第六幕 030話 祝い、呪い_1



 朝。

 好きだとか嫌いだとか考えたことはない。

 夜もあれば朝も来る。ただの時間。


 けれど今日は大好きな朝。

 大切な誰かと共に迎える朝は、差し込む光の煌めきの色まで違う。

 細かな雨を降らす雲から漏れたぼんやりした明りなのに、いつになく輝かしい朝日。


 肌寒い。

 イリアがそう感じるのだから、マルセナはもっと寒いだろう。

 抱き包み、少しでも温かくなるように。



「ん……」


 こうも深い眠りに落ちているのは珍しい。

 ずっと気を張っていたのだろうか。

 冒険者としてなら、眠りが浅いのは当然の習慣なのだけれど。

 とても疲れていたのかもしれない。生きることに。



 昨日、エトセン近くでクロエを弔ってから、相当な速度であの場を離れた。


 レカンの町ももう遠くないほど。普通なら歩いて十日はかかる距離だが。

 イリアが手を引きマルセナと走れば、馬が駆けるよりも速い。

 夜通し進んで町を目指すことも考えたが、都合よく廃屋を見つけた。


 マルセナを休ませたい。精神的な疲労もあるだろうし、身を削るように強大な魔法を連発していた。休める時に休まなければいざという時に困る。

 もちろん、他の気持ちもあったのは否定しない。ようやく手にした温もりなのだから。



 小柄なマルセナ。

 こんな小さな体で、他者を信じることなくずっと生きてきたのか。


 それが今、イリアの腕の中で子供のように眠っている。

 嬉しい。心の底からイリアに信頼を預けてくれた証。

 マルセナの穏やかな眠りを守れるイリアの技能は、きっとこの時の為に磨かれてきたのだ。


 周囲の気配を察知して素早く対処する。

 その技能について、この大陸で今イリアを上回る者はいないのではないか。

 最高の魔法使いマルセナと一緒なら、どんな危険にも対処できる。



 たった一年やそこらで、カナンラダ大陸の状況は大きく変化した。

 その一端はトゴールトを占拠したイリア達にあるにしても、それだけではない。


 イリアの生まれ故郷である西部は壊滅的な被害を受けたという。

 影陋族の反攻で敗戦を重ねたのだとか。


 ふと、去年逃がした奴隷の顔が浮かんだ。

 意外なほど強い影陋族。

 他にもいるのかもしれない。


 トゴールトでマルセナが使役していた影陋族の女たちも、生きていた者は解放した。

 あれらもマルセナの恩寵を授かったことで、いくらか力を得ている。

 同数の兵士相手なら負けないという程度だが、一般に知られている影陋族の特徴からは逸脱していた。



「……濁塑滔」


 黒涎山こくせんざんが崩れた時、マルセナはその魔物の一部を身に宿した。

 あれが、恩寵の理由。


 巨大な力を秘めた魔物。

 他の生き物の力を取り込む特性。


 マルセナが得た女神の恩寵のごとき力は、マルセナを通じていくらか分け与えることが可能なようだ。

 黒涎山で魔物と共に暮らしていた影陋族にも同じ力が。

 そしてシフィークが従わせていたあの奴隷にも、きっと。


 その力を利用して常識を覆す反攻を実現させたのか。

 影陋族の力を倍加してイスフィロセの全軍を打ち破るほどまでに。



 いくらイリアとマルセナの力が強くなったと言っても、国を亡ぼすほどの影陋族の戦力を相手にするのは危険すぎる。

 ルラバダール王国領エトセンなら防ぎきるかと思ったが、こちらは内乱で壊滅。

 どこも当てにならない。


 逃げるべきだろう。

 先行きの見えないこの地を離れ、ロッザロンド大陸に。

 マルセナと一緒ならどこでもいいとは思うけれど。



 熱い夜を過ごし、眩い朝を迎えるのに、不安だらけの土地にいるのは嫌だ。

 マルセナにはもっと安心して眠れる場所を。


 そう、柔らかな寝台だってほしい。

 隙間風の吹き込む廃屋に、薄い布を敷いただけのこんな場所ではなくて。


 いや、マルセナがいるのなら、たとえどこでもイリアには一番素敵な場所に違いない。それでももう少しくらい安らかに過ごせる場所を望みたい。



