第六幕 100話 果ての微睡(完)



 戦乱の時代からずっと後に。

 ニアミカルムの山中、壊れかけた小さな山小屋に骨が見つかった。


 山奥でたった独り暮らしていたらしい女の骨。

 見つけた者はそれを弔い、山小屋の様子を里に伝えた。



 壁、天井。隙間なく埋められた言葉の数々。

 数多の詩が刻みつけられたそこは、愛の山小屋と話題となる。



 戦士ビムベリセ・・・・・と『私』との愛の物語。

 日常のようなものもあれば、勇壮な戦いを描いたものも。


 しかし、このビムベリセという戦士。登場する逸話により性格がまるで違っている。

 詩を読んだ者の印象では、『私』は空想の男に恋焦がれるあまり里にいられず、山奥で独り住むことを選んだのだろうと。

 知られるに連れて、憐れな女の墓標として近付く者も減り、やがてほとんど忘れ去られた。



 後にその山小屋の扉に刻んだ者がいた。


 ――ビムベリセは、『私』の幸福を願っている。いつまでも。


 叶わぬ恋に朽ちた女に、ビムベリセの願いが届くことを祈って。



  ※   ※   ※ 



「……付き合わせて、悪かったね」


 世界の果てまで付き合わせた。

 文句も言わずに来てくれた相棒に詫びる。


 いや、言えないか。

 そんな首輪をされて文句など言えるわけもない。

 言いたくても言葉も持たない。



「グリズヒート」


 もうどれくらい過ぎたのか。

 一年や二年ではない。


 老いた。

 かつてトゴールト天翔勇士団で立身出世を夢見た女騎士も、すっかり老いた。


 どれくらい、というのがわからない。

 人間は、他者がいて初めて自分を認識できるものらしい。

 比べる者がいないと認識できない。


 自分が人間であるという認知だけは忘れないのは、相棒の翔翼馬グリズヒートのおかげだろう。

 彼女がいるから、ガーサはガーサでいられた。

 他に誰もいない世界で。




 トゴールトが滅びる時に逃げ出した。

 翔翼馬という手段があったから逃げ延びることが出来た。


 逃げて、逃げて。

 海まで逃げて、さらに東に逃げた。



 大断崖アウロワルリスから東の海は暗礁が多い。船が行き来することはまずない。

 船底をやられるか、暗礁による複雑な海流に飲まれるか。

 暗礁ばかりでもない。群島もあるが、この環境で住む人間がいるはずもない。


 火山活動により出来た群島。

 その中の比較的大きな島に逃げ込んだ。

 地下から湧いてくる水は熱く、地熱が高く植物も少なくない。


 そんな環境で生き延びた。

 今日まで。



 しかし、ガーサはただの人間だ。

 食べるものに困らなくても、いつまでも生きられるわけではない。


 トゴールトはどうなったか。周辺の町などは。

 今さら戻る理由も気力もない。すっかりこの島での暮らしに慣れてしまっていた。


 そうして迎える最期。

 こんな死に方もある。



「すまなかったね、相棒」


 弱った手でグリズヒートの首を撫でた。

 病か、老いか。どちらにしてももう力が入らない。死期を悟る。


「相棒、なんて……お前には不愉快かもしれないけどさ」


 呪いの首輪で言うことを聞かせていただけ。

 グリズヒートがいなければガーサは生きられなかったのだから、外すことは出来なかった。

 それも今日まで。



「……後は、自由に生きなよ」


 ぷつりと、翔翼馬を縛り付けていた黒い首輪をガーサの手で絶ち切る。

 自由になればガーサを襲うかもしれないが、それも仕方がない。


「ありがとう、グリズヒート」



 翔翼馬はガーサを見て、声はなく嘶く素振りだけ見せた。

 そして振り返り、数歩の助走の後に飛び立つ。


 空に駆け上がり、座り込んだガーサの頭上を飛んでいた。

 ぐるぐる、ぐるぐると。

 それを見上げ、大地に転がる。



「ありがとう」


 世界には、ガーサとグリズヒートだけ。

 そんなことはないだろう。

 けれど、今のガーサの目に映る世界には他の誰もいない。


 青い空に、地熱から上がる白い蒸気。

 輪を描いて飛ぶ焦げ茶色の美しい翔翼馬の姿。



「……幸せな死に方じゃないか。天翔騎士にしたら、最高」


 命のやりとりの心配もない。

 金銭や、他者との軋轢などの不安も何もない。

 ただ命を終えて、美しい愛馬の飛ぶ空を見上げて死ねるのなら。


 世界で、きっとガーサよりいい死に方をした女はいない。

 孤島で不便な生活だったけれど、己の死に様に満足できるのなら良い人生だった。



