第五幕 58話 言葉が溢れ、想いは奔流のように



 奇跡なんて言葉は嫌いだ。


 都合の良い奇跡など世界にない。あるのは現実と、結果だけ。

 珍しいことが起きることはあるけれど、それを安易に奇跡だなんて呼ばない。


 ルゥナがそう思うようになったのは、幼い頃からずっと続いた恵まれぬ日々があったからだと思う。



 奇跡なんてない。

 ある日突然人間どもの攻撃が止んで、清廊族が心穏やかに暮らせる日がくるなんてこと。


 奇跡なんてない。

 戦いで死んだ父や、村の友が生き返ることなんて。



 だけど。

 今日だけは、信じる。


 姉神は奇跡をくれた。

 どうしようもない絶望の中で、救いの手を差し伸べてくれた。


 ここまで皆で頑張ってきたから、ということもある。

 そうでなければ、この奇跡は得られなかった。見られなかった。



 涙する。

 涙を流して感謝する。


 姉神と。

 アヴィを包む、黒い、母さんに。




「あ……え……?」


 卑劣な男の目がぎゅるりと回り、だらりと舌が伸びる。

 耳から脳髄を掻きまわす黒い粘液が、最悪の敵を殺した。



「か、あ……」

『――――』


 アヴィを飲み込んだ黒い粘液。それが彼女を抱き起すように立ち上がる。

 それから。



 ――ぴゅうっ!



 どこにそんな力があるのか、共に粘液に飲まれていた男の体を、町の北に向けて吐きだした。

 放物線を描き、燃え盛る町の北区画に飛んで行った男。


 既に死んでいたが、ここに残しておくのも不快極まりない。

 ルゥナにとっても、アヴィにとっても。その魔物にとっても同じく。




「母さん……母さん、母さん!」

『――――』



 優しく応じる。

 泣きじゃくるアヴィに、母さんは優しく答えた。


 アヴィの耳飾りから零れたわずかなそれが、爆発的に膨らんで。

 愛しい娘の危機を救った。


 ルゥナ達を絶望の淵から救ってくれた。



「母さん、私……わたし、が……」

『――――』



 濁塑滔だくそとう

 姉神の残した血溜まり。その最も深いところから生まれるという伝説の魔物。

 万物を呑み込み、その身の内に溜め込むという。


「私のせいで母さんが……私が……」

『――――』

「だって……私が、バカだから」

『――――っ』


 母さんは強い語調で、アヴィの名を呼んだ。

 粘液の表面が震え、アヴィもびくっと震える。



『――――』

「……わかってる。母さんがそう言うって、わかってたけど、でも」


『――――』


 今度は優し気に、静かに呼んだ。


『――――』

「……ごめんなさい」

『――――』

「馬鹿な娘で、ごめんなさい……」

『――――』


 母さんが笑う。

 優しい。どこまでも深く優しい。


 傷つき、ぼろぼろだったアヴィを、黒い粘液で包み込んで。

 子供をあやす。甘やかす。

 ぼろぼろと涙をこぼしながらアヴィも笑った。



「ルゥナが……みんなが、助けてくれたの」

『――――』

「うん……」

『――――』

「私は……違う、頑張ってなんていない。不貞腐れて、勝手なことばっかり」


 アヴィと母さんの会話のうちに、ルゥナの体の痛みも次第に治まってきた。

 そうではないか。


 見れば、黒い粘液が薄く周辺に伸びている。

 母さんが、傷ついたルゥナを癒してくれていた。

 ルゥナだけではない。エシュメノ達や、先に倒れていたメメトハやセサーカ達も。



「私がもっと上手にやってたら……私が、もっと頭が良ければ、もっと……」

『――――』


 黒い触腕が伸びて、アヴィの頭を撫でる。

 優しく。


『――――』

「……いっぱい、失敗したの」

『――――』

「そんなこと……」


 言いかけて、自分の左右の腕に巻き付いた黒布を見る。

 破れてしまっているけれど、左右に残っている黒布。


「うん、そうだったね。母さんも……」

『――――』

「母さんと一緒? そう、かしら」


 首をかしげて、それからにへぇっと笑う。

 邪気の欠片もない笑顔で。



「ん……そうかも。そうなら、仕方ないね」

『――――』


 失敗を重ねる似た者の母娘だと。

 笑い合う。



「……ありがとう、母さん。ずっと言いたかった」

『――――』

「うん」


 抱きしめる。

 不定形の粘液に手を伸ばして、強く、優しく。


「大好き……大好きよ、母さん」

『――――』


「私を助けてくれた。あの洞窟で……今日も、助けてくれた」

『――――』

「ううん、遅くなんてない」


 黒色が薄まるのに対してアヴィは首を振る。


「私が一番必要な時に、ちゃんと来てくれた。だから」


 アヴィの答えを聞いて、黒い色がまた濃さを取り戻す。

 わかりやすい。

 こんなに感情が豊かな魔物だとは思いもしなかった。



「……どうして、今?」


 アヴィが訊ねる。

 今だから必要だった。けれど、なぜ今になって?


 涙が触れたからというのなら、アヴィは黒い石を握り締めて何度も泣いていた。

 今が初めてというわけではない。



『――――』


 冗談っぽく、あるいは自慢げに体を少し膨らませてから。

 少し色を薄めて、周囲を……遠くを見るように体をよじる。


『――――』

「そう……うん、別にいいの。ただ母さんがいてくれれば」


 アヴィが頬を寄せ、黒い粘液はその頬を撫でながら少し薄い色に変わる。


『――――』

「ううん」

『――――』

「……」

『――――』


 謝る。何度も、何度も。

 共にいられないと。共に生きられないと。


「母さんが……全部くれたの。私に……」

『――――』



 もう一度、母さんがアヴィに囁いた。


『――――』

「……」


『――――』


 今までのアヴィの道を、考え方を。

 根本から否定するような、優しい言葉。



『――――』

「うん」


 涙を浮かべて、唇を震わせて頷くアヴィ。


「本当は……本当は、わかってた。わかってた」


 大粒の涙が零れ落ちる。

 今まで自らを騙し、律してきたことを否定されて。



「母さんがこんなこと……復讐の為に、私に力をくれたんじゃないって……わかっていたはずなの。だけど」


 ふるふると頭を振って、口を山形に曲げながら訴える。



「戦っていないと我慢できなかった。怖くて、悔しくて。人間が悪いんだって思い続けないと、私は」

『――――』

「私のせいだって……潰れちゃいそうだった。私、潰れちゃう」


 潰さないように、母さんがアヴィの頭を抱き包む。

 こっそりと、その首の傷を跡形もなく癒しながら。

 アヴィの中に残る悪いものを全部消し去ろうと。



「怖くて……怖いから、ずっと戦ってた。私は……」

『――――』


 自分を責め苛むアヴィと、そうではないと言い聞かせる母。

 どこにでもあるだろう親子の会話。



  ※   ※   ※ 

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