第四幕 084話 炎と氷の乙女
ティアッテは強い。
自分が強いことは知っている。清廊族でティアッテよりも強い戦士はずっといなかった。
ティアッテがまだずっと若い頃、サジュを守る氷乙女は他にいた。
メディザと言う。
クジャの長老の家系。双子の兄ヤヤニルも西部清廊族を守ろうと戦い、死んだのだと。
兄に代わり戦っていた彼女の背中を、ティアッテは覚えている。
メディザはクジャに娘を残してきたと。
彼女が死んだ後、遺髪をクジャに届けた時に一度だけ会った。
メメトハはまだとても幼く、ティアッテのことなどほとんど覚えていないだろうが。
氷乙女は、一般的な清廊族と外見的特徴が異なる。
メディザは金髪だった。先に死んだ兄ヤヤニルは、もっと白に近い髪だったというが、彼は男なので氷乙女ではなかったはず。
メメトハの方がティアッテを覚えていなくても、逆はすぐにわかる。
母に似た金髪の少女。
娘を産んだら胸が大きくなったが、サジュに来て間もなく萎んでしまったと言っていた。平らな胸も似ている。
メディザの死後、ティアッテは戦斧を手に最前線に出るようになった。
戦士としてはまだ若すぎたけれど、ティアッテ以上の戦士は他にいなかったのだから。
戦い、戦い、戦って。
そんな日々が当たり前になっていた頃にオルガーラが来た。
頭が悪くて危なっかしいが、力は十分にある。
並んで戦える仲間を得て嬉しかった。
孤独ではないと。そう感じて、それまで孤独だったと自覚した。
そんなオルガーラとの時間もそれなりに長く続き、西部に対する人間からの襲撃も年に二回程度というところで落ち着いていて。
油断していたつもりはない。
年に数回でも、西部の小さな集落は大きな被害を受けたり滅ぼされたこともあった。
それでも、こんな毎日が続くのだという思い込みはあったのかもしれない。
過去にない襲撃に対応しきれず、敗れた。
初めて負けた。
怖かった。
足を失い、自由を奪われ。
怨敵の下卑た欲望に晒され、戦士の矜持を失うまいと強がってみても。
時間の問題。
敵も、そう思っていただろう。
強がり、怨嗟の言葉を嘔吐と共に吐きだしても。
いずれ泣き喚く。
誇りを失い、ただの娘のように嘆き悲しむ。
ティアッテが折れる時を楽しみに待つ人間。永遠には抗えないと諦めかけていた。
助けられた。
絶望から救われた。
死を願い、それすら叶わぬ汚泥の底から掬い上げてくれた。ミアデが。
最初はわけがわからなかった。
夢なのかと。
状況が理解できなくて、自分の心情もひどく混乱して。
ただその手に縋り、その温もりにしがみついた。
憧れだと知ったのは後のこと。
この戦斧を手にして以来、ティアッテを助けてくれるような相手はいなかったのだから。
助け出してくれて、慰めてくれて。
同じ痛みを過去に持っていて。
これはティアッテの為に魔神がくれた恩恵に違いない。
ずっと孤独の中で頑張ってきたティアッテを、姉神は正しく見てくれていた。
だからくれた。
ミアデを。
優しくて温かい恵み。
ティアッテのものだ。そう思いたかった。
そうに決まっていて、他の誰にも渡したくない。
失いたくない。
もう一度戦う。
敗れれば、今度は……あの絶望と汚辱に永遠に捕らわれるかもしれない。
ティアッテが。
ミアデが。
怖かった。正直に言って。
戦場に出れば再び悪夢のような日々に落ちるかもしれないのだと、心が竦む。
けれど、ティアッテが戦わなければミアデが死ぬ。
見かけより強いミアデだけれど、人間の数はやたら多い。
足がなかった。
けれどトワが用意した。
戦えない理由がなくなって、戦場に立つ。
「焼いたら食べられるのでしょうか?」
「……」
悍ましいことを言う。
人間の口から出る言葉など全て悍ましいものか。
「あら、まぁっ」