「悪くない、ね……」


 まるで世界で最後の人間のような気分で、ガーサは笑って目を閉じた。




 清廊族東部の集落ではよく知られている話。

 東の海は嵐の王が守る海と。


 千年を生きる翔翼馬は、何かを守るように東の空に現れ、清廊族が近付かぬよう嵐を起こしてみせるのだとか。

 誰が言ったか、古い友の墓を守っているなどと言い伝えられる。



  ※   ※   ※ 



「ここが、真白き清廊……ですか?」

「お入りなさい」



 町を出て一日半。ようやく辿り着いた。

 思っていたよりも小さい。深緑の木々の中にそっと、静かに佇むように現れた白い石材の社。


 警護と案内を兼ねて付き添ってくれた先輩の巫女に促され、両開きの戸の片側から中に入る。

 もうひとつ扉が。


 北部の山脈の中だ。冬になればその寒さはつとに厳しい。

 二重扉は里でも珍しくない。


 二つ目の扉を潜ると、中は思ったよりも広かった。

 無駄なものがないから広く感じるのか。



「魔石を足せばもっと明るくなりますが、この泉の広間では控えなさい」

「はい」


 泉の広間。北部最大の町クジャの中央神殿、紡紗廟ほうさびょうにもある。

 冬でも凍らぬ水が湧く泉。

 町の者の生きる水として敬われる泉。それと同じものがこの真白き清廊にも。


 順序が違う。

 この真白き清廊を模して、クジャの町に紡紗廟が作られた。

 似ていて当たり前。




「ここに……」

「御覧なさい。あまり大きな声は出さないよう」



 夢にまで見た場所。

 清廊族の巫女に選ばれなければ、この真白き清廊に立ち入ることは出来ない。


 九年間のお努め。それは清廊族の娘なら誰もが夢見ること。

 姉神が遣わした伝説の氷乙女ひのおとめのお世話係として。



「本当に、ああ」


 丸く囲われた泉の中央。

 黒い水の中で眠る二つの裸身。



「言い伝えの通り……」

「アヴィ様と、ルゥナ様です」


 互いに向き合い、少しだけ体を丸めて。

 額を寄せ、水の中なのに息遣いを伝えようとしているかに見える。

 そっと絡む小指と小指も。



 長く真っ直ぐな黒髪がアヴィ様。両腕に巻かれた黒布もまた伝説のまま。

 細く毛先が少し内巻きになっているのがルゥナ様。アヴィ様を助け支え続けたという。



「……ああ、本当に。本当にお美しい」

「清廊族の救い。姉神の化身とも呼ばれるお二方です」

「ええ、もちろん存じ上げています。清廊族で知らぬ者なんていません」



 伝説で、憧れの存在。

 誰もが恋焦がれる清廊族の救い主。


「この地を支配し、時の清廊族に暴虐の限りを尽くした人間を滅ぼしたと」

「苦しく、つらい戦いです。伝説の氷乙女たちも傷つき、失われ……」


 ただの活劇物語ではない。

 忌まわしい呪いと人間という種の圧倒的な数の力で、当時の清廊族は塗炭の苦しみの中にあったと伝えられる。

 蹂躙され、滅ぼされる。そんな未来しか見えなかった時代があったのだと。


 そこに現れた救い主。アヴィ様とルゥナ様。

 彼女らの下に集い、共に戦った清廊族の守り手、氷乙女たち。傷つき、命を落とした者も。


 仲間の犠牲や、伝えることさえ禁じられた苦難を乗り越えて果たした。

 人間を駆逐してこの地を清廊族に取り戻した。




「アヴィ様は、案じられていたそうです」


 先輩巫女が語り聞かせる。


「再び人間が現れることを」

「ですが……」


 後輩としては、自然な疑問。


「人間は、滅びたのでしょう?」

「……」

「この地の人間は全て消え、旧大陸の人間は人間同士の争いで滅びたと。そう教わっています」


 清廊族として子供の頃から教わる歴史。

 苦難と悲劇の末に安らかな時を得た。その原因となった人間は滅びたのだと。



「ええ、確かに。氷乙女たちが旧大陸を目にした時には、既に何者も生きられぬ枯れた死の大地となっていたと」

「他にどこか?」

「その後数十年の探索、そして千年を過ぎた今も。人間の姿はもう世界のどこにもありません」


 よかった。胸をなでおろす。

 恐ろしい人間という種族がまだ世界にいて、一部の者だけがそれを知っているとか。そんな想像をしてしまった。


 世界から人間は消えた。

 この地での戦いと、人間同士の争いで。

 言い伝えの通り。



「それでも」


 先輩巫女が、泉の中のアヴィ様とルゥナ様を見やって続ける。


「アヴィ様は案じられていたそうです。いつか、どこからか。人間が再び現れるかもしれないと」

