第五幕 交わす言葉。響く声(全59話)

第五幕 01話 女神の残光



 光を切り裂いて現れる。


 比喩ではなく、本当に文字通り。

 女神の伝承にすら聞いたことのない登場方法。

 天空に立ち上った光の柱を裂いて、地上に落ちる。


「はあっ、あぁ……」


 かなりの高度からの落下だったが、両手両足で濡れた大地に降りた。恰好は良くない。

 びっしょりと濡れているのは雨風もあるけれど。

 それとは別に大量の汗が噴き出した。


 拭おうにも、手が上がらない。

 身動きをするのも適わないほどの倦怠感。

 ただ荒く呼吸をして、手は大地に着いたまま。



「……ふ、はぁ……っ、ふぅ……」


 生きている。

 まさかそんな疑問を抱く日が来るとは思わなかった。


 死ぬかと思った。

 死んだと思った。



「この、わたくしが……こんな」


 少しずつ息が収まってきても立ち上がる気にならない。

 弱まった雨風に打たれるまま、這いつくばり土を握り締める。


「こんな、惨めな……思いを……」


 爪の中に泥が入り込む。

 美しいリュドミラの指に、いくらか火傷の痕も。



「……天雷の魔法、なんて」


 聞いたことがない。

 雷光に似た魔法ならリュドミラも使う。

 しかしそれは炎の魔法の種類だ。強い炎熱の塊が白く光り雷に似るだけ。


 今、リュドミラを襲ったものは違う。

 足元から絶大な力で飲み込まれた。

 咄嗟に防御姿勢を取り、片手に残っていたラーナタレアの右鎖骨を叩きつけた。

 全身を襲う痙攣の中、何の魔法を唱えたのか覚えていない。ただ必死で。


 大きく弾き飛ばされた。

 天雷の光からはじき出され、今いる場所もよくわからない。

 這いつくばり、どれほどの時間が過ぎたのかも。



「……雷、とは」


 もう一度噛み締める。

 影陋族ごときが、神のごとき力を使ってリュドミラに苦渋を舐めさせた。


 許せない。許さない。

 両親の仇でもある。


 正直、父の死は少し納得する部分もあった。

 父スピロはリュドミラの目には弱く映り、こうした戦場で予期せぬ死を迎えることもあるだろうと。


 嬉しかった、とさえ言ってもいい。


 リュドミラを庇って死んだ。

 愛情を感じた。

 弟妹や母ではなく、リュドミラを庇って死ぬなんて。

 自分は父に愛されていたのだと、喜びを覚える。



 母のことは違う。

 ゾーイは強かった。影陋族などに殺されることなどないと確信していた。

 死んだのは、言い訳もできない。リュドミラのせいで。


 遊ぶ余裕などないと言っていた。あれはリュドミラのことよりも、ゾーイやスピロの安全を考えれば当然のこと。



 だって、でも。

 子にとって親は大きな存在で、リュドミラでさえその関係は変わらない。

 侮蔑の対象である影陋族に遅れを取るなんて想像もしなかった。


 想像力が欠けていた。

 両親もただの人間であり、子の為やそうでなくとも死ぬこともある。

 リュドミラが守らなければならなかった。そうするだけの力があって、だけど自分のことしか見ていなかったから。



「わたくしが……」


 自分の愚かさが両親を殺した。

 悔いる。

 悔んでも今さらどうにもならないけれど、悔まずにいられるわけもない。


 リュドミラは天才だった。

 挫折を知らず、羞恥を知らず。

 こんな屈辱を感じたことは過去になく、自分の責任だと理解できないほど愚かでもなかった。


 どうすればいい。

 リュドミラはどんな顔で弟ユゼフに会えばいいのか。

 両親を死なせ、その仇も討てず。



 立ち上がり、ふらふらと彷徨う。

 敵の気配はない。

 だが人の気配はある。まとまった人の気配ということはネードラハの軍か。


「お爺様……」


 そうだ、祖父がいる。当主ニキアス・ミルガーハは軍と共に行動していたはず。

 今となっては頼れるのは祖父だけ。

 年若いリュドミラには判断できないことでも、祖父ならば。



「何者だ!」

「影陋族……ではなさそうだが、女か? こりゃあ……」


 空が白み始めていて、道でもない方角から近付いたリュドミラに数名の兵士が気が付いた。


 ぼろぼろの服に、泥にまみれた体。

 それでもリュドミラは美しい。



「こいつはすげえ……おい」

「やめておけ」


 舌なめずりした兵士に、上官らしい男が肩を叩いて止めた。


「ミルガーハの娘だ」

「あ……ああ、そりゃあ」


 破れた衣服から覗くリュドミラの腹に視線を向けたまま、兵士の動きが止まった。


「……」


 そのまま近付いてきたら叩き殺そうかと思ったが。

 こんな状態でもたかが兵士に好きにされるほど弱ってはいない。



「でなきゃこんな上玉、戦場にいねえか」

「黙っていろ。ミルガーハ家のリュドミラ嬢で間違いないな?」

「……」


