第六幕 068話 知に肥えた無恥
村はずれの荒れ地に着地した瞬間、悪寒がルゥナを包んだ。
凄まじい寒気。吐き気。
見覚えのある廃村の、覚えのある荒れ地。
荒唐無稽な想像がルゥナの頭を過ぎった。与太話。怪談。
しかし違う。
ルゥナを襲った悪寒は、その荒れ地の先から頭を出した杖のせい。
見覚えのある禍々しい杖。
濁った赤い宝珠が嫌悪感を湧かせる。かつて牧場で戦った呪術師の使っていた杖。
あの時と同じ。
戦っている最中、まとわりつくような怖気がルゥナの力を削いだ。
先触れ、とか。
あの時得意げに呪術師は言っていた。発動前に呪術の効果を及ぼすと。
ルゥナに纏わりつく不快感は呪術の力。自由が奪われる悍ましい感覚。
それが発動すれば逃れられない。
迂闊だった。というわけではない。
ルゥナの意思ではどうしようもなかった。
シフィークの命令はダァバの相手をしろ、と。
刻みつけられた呪いの力に逆らえない。全力でダァバを追うしか出来なかったのだから。
「――っ!」
身を竦めた。
いっそ殺してほしいと。こんな男に利用されるくらいなら、殺してほしい。
そう思ったのに。
「……?」
「ぐ、あぁぁぁっ!」
呪術を放とうとしたダァバが、逆に自分の力に飲み込まれ苦悶の声を上げた。
赤黒い輝きがダァバを包む。
何が起きたのか、理解できない。
しかし、なんだ。呪術の発動に失敗したのか。
失敗?
未熟な使い手ではないはず。百年以上の時を重ねているのだ。
この決定的な瞬間に失敗するなど有り得るのか。
「あのくそガキぃぃ‼」
無理やりに、強引に。
自分の胸の皮と一緒に赤い光を引き剥がした。
いつの間にか左腕が生えている。
濁塑滔の特性か。引き裂いた胸からも、血液にしては黒すぎる何かが流れ出した。
「ぜ、え……はぁ、は……っく」
酷い有様。
まだ周囲を漂う赤い光が消えていない。得体の知れない呪いの力に近付くのは躊躇われた。
「大丈夫、ルゥナ?」
「平気です、アヴィ」
隣に立つアヴィの気配に、自分も息が切れていることに気が付かされる。
全力で走ってきたのだ。答えながら息を整えた。
どうする。
ここにきて冷静さを取り戻す。
シフィークの命令でがむしゃらにここまで来たけれど。
どうしたらいい。どうすればいい。
ダァバを倒さなければならない。
それは絶対だ。
しかし、もうひとつ。
これはルゥナの問題だけれど。
ルゥナにとっては、ダァバ以上の具体的な問題。脅威。
絶望をもたらすもの。
シフィーク。
ルゥナにかけられた呪いは残っている。
あの目を見ただけで身が竦む。声を聞けば恐ろしくて膝が震えた。
今はいない。
さっきは、偶然だけれど敵対したダァバと戦うように命じていった。だから助かった。
次は、どうなる?
再びシフィークが目の前に現れたら、どうなるのか。
怖い。
怖くて、怖くて。
エトセンで、アヴィが皆を傷つけた時のようになってしまうのではないか。
ルゥナの手で、戸惑う仲間たちを傷つける。愛するアヴィやトワを。
嫌だ。絶対に嫌だ。
今度は母さんの助けはない。
ルゥナがいなければ。
死んでしまえば、シフィークに利用されることはない。それなら。
「アヴィ……アヴィ、私は……」
「……」
どうしたらいいのか、わからない。
アヴィの瞳がルゥナを映す。
優しく。赤い瞳が、泣き出しそうなルゥナの顔を映し返した。
「マルセナを……あの子を、助けて下さい」
出て来たのは、そんな言葉だった。
口にしてから驚き息を呑んだ。
なぜ今、マルセナのことを。
優先順位はそこまで高くないはず。確かに清廊族の同胞かもしれないけれど。
アヴィにとっては母さんの仇の片割れ。
決して味方ではない。むしろ殺したい相手かもしれないのに。
自分は何を言っているのか。
そうだ、ダァバを倒すにしても炎の魔法は有効。決め手になる。
だから。
言い訳を考えてみるけれど、違う。
そうではない。
どうしてか、氷の柩を抱えて泣き去ったマルセナの姿が、あまりに憐れで。
不憫だった。
彼女は今までどれだけの嘘を重ねて生きてきたのか。人間の世界で。
他者を謀り、己を偽り。
そんなマルセナが唯一、真実の何かのように泣いて抱きしめていたイリア。
あまりに、救いがなさすぎる。
あんな姿を見せられて、どうしても。
逡巡したルゥナの目の前に、アヴィの顔があった。
静かに、優しく。アヴィが唇を重ねる。
「……いいの」
許す、と。
ルゥナの口から出た願いを許すと言って。
「……あの勇者は、私が殺す」
「あ……」
ルゥナの為に、シフィークを殺す。
そうでなければルゥナが解放されない。
同時に、ルゥナの支離滅裂な願いも聞き届ける。
マルセナを助ける。遺恨を忘れて。
それ以上の言葉はなかった。
アヴィは許してくれた。
「ダァバは妾が討つ。ルゥナのことは任せよ」
メメトハの言葉に頷くと、頭を抑えながら荒い呼吸をしているダァバを置き去りに駆けて行った。
その背中を見送り、改めてダァバを睨む。既に赤い光は散って消えている。
「本当に……馬鹿な連中だな、お前たちは」
戦力が減ったことを嘲る。
確かに、全力でダァバを倒すべきだったかもしれない。他に構わず。
しかし、アヴィの剣はダァバに有効ではない。
それとは別の考えもある。
「お前ごとき、アヴィが相手にするまでもありません」
「本来なら妾だけでやるべきことじゃ。腐った裏切り者の始末なぞ」
気持ちはわかるが、さすがに彼女だけでは無理だ。
いくらダァバが消耗しているとは言っても。
「女神は見入る――」
ほら、みろ。
油断した。
アヴィがいなくなったから、かつてダァバの呪術を弾き返したアヴィがいなくなったから。
一番卑劣で、一番自分の得意なものに頼る。
「衷心の腑底に根差す、無私無極の愛寵を――」
アヴィはここにいないけれど、残していた。
ダァバと対峙した時に、ただ一度。呪術を防げるだろう手段を。
投げつける。
駆けながら、破夜蛙の空気袋を。
小振りな魔術杖を握り、メメトハと共に左右からダァバに迫った。
アヴィが残していったのは、簡易詠唱のような。
でも、どこでも聞いたことのない言葉。
でたらめのようなものだったけれど、ダァバに対しては効果があるだろうと。
荒く息を吸う瞬間、にやぁっとダァバの頬が緩んだ。
弾ける破夜蛙の空気袋。猛烈な風が溢れ出し、降っていた氷雨を吹き飛ばした。
「イッサンカタンソ! シーオー‼」
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