第六幕 098話 火種
「全く、あの大うつけ」
苦々しい言葉が口から零れたのは、焦燥からか。
認めたくはないが、ここに到着して安堵したからなのかもしれない。
頼もしい仲間のいる町。
アヴィとルゥナがいる。ならどうにかなるだろうと、心が緩んだなどと認めたくはないが。
「よもや妾が追われるようにクジャを出るなど」
「よほど怖かったんですね」
「やかましいわ、セサーカ」
当然だが北部の方が冬が長い。
まだ厳寒の中、クジャを出た。
今頃は雪の多くも融け始めているだろうが、メメトハがクジャを出たのは普通の者なら絶対に避ける季節。
不穏な噂があった。
北東、クンライ地方から。
雪鱗舞に跨る女戦士が集落中の若い女を孕ませたとか。さすがに噂が誇張されたのだと思うが、事実も含まれているだろう。
頭が痛い。
有り得ないと言い切れないところが、頭が痛い。
確かに聞いた。
一昨年の大戦の後、アヴィから。
今のメメトハ達なら、おそらく女同士でも子を為すことが出来ると。まあ、そのやり方も。
出来る。だからやる。
そう短絡的なものではないだろうに。ないだろうに。
その二つが直結する大馬鹿者がそれを聞いてしまったわけだ。
――集落みぃんなに子をくれたら、そうじゃのう。クジャで一番かわええ娘にもウチの子、産ませちゃるわ。
阿呆か。ど阿呆か。
そんな噂があっという間に流れるほどの馬鹿さ加減に呆れ、呆れて……ふと思い至った。
(あ、妾じゃ)
次の標的はメメトハに違いない。
とんでもない女だ。絶対に拒絶すると心に誓ったのだが、不安もよぎる。
ウヤルカはどうしようもない馬鹿者であるのは間違いないのだが、どうしようもなく恰好の良い部分もある。
強引に迫られた時にウヤルカがそういう武器を使ったら、メメトハは拒絶しきれるのか。
集落中の娘に好かれ、孕ませたという手腕。口説きの手口。メメトハが抗えるとは言い切れない。
逃げ出した。
冬のうちにクジャを離れ、ルゥナ達がいるヘズに向かった。
相手はユキリンに騎乗するウヤルカだ。出遅れたら逃げきれるわけがない。
無事にこうしてヘズに辿り着き、安堵した。
「あの大うつけが」
「わかりますよ。ウヤルカは時々とても素敵に見えてしまいますから」
「妾たちはとんでもない魔物を解き放ったのやもしれぬぞ」
あれで力は氷乙女なのだから、もう手に負えない。
同じだけの力を持つ誰かの傍で守ってもらわなければ。
あの戦いが終わってからも、残務で戦士たちには大陸中を駆け回らせた。
一度は故郷に帰り、体を休めるついでに各地の同胞に現在の状況を伝えてもらおうと、昨秋にそれぞれを返したのだが。
ウヤルカを野放しにしたのは間違いだった。クジャのメメトハ、痛恨の失策。
「して、アヴィ達は?」
「ニーレ達が戻ってきて話をしたいと言うので、集会部屋に」
ちょうどいい。仲間は少しでも多い方がいい。
「あのうつけの扱いも相談を――」
話しながらセサーカと向かった先で。
「何事じゃ?」
ミアデが腕を組み、唇を尖らせている。
ルゥナも難しい顔をして、アヴィとニーレは唇を引き締めて立っていた。
少し下がってネネランが困った顔で、メメトハに気が付くと頭だけで会釈をする。
雰囲気はよくない。
彼女らが立って取り囲んでいるのは、赤子を抱いた女。
囲まれ、赤子を庇うように覆いかぶさって震えている。
がたがたと、見てわかるほど。
「何事じゃ、これは」
「彼女は……」
怯える女の顔を確認したセサーカが強張った声を発した。
顔見知りか。
「あの人間の……確か、スーリリャ」
「人間?」
メメトハが見る限り清廊族の女に見える。
セサーカも知らなかったようで、誰かに説明を求めるよう見回す。
「そうだよ」
ミアデがつっけんどんに。
びくっと一際大きく震え、固まる女。スーリリャと言うらしい。
「ソーシャを殺したあいつの仲間」
「言い方が一方的すぎると言うんだ、ミアデ」
「だってそうじゃんか」
ニーレが窘めるが、それに反発するミアデ。
明朗快活なミアデが珍しい。強い敵意と嫌悪を示す。
「ソーシャ……三角鬼馬の仇じゃと?」
見回す。
エシュメノはいない。この町にいるのかと思っていたが。
