第六幕 036話 名も知らず、色もなく
――ぐわん
空間が歪んだ。
イリアが前触れを感じられなかったのは、その発生源から離れていたから。
鷹鴟梟パッシオの耳元近くに、突如として暴風のような何かが出現するとは予想も何もしていなかった。
空気の塊。
異変を探ろうと耳を澄ませた鷹鴟梟の耳元、後ろ頭近くで弾けた。
「ブ」
「なんだっ!?」
鷹鴟梟が前のめりによろめいた。
完全に不意を突かれた形で、後ろ頭をぶん殴られたように。
それでも耐え、翼と爪を支えに踏みとどまったのはさすが伝説の魔物。
「ディニ!」
マルセナを掴んだ。
そして駆け出す。
「なんだ今の……魔法――?」
ぎゅろっと、濁った赤い瞳がイリア達を映す。
正体不明の力で不意打ちをしたのはお前たちかと疑い、しかしそうではないと確信も。
さすがにこちらには注意を払っていたし、ディニとダロスには鷹鴟梟が目耳を傾けていた。
鷹鴟梟に衝撃を与えるだけの不意打ちなど出来たはずがない。
しかし。
「く、トワかぁ!」
上を睨んだ。
上空に留まっていたはずの黒い塊。それが東に流れている。
「この――っ! もういい、遊びはやめだ!」
上空の塊にまだ何かがいた。
どういう理由か知らないが、それが攻撃を仕掛けてきたのか。
理由などなんでもいいけれど。
「イリア、支えて」
「任せて!」
イリアに抱かれた恰好で、マルセナが集中し目を閉じる。
ディニが空から降りてくる。飛び乗ろうとするイリアの後ろから迫る殺意。怒気。
「至天の究み、命花の封疆を破れ、色無しの死令」
初めて聞く詠唱。だがその効果は明らかだった。
辺り一帯を殺す魔法。
敵の放った魔法は、周囲の木々を一瞬で凍り付かせながらイリア達に迫る死の冷風。
イリアが反対を見ていれば、周囲の樹木が凍り粉々になる様子が見えただろう。
抵抗も許さず生命を奪う氷風の魔法。
自分たちを飲み込もうとするその気配は感じるけれど、別にいい。
マルセナと共に散るのならそれで。もっとも今この瞬間は、死の覚悟などしていない。
「深天の炎輪より、叫べ狂焉の裂光!」
敵が最悪の氷雪魔法を使うのだとしても。
マルセナは、最高の炎の魔法使い。
「すうぱぁのば――っ!?」
気分がいい。
何を言ったのかわからなかったが、炸裂する前に敵の驚愕の声が聞こえた。
散々、偉そうに上から物を言っていた男だ。マルセナを甘く見て。
爆ぜた。
イリアの後方で、イリア達を飲み込もうとした死の風とぶつかり、爆裂した。
冷たい夜に突として現れた太陽のごとき輝きが、やはりこちらも周囲一帯の命を吹き飛ばしながら死の風を打ち払う。
その光景はまさにこの世の終わりのような。
無音だった死の風と、天をも割るのではないかという狂いの絶叫。
混ざり合い、イリアの背中からも強く吹き付ける。
「く、そぉっ!」
「ディニ!」
風に乗り飛んだ。
マルセナを抱いたまま空を駆けあがるように、純白のディニの背に。
鞍がないので裸馬だった。
掴み切れない。マルセナを抱いたままでわずかに態勢が整わず、賢いディニはそのイリアを助けようと身を捩る。
隙だった。
一拍の遅れ。それを見逃さない敵がいる。
「フケイなオロカものガァ!」
後ろ頭に衝撃を受け、ダァバと呼ぶ主の後ろでふらついていたのに。
怒りがそれを上回ったのか。
強靱な爪で大地を蹴り、イリアの体を鋭い嘴で貫こうと
閃光のような突撃に、対応できない。
イリアも、抱いているマルセナもまとめて貫かれる。
「マルセナ!」
「っ!」
ディニの白い背中にマルセナを押し付けた。
敵の嘴がせめてマルセナに当たらぬよう。
「KyuEeeee!」
闇が覆う。
