第五幕 51話 空を越え響く声



 深緑の魔石。


 深い想いを込められた魔石に、清廊族の大長老パニケヤは何もしない方がいいだろうと言った。


 ただそれだけでエシュメノを守る。

 伝説の魔物の強い想いを残した魔石。

 静かに娘を見守っていたそれが光を放った。



 ――木霊こだませよ。


 山を越えて。


 ――木霊せよ。


 雲を越えて。


 ――木霊せよ。


 海を、空を、清廊で繋がれたカナンラダとロッザロンドを巡る世界。

 その境界すら飛び越えて。



 時間でさえこの絆を遮ることはない。

 遥か彼方から。想いが届いた。


 響く。

 響き合う。


 ひとつ、ふたつ、みっつ……十を数え、さらにその声が響き合い、無限に木霊する。



「木霊せよ。裂迅の響声」



 木霊した。


 無際限の彼方から、縹渺ひょうびょうたる空を越えて、ソーシャの声が響き、響いて。

 弾け飛んだ。




「うおぉぉっ‼」


 最強の人間の守り手と、ニアミカルムの愛し子を巻き込み、空間が破裂した。

 既に地割れで崩れかけていた建物が、その内側を搔き乱す烈しい衝撃でさらに崩れる。



 エシュメノは動けない。

 ただ最期に、懐かしいソーシャの声を耳にした気がする。


 皆を守る為に戦った。

 勝てなかったけれど、負けなかった。

 ソーシャが勝てなかった相手なのだから。でも負けなかったから。



 激震の中、崩れてくる瓦礫を避けることも出来ない。

 けれどいい。エシュメノの役目は果たせて、ソーシャの心残りはこれで――



 ――エシュメノ。


 ソーシャの声が聞こえた。もう一度。


 ――私の為に……生きて……


 最期の言葉の通りに、ソーシャの為に。


 ――私の為に……お前は、幸せに……生きてくれ。



「ああ……」


 そうかぁ。

 うん、エシュメノはわかってた。


 賢いから。

 エシュメノは、きっとそういうことだって、わかってた。


 だけど、ごめん。

 エシュメノは弱くて、弱くて。

 もうこれ以上、皆が傷つくのが見ていられなくて。


 エシュメノが戦って、エシュメノがこの危ないやつをやっつければいいって。

 ソーシャの言うこと、ちゃんと聞かなかった。


 だからこれは、エシュメノの……




「エシュメノ様」


 温かい。

 温かいものがエシュメノの頬を伝っていく。


「エシュメノ様、御無事で……」

「……ねね、ら……」


 優しい笑顔。

 ソーシャとは全然似てないのに、なのにソーシャみたいな顔。


「はい」


 すぐ目の前に。

 空の彼方、ニアミカルムの峰を眺めていたはずのエシュメノの目の前にその顔がある。



「ネネランは、いつもエシュメノ様のお傍に」

「あ……」



 温かなものが、流れ落ちてきた。

 真っ赤な。

 真っ赤な。



「あ、あぁ……ああぁぁっ!」


 いつかと同じように、エシュメノを庇って。

 荒れ狂う空間の木霊の中、エシュメノを討つはずだった敵の武器を受けたのはネネランで。


 エシュメノに覆いかぶさるネネランの背中から、たくさんの血が溢れていた。



「ねね、ネネラン! なんで……なんでぇ!」


 起き上がろうとして、体が痛くてうまく動けない。

 いよいよ崩れてきた瓦礫がネネランを押し潰そうと。



「うああぁぁっっ!」


 叫び声が風を呼んだ。

 とても高い天井を支えていた壁。それが崩れてくるのを吹き飛ばす。


「ネネラン! ネネランっ‼」

「はい……ネネランは、いつも……」


 ネネランの下から這い出した。

 背中から赤黒い血がたくさん。たくさんで、どうすればいいのかわからない。



「なんでここに……だって、エシュメノが……手、治らないように……」


 しておいたのに。

 いつかこうなる気がして。

 ネネランはエシュメノの為に命を失う気がしたから、戦えないように願った。


 だから手が治らなかった。戦いに出ないように。

 エシュメノの願いを何かが聞き届けてくれたに決まっている。



「手は……わたしがしっぱいした、だけ……ですから」

「違う! エシュメノが悪いから……エシュメノが弱いから!」


 だから仲間が傷つく。

 ソーシャみたいに死んでしまう。

 だからエシュメノは……



「エシュメノ、さま……」


 ネネランの手が彷徨う。

 震える手でそれを掴んだ。


「ネネランは……ずっと、お傍に……」

「わか……わかったから……しんじゃやだ……しぬの、だめだネネラン……ネネラン……っ!」