「エシュメノは今朝ニアミカルムに向かいました。メメトハ、久しぶりですね」
「息災……かどうか、よくわからんの。ルゥナ」
着いたところで、妙な雰囲気。
三角鬼馬の仇である人間は倒したはずだが、その仲間と言われる女がいては仕方がない。
何かの間違いではないのだろう。
アヴィもルゥナも否定しないし、セサーカも顔を曇らせた。
清廊族の女が人間の仲間というのも不思議な話だが。
「エシュメノがおらぬのは、幸いじゃったか」
「ニーレが邪魔したんだよ。あたしはエシュメノの前に引っ張り出そうって言った」
「お前のやり場のない怒りをエシュメノに押し付けるな、ミアデ」
「だってソーシャを――」
「やめなさい、どちらも」
ルゥナの言葉を受け、再びミアデが唇を尖らせて横を向く。
よほどこのスーリリャが嫌いなようだ。
「……こいつをエシュメノから隠すなんて許せない」
「またつらい気持ちを呼び起こすだけだ」
「だけ? だけって――」
「やめなさいと言いました」
ミアデの言い分もわかる。ソーシャの仇の一味だと言うのなら、それの沙汰についてエシュメノの気持ちも聞くべきだと。
逆にニーレは、エシュメノの傷を開くような真似をさせたくないと言う。
この組み合わせで喧嘩など珍しいが、考え方が違えばこんなこともある。
エシュメノの知らぬところでの話となれば、確かに気分はすっきりしない。
だがきっとエシュメノは許すだろう。許させる為に悲しい記憶に触れることを嫌うニーレの考えも正しい。
「して、その赤子は?」
「赤ん坊のことで、東の集落で相談を受けたんです」
とりあえず冷静な様子のネネランが改めて事情を教えてくれる。
彼女も三角鬼馬と直接は関わっていなかった。ミアデ達よりは冷静。
「身重の体の彼女……スーリリャさんを保護したそうです。無事に産まれたのは良かったのですが」
ぎゅうっと赤子を抱きしめる女の様子はただごとではない。
まさに敵から我が子を守ろうとするように。
「彼女は満足に食事を摂ろうとせず、乳も出ていない。周りの者が赤子の世話をしようと取り上げると泣き喚いて暴れる始末ということで」
「それでは赤子が死んでしまうじゃろう」
「せっかく授かった新しい命。どうしたものかと悩んでいたところに私たちが行ったので」
東部の再建の中、村に新しい命が産まれた。
当然、村の者たちはその命を守ろうとするだろうが、母親がこの有様ではどうしたらいいのか。
長い奴隷生活で気をおかしくしてしまったとしても、赤子だけでも助けなければ。
そこに氷乙女の仲間であるミアデ達が訪れた。
困っていることはないか。危険はないか、と。
相談を受けて見てみれば、知った顔の女だったというわけか。
「しかし、赤子には何も……」
「マルセナの例があります」
ルゥナが呟き、首を振る。
「彼女が……あの時のスーリリャだと言うのなら、今この時期に清廊族の子を産むとは」
「……」
沈黙。
当のスーリリャも黙したまま。
それでは肯定しているに等しい。
ぎり、と。ミアデが噛み締める音が妙に大きく響いた。
エシュメノの母であり偉大な伝説の魔物。ソーシャの仇と言われる女スーリリャが子を産んだ。
その親は……
「……」
人間をこの大地から消し去った。
二度と災厄の火種などごめんだ。ましてなんと、それが人間どもの英雄の子などと。
「……スーリリャ」
「……」
「顔を上げなさい、スーリリャ」
ルゥナの命に、スーリリャの視線だけわずかに上を向く。
己が死んでもこの子は守ると言う覚悟は見えるが、そんな力など持ち合わせてはいない。けれど母親だ。
「ビムベルクの遺言です。私が聞きました」
「な、ん……?」
固まり、声を漏らして。
それから顔を上げる。
「あなたが……」
ルゥナを見上げ震える声で確かめるように訊ねる。
「あなたが、ビムベルク様を……」
「……そうです」
立ち上がった。
立ち上がり、左腕に赤子を抱いたまま右手を振り上げルゥナに迫る。
「なんで! どうして!」
恨みの言葉と共に敵意を込めてルゥナの顔に爪を立てようと、叶うなら殺してやろうと叩きつける。
だが――
「やめるんだ」
ルゥナは受け入れようと目を閉じていたが、ニーレが腕を掴む。
「駄目よ、ミアデ」