一筋の閃光から、イリアとマルセナ、ディニを庇う為に。
「ジャマ、をォ!」
「Bu,We……」
鷹鴟梟よりは遅い。速くない。
けれど近くにいたから。
漆黒の翔翼馬ダロスがその身を挺して守った。蹄で鷹鴟梟の翼を蹴りつけて軌道を逸らした。
蹴られながら回転した鷹鴟梟の爪ではらわたを、凍り焼き尽くされ色を失った大地に撒き散らしながら。それでも巨体を鷹鴟梟に被せるようにぶつけた。
「ダロス!」
「マモノふぜいガ!」
お前だって。
お前だって魔物だろうに。
血を分けた姉妹であるディニを庇い、イリアとマルセナを救ってくれたダロスの血肉。
それを翼で払い除けて、憎々し気な声を発する鷹鴟梟パッシオ。
「ニガサヌ!」
「お前なんかに……」
逃げきれない。
かなりの消耗をしているだろう鷹鴟梟でも、マルセナとイリアを乗せたディニでは逃げきれない。
ならばここで殺す。刺し違えてでも。
「お前は、私が――」
「逃げて下さい!」
何が起きたのか、イリアにはわからなかった。
鷹鴟梟に向けて突撃したのは、翔翼馬。
白や黒ではない。普通によくいる濃い茶色の毛並みの。
突然空から現れた翔翼馬と、それに騎乗するのは――
「え、い……」
「マルセナ様、逃げて下さい!」
突貫する。
次々に、どこからか現れた翔翼馬に乗った影陋……清廊族の女たちが。
トゴールトでマルセナに従っていた奴隷たち。それが身を投げ出して。
「ジャマダぁ!」
「きゃあぁ!」
三名ほど、翔翼馬もろとも薙ぎ払われた。
翼の一振りで体を両断され、それでもなお上半身が鷹鴟梟にしがみつく。
「べ、は……まるせ……」
「ぐゥっ!」
さらに振り払った鷹鴟梟の頭を、別の翔翼馬の蹄が踏み抜いた。
次々に、殺されながら鷹鴟梟を止めようと。
「何をしている、ニンゲン!」
叱責された。
まさか、清廊族の奴隷にイリアが。
「え……あ?」
「マルセナ様を連れて逃げなさい! すぐ!」
状況に混乱して判断が出来なかった。
幻の魔法の類を使っていたのだろう。そんな魔法を彼女らが使えたのか知らないが、姿を隠して近付いていたのか。
戦いに集中する中、イリアにも鷹鴟梟にも察知されず接近してきた。
この奴隷たちは、今もマルセナの奴隷として命を投げ出して守ろうとしている。
「人間などに頼むのは不快ですが、お前しかいないでしょう!」
「あ……わ、わかった」
そうだ。何が何だかわからなくても、唯一の好機。
マルセナを連れて逃げる為の千載一遇の機会を、この清廊族たちが作ってくれた。
空から襲う鷹鴟梟と、再び魔法を唱えようとしていた男に対しての猛攻。命を捨てて。
「貴女達、どうして……」
「……貴女が、自由をくれましたから」
イリアを叱った女が、それだけ言って向き直る。
敵に向き直り、翔翼馬の腹を蹴った。
「っ!」
「行くよ、マルセナ!」
自由を与えた。
ならば彼女らが、その自由でどう生きるのか。死ぬのか。
それをイリアがどうこう言える権利はない。
マルセナに、彼女らの意思を曲げさせたくもない。この清廊族たちは自らの意思でこの戦地に来たのだ。死地に向かうのだから。
「ありがとう、ダロス。それと……」
そうだ。
こんな時になって思い知る。
「……」
イリアは、自分とマルセナの命を助けてくれた女たちの名前も覚えていなかったのだと。
色を失った大地に、赤い血と命を散らす彼女らの名前も呼べない。
女も、イリアを呼びはしなかった。人間とだけ。
それが清廊族とイリアの関係なのかと思えば、色のない世界と同じくらい、感謝の言葉も空しく響くだけだった。
※ ※ ※
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