第六幕 019話 逃亡者の安息
イオエル・ユーガルテはミルガーハ家の傍系に生まれた。
父はアーノシュトと言うが、記憶に残っていることは少ない。
父もまたミルガーハ本家筋の女性の傍仕えだったと聞く。本家のお嬢様がヘズの町に嫁いだ際、彼もまたそれに付き添った。
しばらく後に傍仕えをやめてネードラハに戻ったが、長く妻帯しなかった。
五十を過ぎてから設けた子がイオエルだった。物心ついた頃には父は既に高齢で、意欲に溢れるような背中を見た記憶がない。
高齢の父に代わり働かなければならなくなったイオエルに選択肢は多くない。自分の意思で仕事を選ぶことはなく、ミルガーハ本家に仕える。
結婚もしたが子には恵まれず、妻は出て行った先で別の家庭を築いたとか。特別責める気もない。自分は父に似たのだろうと何となく思った。
代替わりしたニキアスの下で、商売に関わる雑多な仕事を堅実にこなしていく。否と言わない性分を見込まれたのか、四十を前にしてハルマニーの傍仕え兼見張り役となった。
考えは足りないが腕力は溢れる小さな主に手を焼くが、子育てとはこういうものかと悪い気分ではなかったのも事実。
それも幼少の頃だけ。成人に近付くにつれて手に負えなくなったハルマニーに、配置換えかネードラハを出ることを希望しようかと思っていたのに。
予想を大きく上回る事態に、どうすべきか判断できなかった。
ルラバダール王国領エトセンでの内戦。菫獅子騎士団に町を取り囲まれ、明日もわからぬ状況など予測できるものか。
本格的な戦闘などないだろうと踏んでいたのに、始まってしまった。
戦争。
これもまたイオエルの経験したことのない事態。ハルマニーに落ち着け落ち着けと言い含めたが、自分自身に言い聞かせていたようなものだ。
戦争と言っても、ただの民間人を皆殺しにするわけではない。あくまで主導権争い、領土紛争。別にエトセンに尽くす義理もないのだから何もしなくていい。
騒ぎが収まれば町を出る。戦乱の町を逃れる民間人だって少なくないだろうから、それに紛れてしまえばいい。
問題は、ただの民間人として逃げられるか。
ハルマニーの気性を考えればトラブルの可能性は低くない。
ミルガーハ家の人間だと知られれば、それもまた厄介なこと。
どうするかと悩んでいたところで、南西の菫獅子騎士団本陣辺りから凄まじい轟音が鳴り響いた。
巨大な城壁を越えて鳴り響く轟音。昨日、その城壁を撃った魔法があったが、それとは雰囲気が違う。
――姉様だ!
ハルマニーが飛び出した。
城壁の櫓を瞬く間に登り、下から見上げるイオエルにもう一度。
――姉様が戦ってる!
始末に負えない姉妹だ。
なぜ菫獅子騎士団と戦っているのか。他にすべきことはないのか。
イオエルは断った。
普段は否と言えないイオエルだが、今度ばかりは断固として拒絶した。
絶対に一緒に行かない。
ハルマニーはそれに頷き、ネードラハの本家に報せに行けと言ってくれた。
彼女からもらった命令の中で、これよりまともに聞こえるものはない。
混乱する戦場の中、必死で抜け出した。主命なのだからと自分を納得させて。
「……お嬢様」
エトセンを離れ、南西に向かう。
昼も夜も関係ない。とはいえ、足は鈍った。
守るべきハルマニーとリュドミラを戦場に残してきたのだ。ネードラハに着いたところで何と説明すればいいのか、文言を考えながら歩く。
休み、また歩く。
他にどうすればいいのかもわからない。少なくとも戦場の喧噪からは遠く離れ、イオエルの命を脅かしそうな気配はない。
「ニキアス様になんて……」
ニキアスにも、ゾーイやスピロにも説明をしなければ。
イオエルの力で何かできることではない。リュドミラならば、一人でも騎士団の一軍を撃滅できるかもしれない。ハルマニーもいるのだから、最悪不利になっても逃げ延びることは十分に可能なはず。