 だってエシュメノは、ネネランに生きてほしくて。

 優しいネネランに、ずっと生きていてほしかったから。だから。




「たすけ……たすけて……」


 願う。


「ソーシャ……たすけ、て……ソーシャぁ!」


 祈るなんてものじゃない。駄々をこねる。

 胸の深緑の魔石を握り、子供のように。


「お願い……ネネランが生きててくれるなら、なんでもする。ちゃんといい子にするから、だから……助けて、ソーシャぁ!」



 エシュメノがこんな風に言えば、いつもソーシャは困りながらもなんとかしてくれたのだ。

 でも、そのソーシャはもういなくて。だけどエシュメノは他にどうすればいいのか。

 誰を頼ればいいのか。



「お願いネネラン。エシュメノの――」


 ああ、そうか。

 ソーシャの気持ちが本当の意味でわかった。痛いほど。



「エシュメノの為に、生きて! ネネラン‼」


 大切な誰かに幸せに生きていてほしい。

 その為に尽くせるものがあるのなら、なんでも。


「なんでもするから! エシュメノ、何でもするから! だからネネラン、ずっと……ずっとエシュメノと一緒に……一緒に、いて……」


 願いと共に、手を握る。

 ぎゅうっと。どこにもいかないでと訴えるように。

 ソーシャの体は塵になって山に飛んでいってしまったけれど。ネネランは――




「はい、エシュメノ様」



 ぎゅうっと、握り返された。

 思いの外強く。


「ネネランはずっと、エシュメノ様と一緒ですよ」

「……ね、ね……?」

「い、たた……ほんと、ソーシャ様の声に感謝です」


 ひょこりと起き上がり、自分の背中の傷に首を曲げ、見えないようで顔を顰めながら笑う。

 元気そうに。



「……え?」

「さっき口移しで治癒薬飲ませたわけですが、いくらか私も飲んじゃってたんです。エシュメノ様は意識がはっきりされていませんでしたけど」

「え?」


 口の中が苦い。

 そういえば血の味ではない。別の味。



「ソーシャ様の魔法が、あの白い武器を弾いてくれましたから。ちょっとぶつかっただけで……いくつか石の破片が背中に刺さりましたけど」

「……ネネラン?」

「あんまりエシュメノ様がいい匂いで、ぎゅうってしていたら私の意識も朦朧と……鼻血が出てましたか」


 頬についていた血を手の甲で拭った。

 鼻水と鼻血。だった。




「いつでもエシュメノ様をお守りできるように、この給仕服も丈夫に仕立てていましたので」

「……」


 佇まいを正して笑う。

 けれど顔色はよくない。

 エシュメノを心配させまいと。無理をして。



「治癒薬をひとつ隠し持っていたのは、ルゥナ様には内緒にしておいてくださいね」

「ネネラン……ばか」

「ええ、そうですよ」


 悪びれた様子もなく微笑んで頷いた。


「ネネランは、エシュメノ様にはすっかりお馬鹿なのでございます」


 ――きっとソーシャ様も、と。




 優しい笑顔。

 優しい声。


 それは、もうエシュメノが見聞きすることは出来ないと思っていた、ソーシャと同じ温もり。

 深くて、広くて、どこまでも限りのない愛情。

 ここにあった。エシュメノのほしいものが。



「ソーシャ様のお声がなければ、死んでいました」

「……うん」


 エシュメノもネネランも、ソーシャに助けられた。

 いつもソーシャはエシュメノを守ってくれる。助けてくれる。

 大事なことを教えてくれる。



「エシュメノ様」


 改めて手を取り直し、ネネランがエシュメノを見つめた。

 前髪に隠れがちな瞳だけれど、背の低いエシュメノが見上げれば優しいその目が覗いて見える。


「ネネランはいつまでも、エシュメノ様と一緒です。約束です」

「……うん」

「それとですね」



 ネネランの手が、エシュメノの胸元に伸びた。

 深緑の魔石。

 魔法を放った光はもうなくなってしまったけれど。


「ソーシャ様も、ずっと一緒ですから」

「……うん。ん……」


 ネネランの手と一緒に、深緑の魔石を握り締めた。

 声は、もう聞こえない。

 だけど確かに届いたその声の温かさは、ずっと心の奥に残っている。いつまでも木霊する。



「ありがとう……ありがとう、ソーシャ」


 ソーシャはエシュメノのお母さんで。

 ネネランは、たぶんエシュメノのお姉ちゃん。

 お姉ちゃんとエシュメノを守ってくれたソーシャに。


「ありがとぉ……ソーシャ、大好き……ずぅっと大好き……」



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