第五幕 59話 言葉が溢れ、想いは奔流のように_2
『――――』
不意に、母さんがルゥナの方を向いた。
向いたと言っても顔があるわけではないが。
意識が、アヴィからルゥナに移る。
「は、い……」
何だろう。アヴィを差し置いて話しかけられるとは思わなかった。
限られた時間を。
『――――』
小さく頭を下げるように。
「あ……」
『――――』
ルゥナの横に、エシュメノが、ネネランが。
立ち上がり集まってきたメメトハも、セサーカも、ミアデ、ニーレ、トワまで。
『――――』
もう一度、少し深く頭を下げた。
「いえ……違います。私たちの方こそ……」
『――――』
感謝をしなければならないのはルゥナ達の方だ。
母さんのおかげでここまで戦ってこられた。
絶望し諦めかけていた清廊族の未来を、現実に手に入れられるところに来た。
「偉大な伝説の魔物よ」
メメトハが応じる。
呼ばれた母さんは、やや収まりが悪いようにもじもじと小さくなった。粘液なのに落ち着かないような仕種で。
「おぬしと、アヴィのおかげじゃ。全ての清廊族と長老に代わり礼と、姉神と等しい敬意を捧げる」
『――――』
謙遜なのか、居心地が悪いのか。
メメトハの気持ちはルゥナも同じだ。あるいはそれ以上に。
「ここにおらぬ者たち、失った同胞の魂にもおぬしの言葉を届けよう。そして、心より感謝を」
メメトハに倣って皆が頭を下げる。
母さんは溜息をつくように、静かに笑って頷いた。
『――――』
母さんの頼み。
言われるまでもない。
つい先刻、敵方の戦士に言った。頼まれることではないと。
けれどそういう意味ではない。
同族としてではなく、ただ母が、娘を頼むと。
「確かに、承ります」
『――――』
大事な、この黒い魔物が命よりも大事にする大切な宝物を、確かに受け取った。
「必ず……必ず、守ります」
この手で守る。
アヴィの心が、もう何物にも潰されてしまわないように。
『――――』
「母さん」
もう一度、頼む。幼少期から人間に囚われ、心の成長が不足しているアヴィだから。
それからふと、粘液の中の黒い色がくるんっと回るように。
『――――』
「母さんっ!」
焦るアヴィの声音。
思わず笑ってしまった。
「こ、子供じゃないんだから! お漏らしなんて――」
「ええ、知っています」
「ルゥナっ!?」
神妙になりかけた空気を払ってしまうような悪戯っぽい言動。
濁塑滔という魔物は、意外とひょうきんな一面があるのかもしれない。
母さんだけだろうか。
「そういうところも可愛いと思っていますから」
『――――』
「うぅ……ううぅ」
ルゥナと母さんの間を行き来するアヴィの瞳。
澄ました顔ではない。親の前ではただの娘。
きっと母さんは、アヴィに素直な顔をさせたかったのだろう。
自分が見たかったことと、皆に見せたかった。
普段見せる超然とした姉のような顔は、あれは強がり。
そうしていないと泣いてしまうから。
「もう……」
『――――』
「無理なんて……少ししか、してない」
していないと、嘘は吐かなかった。
いい加減アヴィにもわかっている。どれだけ自分を追い込んでいたのか。
そんなものはいらないと母さんが言う。
改めて、正面からアヴィを映した。
黒い粘液の表面に。
『――――』
「……」
『――――』
「……ん」
『――――』
アヴィは母さんを見つめ、母さんに映る自分の顔を見つめる。
黒い髪。赤い瞳。
そっと首を振った。
「ううん、大丈夫」
顔を横に向けてルゥナ達を見て、頷く。
「最後まで、やるわ」
『――――』
「……復讐じゃない。そうじゃないのはわかった。だけど」
母さんを見つめて、もう一度しっかりと頷いた。
「この子たちに……この子たちが安心して眠れるようにしたい。怯えて、隠れて生きるんじゃなくて、暖かなところで穏やかに寝られるように」
『――――』
それと、少し空を見上げた。
「人間は……火薬を使うようになった」
『――――』
「あれはいずれ世界を焼く。そうなる前に」
母さんも頷いた。
アヴィ自身の意志を聞いて、安心したように。
安心して眠れると言うように。
『――――』
「うん、頑張る」
復讐の道ではない。
もっと明るい、暖かなものを目指して進む。
そう母さんと約束する。
「でもね」
アヴィの唇が再び震え、涙が零れ落ちた。
「私は……私が、本当にほしかったのは、母さんと……母さんと、一緒に……」
『――――』
「一緒に……いたかった。一緒に生きて、一緒に寝て……ずっと……」
『――――』
「私の、一番の幸せな時間は、母さんと一緒にいた時だった。本当に……本当なの。あの洞窟で、母さんといた時が生きていて一番幸せな時間だった」
顔をくしゃくしゃにして涙するアヴィに、母さんの色も強く、目まぐるしく変化する。
嬉しい。悲しい。申し訳ない。幸せだと。