「それは……」

「その時の為にご自身は眠りにつかれると。氷乙女の中、ルゥナ様だけはそれに伴うことを許されたそうです」



 一番の理解者で、大切な伴侶として。

 寄り添い眠る二つの裸身。


「未来の清廊族に災厄が訪れ、危難に見舞われた時の為に。ここで眠ると」

「千年を越えて……」


 まさに姉神の化身。清廊族の救い主。

 眠る姿は、ただの少女のようにしか見えないけれど。



「他の氷乙女の方々がどう思われたのか、それは様々ですが。そうですね、貴女は……」

「はい」

「氷乙女の一柱の名を継いでいるのでしたね。トワ」


 トワ。

 氷乙女に名を連ねる祖先の名前で、自身の名。

 トワの先祖は、伝説の中で彼女らと共に戦ったのだ。だからこそ憧れも強かった。



「はい」

「……どうですか?」


 先輩巫女がトワに訊ねる。

 いまいち意図がわからない質問にトワは首を傾けた。


「……アヴィ様とルゥナ様に、起きていただきたいと思いますか?」

「起きて……」



 もう一度あらためて、眠る彼女らを見つめる。

 美しい。

 想像していた以上に美しい姿が、伝説ではなく手の届くところにある。


 トワの手が届く場所に、恋焦がれた氷乙女が。



「……正直を言えば、起きていただきたいと。そう思っていました」

「……」

「こうしてお二方をこの目で見るまでは」



 嘘はつかない。

 つく必要がなくなったから。



「今は、ただ静かに。見守ることを許してほしいです」


 先輩は心配していたのだろう。

 不心得な者が役目を継げば、彼女らの眠りを妨げるかもしれない。

 トワも、そんな邪心がなかったとは言い切れない。あった。


「だって、こんなに」


 きっと、眠る子を見守る母の気持ち。

 丸まって眠る獣の赤子のよう。


「こんなに穏やかに……幸せそうに、眠っておられるのですもの」

「そうですか」


 ふ、と。

 先輩巫女が息を吐いた。安堵の息。



「……合格です、トワ。清廊の巫女として貴女を認めましょう」

「?」

「起こしたいなど考えたこともないとか、つまらぬ嘘を言えば里に返すところだったのですよ」


 試されていた。

 まだ巫女として認められていたわけではなかったのか。

 嘘をつけば失格。

 変に取り繕わなくてよかったと、トワも安堵の息を吐く。



「十日に一度ほど、泉に小さな魔石を一つ。それ以上は不要です」

「多すぎたり、忘れてしまったりしたら?」

「あまりよくはありませんが、私たち以外に山の壱角いづのの御方も時折見に来られますから。普段の生活はこの奥の部屋で――」



 巫女として認め、ここでの暮らしを説明し始める先輩の後を追いかけ、立ち止る。

 もう一度、黒い水の中の彼女らを見た。



 穏やかに、安らかに。

 何の不安もないような幸せそうな表情で、額を寄せ合うアヴィ様とルゥナ様。

 黒い水に抱かれ、満ち足りた顔で。



「……」


 ずっとこの姿を守りたい。

 そう思うことが、たぶん清廊の巫女に求められる資質なのだろう。


 ――ずっと、いつまでも。お二方が幸せでいてくれたら。


 母が願うように、トワもまたそう願う。

 そう思い続けられる清廊族の生き方こそ、彼女らが守りたかったものなのだろうから。



                          ~ 完 ~




 2021年8月13日

 第二幕と第三幕の間、登場人物紹介などの回にキャライメージイラストのリンクを追加しました。

 近況ノートからでも見られます。よければご覧ください。



 //////// あとがき ////////////

 大変長い物語にお付き合いいただいた方々に感謝を。

 ありがとうございました。


 全てを救うことは出来ない。けれど苦難に立ち向かい辿り着いた結末になります。

 読んでいただいている方々の中には、もっと違う選択肢もあったのではないかと思う気持ちもあると思います。

 もっと救われてほしいという優しい御心かと。

 そんな方は、この後の【終幕・真焉】を読んでいただけたら、きっと後悔しないと思います。


 ここまでお付き合いいただいた読者様、イラストを描いていただいたいなり様にもう一度感謝を。

 本当にありがとうございました。

 皆様の心に何か残る物語になったとしたらとても嬉しいです。


                 大洲

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