 無言で視線だけ動かした。

 喋る気にならない。そもそもこんな下っ端がリュドミラと会話するなど許したくもない。


「……報告しなければならないことがある。スピロ殿かゾーイ殿はどちらだ?」

「っ……」


 歯軋りを返した。


 どちらにいるのか、知りたいのはリュドミラの方だ。

 神経を逆撫でされた。

 かろうじて理性が、この兵士はただ職務に従い訊ねているだけだと留めるが。



「……まさか」

「班長、この様子じゃあ……」


 ぼろぼろの状態のリュドミラと、姿のないスピロとゾーイ。

 そしてリュドミラの反応。


 理解するには十分だろう。

 そうでなくとも兵士どもはこの夜の間にどれだけの死体を目にしてきたのか。

 死者の名簿に名前が二つ加わることもまるで不思議はない。


「……ならば、ミルガーハ家代表の代理としてあなたに伝えよう」


 英雄級の戦士の名が並ぶなど普通ではないとしても。

 兵士は、そういう異常事態があり得ると知っていた。既に。



「あなたの祖父、ミルガーハ家当主ニキアス・ミルガーハ殿は……昨晩の戦闘で、戦死された」

「……は?」


 何を言っているのか。

 この兵士は。



 軍は残っている。

 この様子なら影陋族どもを撃退したのだ。


 祖父も共に戦った。戦況を決定づける力を持つモズ・モッドザクスもいた。

 そもそも兵数も数倍の差があり、地の利もこちらに有利。勝利は当然のこと。


 そこでなぜ祖父ニキアスが死ぬのか。

 嘘か。

 嘘だ。そんなことは嘘に決まっている。



「……嘘、ですわ」

「残念ながら……」


 首を振り、言い訳のように付け足すのは。


「飛竜騎士モズ・モッドザクスも討たれた。この先で彼と飛竜が見つかっている」


 軍も痛手を被ったと、そんな言い訳。

 影陋族に倒す手段などないはずの最強の飛竜騎士まで死んだと。

 それでは、祖父も本当に。


「おじい、さま……」


 手が震える。

 腹が震える。がたがたと。


 父を失い、母を失い。

 それでも祖父がいればリュドミラを慰めてくれるだろうと。

 どうすればいいか教えてくれて、この先もどうにかなるはずだったのに。



 誰もいない。

 リュドミラが頼れる人が、誰もいない。

 大口を叩いておいて、何もかもを失った。自分だけ生き延びて。


「あ、ああ……」

「リュドミラ殿」


 兵士とすれば、それは下心などではなくただの労わりだったのかもしれない。

 肉親を失い絶望する少女に、何かしらの言葉をかけようと。


 一歩、近付いた。

 それが彼らの不幸。



 雨は止んでいた。

 空には、まだ太陽は出ていないがうっすらと明りが広がり始めていて。


 血の雨が降った。

 近くにいた数名の兵士が、血飛沫をリュドミラに浴びせた。

 涙するリュドミラを赤く染める。




 既に戦いは終わり、部隊の多くは追撃に向かっていて近くにはいなかった。

 血塗れのリュドミラが空を見上げる。

 明るくなりかけた空。最後に残っていた星が日に追われてその姿を薄く滲ませ、消えていった。


「ハルマニー」


 たった一つ。

 今のリュドミラが縋れるもの。

 リュドミラを支え、共に戦える妹。


「ハルマニー、ああ」


 血の海の中から立ち上がる。



「お父様とお母様と、お爺様の仇を……」


 一人ではできないことくらいはわかる。

 今さら軍になど頼れない。そんな選択肢はリュドミラの中にない。


 ミルガーハ家の娘として。

 家族の問題だ。

 リュドミラの責任であり、その責務を果たす資格を有する血肉を分けた妹。


 弟は幼過ぎる。

 弟ユゼフの手を、汚い血で染めるなど考えられない。

 あの子は綺麗なままで。


 仇を討つ。

 討ち果たして、ようやくユゼフに顔向けが出来る。

 今のリュドミラが、合わせる顔などない。



 ゆらりと、揺れた。

 北東に。

 ルラバタール王国エトセン。

 朝日の昇ろうとする方角へ。


「必ず、あの奴隷どもを」


 握り締める。

 片手に残った女神の鎖骨ラーナタレアを。


 片方だけ。

 まるでリュドミラのよう。

 もう片方は見つからない。なぜか探そうという気にもならなかったのは、既に近くにないからか。


 空いた手は、別のもので埋めよう。

 リュドミラの片割れ、ハルマニーなら。


「……必ず、一匹残らず皆殺しに」



 肉親の亡骸も、何もかもを置き去りに朝日の中に消えていったリュドミラは知らない。

 戦死した人々の亡骸から、魔石に似た白い石が次々と見つかり、何事かと騒ぎになっていたことを。


 ただ、復讐の為だけに、血塗れの体でエトセンを目指して消えていった。



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