第五幕 02話 寄る辺なき蝶
蝶のようだと思った。
綺麗で、見惚れた。
こんなに綺麗なものと薄汚れた自分が並ぶことなどないだろう。
憧れは暗く濁り、ささくれだった気持ちは棘に取って代わって彼女と自分を引っ掻く。
※ ※ ※
マルセナと初めて会ったのは、西部サキルクの港町だった。
それまで一緒だった魔法使いが抜けて、どうしようかと。
魔物退治などの仕事は少なくない。シフィークの力は図抜けていているが、魔法を得意とする仲間はやはり有用だ。
力押しだけでは難しい場合もある。
冒険者と呼ばれる括りでも、ただ魔物駆除や荒事をするだけの者と、未知の魔境を探索し新しい発見を求める者もいる。
シフィークは後者だった。そればかりではないけれど。
今すぐでなくとも魔境探索をするのなら、信頼できる魔法使いはいた方がいい。
簡単な魔法ならイリアやラザムも使えるが、本格的なものとなれば別だ。
偶々だったのかもしれない。
イリアの視界の端に、冒険者酒場には珍しい小柄な少女が留まった。
小柄な少女。
誰かの連れでないのなら、荒々しい冒険者連中のことだ。強引に連れ込まれ犯されることだろう。
年若い冒険者は、大抵が先達のどこかに身を寄せる。
労働力と肉体を提供して。
小柄な割にどこか擦れた雰囲気の背中に、年齢に見合わぬ経験を感じた。
誰かの紐付き。
誘っても面倒なことになる。
それに、イリアより年若い娘となれば嫉妬を向けないでもない。
魔法使いのように見えるが、今のイリアには関係ない。
そう思ったのに、なぜだか視線は何度もその背中を追ってしまった。
結局、少女マルセナは特に決まった仲間がいない状態で、勇者シフィークと聞いて仲間になることを申し出る。
魔境探索をしたいのだと。
他の冒険者連中がマルセナにちょっかいをかけなかったのは、それより前に手出しした連中が痛い目に遭ったという話だった。
天才魔法使い。
口先だけかと見ていたが、実際にマルセナの力はそこらの魔法使いとはまるで違った。
それだけでなくシフィークに取り入るあざとさも、生き方を心得ている。
不愉快に感じて冷たく接した。
苛立つことが多かった。
マルセナの言動にも、踊らされるシフィークにも。特に文句を言わないラザムに対しても苛立った。
女としての敗北感から。
当時はそう思った。思い込んで、他の可能性など考えない。
まさか女である自分が、少女であるマルセナに惹かれ、彼女がつまらない男に身を任せることに苛立っていたなど。
女同士。そんな感情があるはずがない。そう決めつけて。
考えもしなかった。
浅はかで、視野の狭い自分の間違い。
苛立ちをマルセナにぶつけてしまった当時を、今は深く後悔している。
マルセナは不思議な少女だった。
年若く物を知らないようで、時にはやけにくたびれた雰囲気や熟達の技などを垣間見せる。
シフィークに対して愚かな女を演じているのは、少しだけわかっていた。若くとも女なのだから演技くらいするだろう。
魔法の腕は、ほどほどに隠していた。
特に優れた魔法使いという程度。異常な力量を有していることを巧妙に誤魔化して。
もっと早く、イリアが気が付いていたら。
自分の本当の気持ちに。マルセナの本質に。
気が付いていたら、状況は違っていたのかもしれない。
シフィークと別れ、マルセナと二人でただ愛を貪る生き方を出来たかもしれない。
夜が明けるまでマルセナの肌を味わい、イリアが求めるようにマルセナが意地悪な責めをしてくれたり。
そんな当たり前の幸せがあったのかも。
魔境、黒涎山に行って変わってしまった。
マルセナは変貌し、どこか狂ってしまった。
シフィークもまた勇者と呼ばれた人柄とは全く異なり、狂気に囚われている。
元から我が侭な性格ではあったが、それなりに人からの評判は悪くない体裁の優良な冒険者ではあったのに。
シフィークのことなどどうでもいい。マルセナのことだ。
出会った頃から少しズレている雰囲気はあったが、黒涎山以降のマルセナは大きく変わった。
変わったというか、本性を取り繕わなくなったという方が正しい。
我が侭で気まぐれ。
好むものを欲して、不要なものを厭う。
エトセン騎士団に対する敵意。どうも人間社会全般に対して嫌悪は抱いているようだが。
好むものもある。
女を好むのは、意に沿わない男に身を委ねてきた反動かもしれない。
男との接触をイリアが嫌がるから……他の女にも身を許すのも嫌なのだけれど。
魔物は嫌いではないらしい。
呪枷なしでもマルセナの前では多くの魔物が従順になる。
ディニとダロスの力かとも思ったが、それだけではなく魔物が従うのはマルセナの存在感があってのことだ。
今のイリアにはわかる。
マルセナは女神だ。女神を前に誰が無為に抗いたいと思うのか。
心を晒して、ただ彼女の心に沿うようにありたい。
魔物も同じ気持ちになるのだろう。
素直に従えないのは人間ばかり。
女神を前にして、己の矮小さや罪過が暴かれるのを怖れて反発する。
疚しい気持ちがそうさせる。
エトセン騎士団の連中もきっとそうなのだ。
マルセナに従うのが正しいと感じてしまい、その心を怖れて攻撃してきた。
愚か者の集まり。背教者。裏切り者。
過去のマルセナに何があったのか、それは知らない。
知りたいけれど、マルセナのことなら全て知りたいけれど、話したくないのならイリアは聞かない。
ただ傍にいられればそれで。
「マルセナ……どこに」
エトセンに向かったことは間違いないはずだが。
残念ながら容易く近づける状況ではなかった。
エトセン騎士団とトゴールトと戦った後なのだから、警戒されているのは想定内。
翔翼馬のディニのことももちろん伝わっているだろう。街道沿いなど進まず、北回りの山間を通ってきた。
エトセンに近付きディニから降りて、町に向かおうとしたのだが。
「こんな軍勢」
遠目にもわかるほどの大軍。
エトセンだけの戦力ではない。近隣地域から全軍でも集結させたのか、エトセン周囲に大軍勢が野営をしている。
「まさか、マルセナを……」
先の戦いでエトセン騎士団も痛手を被ったはず。
再度トゴールトを攻めてマルセナを討とうとしているのだとすれば、あの町を捨てたマルセナの判断は正しかったかもしれない。
ここで騒ぎを起こしたくはない。
マルセナの居場所がわからない状況では。
そうでなくとも、こんな大軍と事を構えるなど無理な話だ。
本気でエトセン騎士団はマルセナを殺そうとしているのか。
大軍を運用するには莫大な費用も必要。近隣から兵を搔き集めてまで。
搔き集めているのならば。
「……」
イリアは冒険者をしていた。冒険者は傭兵をすることもある。
その辺の習わしなら、知らない分野のことではなかった。
※ ※ ※
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