「……」


 硬い床板では背中や尻が痛くなってしまう。

 無理な姿勢で痣になるかもしれない。

 いつかマルセナが心配していたことと同じ。



「……イリア?」

「ごめん、起こしちゃった?」

「ん」


 イリアの胸に埋まるマルセナ。

 小さく首を振って、幼子のように甘える。


「戦場から兵士が流れてくるかもしれない。もう少しでレカンだから」

「レカンですの?」

「ガヌーザがいるはず。もう一度、顔を隠すあの呪術薬をもらって」



 マルセナは可愛すぎる。

 船旅となれば、同乗する者の注目を集めてしまう。

 海を渡るのになるべく目立ちたくない。生活にさえ困らなければ、静かにマルセナと過ごせればそれだけでいい。


 おかしなものだ。

 冒険者として力を求めていた頃は、名声や栄華を夢見ていたのに。

 いざ人の頂きたる力を得てみたら、欲しいものは静かな暮らし。



「私は、ただマルセナと一緒にいられればいい」

「……イリアがそれでよければ」


 重なる。

 肌を重ねて、気持ちを重ねて。

 特別なものなど他に何も必要ない。一番特別な互いさえ離れなければ。


 名残惜しいけれど衣服を身に着けて、身支度を整える。

 ずっとこのまま、溶けるようにマルセナに張り付いていたいけれど、さすがにそうもいかない。


 こうして心が繋がったのだ。また今夜だって夜は来るのだから。



「町についたら、宿で――」

「イリアっ!?」


 マルセナを抱いて飛び出した。

 腐りかけた廃屋の壁を打ち破って転がる。



「何かくる!」


 風を叩く音。

 近付く物音は警戒しているつもりだったが、空から近付かれては気配を感知しにくい。


 それでもただならぬ気配。

 説明している余裕もなく転がり出たイリア達の後ろで、重い物音と共に廃屋が崩れた。

 少し遅ければあの下に。



「?」


 あの中にいたところで、今のイリアとマルセナならさほど大きな怪我にはならなかっただろう。

 わざと物音に気付かせる為に大きく羽ばたいたのか。


「ディニ!」

「ダロスも!」


 小屋の上に降りたのは純白のディニ。

 そしてその頭上を舞う漆黒のダロス。額に小さな角を持つ双子の翔翼馬。


「何が――」



 山に放した魔物だ。好きに生きろと。

 魔物なのだから人を襲うこともあるだろうが、この二体に限ってはそうは思えない。

 イリアとマルセナを攻撃するなど有り得ない。



「イリア、上!」

「うん!」


 攻撃ではない。助けてくれた。

 ずっとつかず離れず見守ってくれていたのだろう。

 イリア達に敵が近づいていることを伝える為に、危険を顧みず羽音で警告を発した。



「このっ!」

「フィィィッ」


 鋭い声と共に放たれたのは、羽。

 マルセナを抱えたまま跳んだイリアの足元を、十数枚の羽が抉った。


「くぅ!」


 地面が爆散する威力。飛び散った土砂がさらにイリアを転がすが、手を着いて態勢を整え直す。

 食らっていたら足が砕けていた。ただの魔物ではない。


 空の上からイリアを見下ろす鳥の魔物。

 睨みつけるイリアと、杖を構えるマルセナ。



「なにこいつ?」

「だからやめなって。君は強すぎるんだ、パッシオ」


 疑問に感じたのは、見たことのない魔物のことではない。

 脅威的な強さの魔物。その上から降りてきた男はさらに異様な雰囲気。

 気付けばさらに頭上に大きな黒い塊が浮いている。あれに乗っていたというのだろうか。



「あんた――」

「いけません、イリア」


 マルセナが遮る。

 異常な気配に気が立つイリアを止めた。

 ダロスとディニも、降りてきた鳥の魔物と男に怯えるように距離を置いている。


 絶対的強者を感じさせる魔物の気配。

 それと、眩暈がしそうなほど禍々しい不快感を振り撒く男。



  ※   ※   ※ 

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