この異常事態を早く知らせることがイオエルの役目。
スピロはきっと理解してくれるだろう。この判断が合理的だと。
「……」
ニキアスもゾーイも怖いが、憂鬱なのは幼い末弟のユゼフだ。
リュドミラが溺愛している少年。ハルマニーだって幼い弟を可愛がり、彼もまた姉たちを慕っている。
イオエルが一人戻れば、姉たちのことを訊ねるだろう。
戦乱の中に置き去りにしてきたと、言い繕わなければそういうことになる。守役としては極めてバツが悪い。
町を離れた翌日の夕暮れ時。
西日が木々や丘陵の影を長く伸ばす。
赤く染まった大地に深く黒い影が揺れ、イオエルの気持ちも揺らぐ。
いっそこのまま逃げ出してしまおうか、と。
「ユゼフ様には申し訳ないですけど」
報告に行ったらゾーイに殴り殺されるかもしれない。ニキアスか。
理屈ではない。かっとなって粛清も十分にあり得る。
南に向かう先の影が揺れた。
不穏に。
「……すみません、ユゼフ様」
申し訳ないと思う相手がいるなら、あの幼い少年くらいのものだ。
他の面子には、イオエルを殺す可能性もある。だから報告をやめて逃げ出す。
しかしユゼフは、ただ姉を心配するだろう。それを思えば本当に申し訳ない。
「……?」
影が、揺れた。
大きく揺れた影に、疲れているのかと目を擦る。
まともな食事もとっていないし、そういえば水を飲んだのもだいぶ前だったか。
「ふくれ……て?」
目の錯覚、ではないような気がする。
今まで目指していた南の方角の影が大きくなっていた。夕陽の傾きのせい……でもなさそうな。
「な、に……」
目に見えて大きくなる影。
イオエルに向かい、どんどんと。
「あ……? あ、あぁぁっ!?」
一目散に逃げればよかったのか。
きっと遅かったのだろう。この影を目にした時には既に。
見る間に大きくなっていく影が、小山のような黒い塊だと理解した時にはもう遅かった。
黒い塊から無数に伸びた手足が、大地を掻き毟るように迫ってくる。
「あああぁぁっ!」
もう遅い。
けれど他に選べる道などない。振り返り、来た道を全速力で逃げ戻る。
「ば、化け物! なんだあの化け物ぉ!?」
まともな言葉にならない。唾を飛ばし悪態を吐きながら、そうでなければがくがく震える膝が言うことを聞いてくれない。
叫びながら逃げる。息が切れたらお終いだと本能でわかる。
地響きを上げる大地と、化け物から聞こえてくる枯れ果てたような嗤い声。
だけではない。嘆きと、呻き声と。
イオエルの耳に届く悍ましい音がどんどんと近づいてくるが、振り返れない。あれをもう一度見れば、それだけで心臓が止まってしまう。
闇雲に、夕陽の中を走る。走り続ける。
少しでも邪魔になればと木々の方に駆けたが、幹を薙ぎ倒す破壊音がさらにイオエルの心を削るだけだった。
急に、暗くなった。
突然に夜が訪れたように。
そうではなくて、小山のような化け物が、イオエルを照らしていた夕陽を遮っただけだったけれど。
「あ、は……」
ぐわしりと、足を掴まれた。
「あ、あぶぁ!」
そのまま引き摺られ、腹も掴まれて凄まじい力で引き寄せられる。
「い、いやだぁぁ! やめて! やめてくだざびぃぃ‼」
腹にめり込む指の感触と、足が砕ける激痛と。
涙と鼻汁と込み上げる血を吐きながら泣き叫んだ。
「や、た……」
掴み上げられ、夕陽に照らされた化け物の顔がようやく見えた。
黒い塊に数千の手足が生え、そうでない場所には人間の顔らしいものがたくさん埋め込まれている。
「ゆぜ……」
ふぁぁと、イオエルの体から力が抜けた。
なんだ、知っている顔だと。
塊の中心辺りに、埋め込まれていない浮き出た顔がいくつかあって。
そのひとつが、イオエルを殺すはずのない少年の顔だったから。
「ああ、ちょうどよか……」
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