あらゆる感情が黒い魔物の色を濃く、薄く。
『――――』
「ん……」
『――――』
「うん、私も……私も、幸せだった。大好き」
寄り添い、抱きしめあい。
そうしている間に、黒い色が薄くなっていく。
存在が、薄く。
『――――』
「母さん?」
ふと、北東の空を見やるような仕種で呟いた母さんに、アヴィが首をかしげる。
何でもないと言うように体を震わせてから。
『――――』
「……ん」
アヴィは、きつく唇を結んで頷いた。
『――――』
これだけ。
これだけは、絶対に伝えたいと。
『――――』
命令。
強く、断固たる力を込めて。
アヴィに命じた。
『――――』
もう一度。
「……わたし、は」
『――――』
三度目は優しく。
限りない慈しみの色を込めて。
『――――』
「うん……うん、わかった。わかった」
母の想い。
たったひとつの命令。遺される使命。
「わかった……わかったよ、母さん」
『――――』
頑張れと、頭を撫でる。
粘液の触腕で。
涙を拭い、少しだけ自嘲気味に。
アヴィも泣き笑いで応じた。
「うん、知ってた」
『――――』
「触り方が時々……いやらしかったもの」
『――――っ!?』
先ほどのお漏らしの仕返しか、アヴィの言葉に黒い粘液がせわしなくぐにゃぐにゃと抗議する。
「冗談。そんなに慌てると本当みたい」
『――――』
呆れたように、安堵したように肩を竦める。
粘液の魔物なのに、仕種はずいぶんと世俗に慣れているようにも。
最期まで締まらない。
粘液状なのだから、そういう形でもいいのか。
アヴィの様子を見て、心配ないと感じてくれたのだろう。
『――――』
「私も、愛してる」
『――――』
「うん……うん、いつまでも……」
秋の高い空には、町を燃やす火の煙ばかり。
何も残らない。
いや、そうではない。
遺された。強く、優しい意志が。
深い愛情を込めた慈しみの声が。
「……ルゥナ」
足元に、奇跡が残った。
軌跡が残った。
小さな、小さな。
手の平ほどの小さな、黒い粘液の魔物が。
「その……子は」
「母さんじゃない」
優しく拾い上げて、胸に大切に抱き包む。
「でも……だけど、ルゥナ」
その顔は知っている。
清廊族の子供ならたいてい、誰もが一度はそんな顔をするのだから。
「大丈夫ですよ、アヴィ」
親の対応はそれぞれだけれど。
「大切に……大切にしましょう。きっと何でも食べるでしょうから」
「うん」
捨ててきなさい、なんて言えるわけがない。
母さんじゃない。危険な魔物かもしれないけれど。
きっと大丈夫だろう。楽観的に、希望的に考えた。
「ルゥナ、私……」
ルゥナを見て、そして仲間たちを見る。
赤い瞳で。
「私……いいんだって」
「……」
「幸せになっていいって……母さんが、私が幸せになっていいって」
「違いますよ、アヴィ」
彼女の間違いを正す。
母さんが言ったのはそうではない。そうじゃなくて。
「幸せになれ。そう言ったんです」
「……うん」
母さんの命令。
こんなに優しい命令は初めて耳にした。
「幸せになれ。それが母さんの幸せだって、そう言いました」
「うん」
「だからアヴィ。貴女は」
母さんの強い指示。優しい願い。
紛れもないそれを耳にしたのだから、
「幸せにならなければいけません。幸せに、なりましょう」
「……うん、そうね」
また溢れる涙を、手の甲で拭い。
改めて仲間を見る。
「……みんな、私を助けてくれる?」
答える必要があるだろうか。
しかし、アヴィはわからないのだ。
言葉にして、はっきりと伝えてもらわないとわからない。
だから母さんは、粘液の魔物なのに、奇跡を起こしてたくさんの言葉を伝えてくれた。
「――――」
くしゃくしゃなアヴィの笑顔。
嬉しそうな泣き顔。
その幸せな顔を守りたい。ずっと。
ルゥナの本当の願いが、黒い魔物の本当の想いが。
やっと、アヴィの心に届けられた。
~ 第五幕 交わす言葉。響く声 完 ~
//////あとがき////////////
大変長くなりましたが、アヴィとゲイルの物語の結びになります。
ここまで読んでいただいた方に深く感謝を申し上げます。
ここから先は、残っている他の関係の清算になりますが、足早な展開になってしまっています。すみません。
なかなか評価数、フォローが伸びず気持ちが落ち込んでいたのも一因でした。
もしこの物語を気に入って下さった方にお願いできたら、感想やご評価をいただけると嬉しいです。特にレビューは、カクヨムトップページに載る機会が増えてより多くの方に読んでいただくきっかけになるのでありがたいです。
我が侭を言ってすみません。
物語の最後までお付き合いいただければ幸いです。
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