「アヴィ様……」
壁の方では別に、ルゥナを打つ前に殴り返そうとしたミアデを、アヴィが抱き留めている。
ミアデの力で殴れば、弱ったスーリリャなど死んでしまう。
「貴女を後悔させたくない」
「あたしは……」
「私がそう望むの。ミアデ、手を下ろして」
アヴィの言葉に目線を泳がせ、息を抜くと合わせて拳から力が抜ける。
メメトハの隣でセサーカも杖を構えていたが、やはり肩から息を抜いて杖を下ろした。
「放して! ビムベルク様の仇を――」
「わかっているんだろ、君も。違うって」
「だって……だって、閣下は……」
ニーレに諭されても、スーリリャは納得できないと頭を横に振る。
メメトハは知らないが、愛していたのだろう。そのビムベルクとやらを。
遺言を聞いたと言うルゥナに対して、すぐ納得など出来るわけがない。
「憎しみに満ちた手で」
ネネランが、するりと。
片腕で抱いていた赤子を抜き取る。
「っ! その子は違います! だめ、返して!」
「泣くことも許さないような抱き方は、よくないと思います」
抜き取った赤子をネネランが抱いた。
両手で抱えて、胸に寄せながら軽く揺する。
ふわぁぁ、と。泣き出す赤子。
今の今まで泣き声をあげなかったのは、スーリリャの緊張と悲壮に
部屋に泣き声が響く。
ミアデが俯き、何事か呟いてアヴィから離れた。
ニーレに拘束されていたスーリリャの体からも抜け落ちていく。再び膝を着いて崩れ落ちる。
「ビムベルクの遺言です。彼が私に言い残しました」
スーリリャのことは、許してやってくれ。
ただ俺の我が侭に付き合わせただけ。
あいつは強情なところがあるから、清廊族の仲間じゃないと言うかもしれない。
人間の英雄ビムベルクがルゥナに残したという言葉を聞いているうちに、スーリリャの喉から嗚咽が溢れ出した。
その男の言葉だと思うところがあったのだろう。
赤子の泣き声と、母のそれと。
ミアデが唇を噛んで部屋を出ようとして、入り口近くにいたセサーカと目が合う。
彼女らの間には埋めにくい距離が出来たまま。
ばつが悪そうに足を止め、壁に背をもたれさせ目を閉じた。
「ビムベルクは最後まで貴女を案じていました」
「あぁ……わたし、どうして……どうしたら……」
「ですが、正直に言えばだからこそ。私たちにも不安が残ります。スーリリャ、貴女を信用しきれない」
事情を今知ったばかりのメメトハでも心配になる。
これほど強く人間に想いを寄せる清廊族。
大した力はないにしても、彼女の存在が不安の種だ。
そして、何よりも。
この赤子。
さっきルゥナが言ったマルセナというのは、ダァバと戦っていた魔法使いのはず。
人間と清廊族の混じりもの。
それが理由なのか、一見しただけだったが凄まじいほどの力を持っていた。
この赤子もそうなのかもしれない。
ましてそれが人間の英雄ビムベルクなどの血を引いているとしたら。
「私から聞くわ」
アヴィがルゥナに代わって訊ねた。
泣き顔のスーリリャが顔を上げ、口を少し開けたまま言葉を待つ。
「一度だけ聞くわ。本当に大事なものが何なのか考えて答えなさい」
前置きをしたのは、アヴィの優しさなのだろう。
心を壊しかけているスーリリャに対して、答えを間違えないように。
「この子は、清廊族?」
「……」
「それとも、違うもの?」
「……」
ネネランが抱きあやす赤子。
それは何なのか、母であるスーリリャに答えろと言う。
スーリリャの大事なものは何なのか。
思い出か。英雄への愛か。
己自身のやり切れない怒り、悲しみか。
よく考えて答えるように。
アヴィにとっては優しさかもしれないが、スーリリャはどう受け取るだろう。
大切なものを選び、他を捨てろと迫っているように聞こえているかもしれない。
非道で残酷な選択を迫る。
表情の薄いアヴィだから余計に無情に受け止められやすい。
「この子は……」
スーリリャが口を開いて、止まって。
「……」
アヴィは急がない。瞬きもせずにスーリリャの言葉を待つ。
ルゥナ達もアヴィに従い、口を閉ざしたまま。
「この子は――」
※ ※ ※
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