたくしは……」
取り戻した。
思い出した。本当の自分を思い出した。
自分がなんだったのか、思い出した。
「それは、こないだの影陋族……」
「っ」
怪訝な顔をするイリアに、怖くなって顔を伏せる。
影陋族。人間ではないもの。
イリアにとっては家畜と同じ。汚くて、卑しい生き物。
どうしたらいい。
嫌われたくない。イリアを失いたくない。
言い訳を、考えなければ。
うまく言い繕って、この清廊族も自分もイリアに納得させられるように。
そうしなければ失われてしまう。イリアの気持ちが、マルセナの手から零れていってしまう。
「この子は……」
呪枷は、命令に絶対服従をさせるけれど、心まで変えるわけではない。
なんて不便なものなのか。心を塗り替えられるのならよかったのに。
嘘を、つこう。
そう思った。
イリアはマルセナの言葉を疑わない。嘘をついて、繕って。
ずっとイリアがマルセナの傍にいるようにすればいい。マルセナが清廊族だなんて知られなければ。
「わたくし……わたくしは……」
真っ暗な未来が見えた。
色の無い未来。何もかも失われてしまう、寂果ての世界。
イリアが失われてしまう。本当に、マルセナの手から零れて、二度と掴めなくなってしまう。
そんな未来が、はっきりとした形ではないけれど、確信させるに足るだけの衝撃でマルセナの頭を貫いた。
嘘は、駄目だ。
マルセナの嘘はイリアを殺す。
大切な、何より愛しいマルセナの蝶を凍らせ、殺してしまう。
「イリア……ねえ、イリア」
「どうかしたの?」
座り込んだままのマルセナの方にイリアの手が回される。
気遣う瞳でマルセナを覗き込む。
「わたくし、は……」
「マルセナ」
イリアは優しくて、イリアは綺麗。
マルセナと違って嘘に塗れていない。
「何も怖いことなんてない。ないんだよ、マルセナ」
「……」
灰色の清廊族を抱え、激しく動揺を見せるマルセナにはっきりと囁きかけた。
「どんなことがあろうと、私はマルセナの味方。呪枷なんてなくても」
「イリア……」
「私はマルセナを愛している。嘘じゃないから」
イリアの顔を見た。
涙で滲む視界で、彼女の目を見たって嘘かどうかなんてわからない。
「だからマルセナ。信じて」
何も信じられないマルセナに信じてと言う。
何度もイリアからは聞いたような気がする。幾度も、世界を巡っても。そんな錯覚さえ覚えるほどに。
けれどいつも、マルセナはイリアを信じきれなくて。
「信じて、マルセナ。私にマルセナを助けさせてほしい」
「……イリア、わたくしは」
失いたくない。
だから怖くて、言えなかった。
言えるはずがないと思っていた。自分が畜生の生まれで、イリアが嫌い蔑む存在だなんて。
怖がって、幸せな未来の糸が途切れてしまう。
その辿り着く先が、イリアの温もりを失った色の無い寂果ての未来だと言うのなら。
せめて、イリアが生きられる未来を。
たとえマルセナが嫌われても、イリアが生きてくれるのなら。
「わたくしは――」
※ ※ ※
アウロワルリスに風が吹いた。
優しい風が。
風に乗り、ふわりと。
百年近く途絶えていた風。魔法の風。
最後に届いたものは、クンライ地域の年寄りの話では、服の切れ端に血文字で書かれた一文だったと。
――すまない。
百年の時を経て、届いたもの。
布地に書かれた言葉は、悔恨でも謝罪でもなく。
――トワは無事です。マルセナ。
後に誰かが語った。
解放された少女達の本当の戦い。それはこの時から始まったのだと。
※ ※ ※
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