ティアッテが横薙ぎに振った戦斧を受け、大きく後ろに飛んだ。
受けたラーナタレアとやらは砕けない。
「始樹の底より――」
「っ!?」
距離が空き、詠唱が紡がれる。
「穿て灼熔の輝槍」
十を超える灼熱の槍が、吹き付ける雨粒と共にティアッテを襲った。
「甘い」
一拍に満たぬ間に降り注ぐそれらを全て戦斧で切り払う。
一撃一撃が重く、熱い。
過去にも同じ魔法を受けたことはあるが、その時は単発だった。
全てに同等以上の力を込めて一度に放つとは、やはりこの敵は異常だ。
「私でなければ」
凄まじい高温で周囲の雨の雫が蒸気になった。
閉ざして煮た鍋の蓋を突然に開けたように、ぶわっと発生した熱気が音を立てて周囲に溢れる。
「倒せないでしょう」
かつてなら無理だった。今のティアッテならば。
魔法を放った敵リュドミラに、今度はティアッテが大地を蹴り抜いて襲い掛かる。
踏んだ大地が破裂するより早く戦斧の刃がリュドミラを貫く。
「っ!」
「幽朧の馨香」
擦り抜けた。
「貴女でも倒せませんのよ」
横から聞こえた声に構わず、そのまま抜ける。
通り過ぎた後に、頭上から灼熔の輝槍が突き刺さったのを感じて。
「……幻術を」
「魔物の直感なのでしょうか。それにしても不思議ですわね」
周囲を満たした蒸気が、嵐の風雨で消えた中からリュドミラの姿が現れる。
「まるで知っているかのよう」
「……」
「わたくし、我が師以外でこの魔法を使う方を知りませんのに」
この女の師など知らない。
だが、この幻術は知っている。
トワが使う。もっとうまくセサーカが使うらしいが、ティアッテは彼女が嫌いなので見たことはない。
危なかった。
幻術に戸惑い足を止めていたら、先に唱えていた魔法で串刺しにされていた。
一本だけ上に残していたとは、腕前も相当だが性格はそれに輪をかけて悪い。
「やりすぎるとお父様を巻き込んでしまいそうですけど。困りましたわ」
「侮られるという経験はありませんが」
ティアッテと相対して余裕を見せる敵など記憶にない。
「お前はそれだけの力があるようです」
言うだけの力がある。
リュドミラと言ったか。今ここにティアッテがいなければ誰も太刀打ちできなかっただろう。
「噂の氷乙女に褒められるのは悪くありませんわ。虫部分を剥ぎ取れるのなら可愛がってあげられるかもしれません」
「その不遜な口に父親の臓物でも詰めれば静かになるでしょう」
「心まで魔物なのか、影陋族など所詮畜生なのか」
喋りながら状況を確認する。
蒸気の爆発でミアデの位置を掴み切れない。
金属音が響くのは、アヴィが敵と戦っているのだろう。あれはどうでもいい。
ミアデは無手で戦うので音が少ない。
雨風も強く気配を掴みにくい。居場所を確認していないとリュドミラの魔法やティアッテの戦斧に巻き込んでしまうことも有り得る。
何より、ミアデが無事でいるかどうか。
相手をしている敵の男は、戦力としてはミアデより下と見えた。
だとしても、腕力や素早さだけで勝敗が決するわけではない。もし危険があれば助けなければ。
リュドミラの方も同じだったらしい。
強力な魔法を使うにしても、さすがに肉親を巻き込むのは困ると。
雨の中から、ぽつぽつと男の声が聞こえた。
話し声が。
何を言っているのかまでは聞き取れない。
およその位置は知れた。
耳を傾けつつ、目はリュドミラから離さない。
「お父様ったら、わたくしには遊ぶなと言うのに悠長な」
話し声を確認して不満げに唇を尖らせる姿は、敵とはいえやはりただの娘だ。
親に対して不満を抱くただの子供。
「――また人間に飼われたいだろう」
と。
かぁっと、頭に血が上った。
有り得ないほど下劣な男の言葉に。
それをミアデが言われているのかと思えば、さらに。
「殺す!」
ミアデの怒声の響いた方向を見もせずに、リュドミラは片手の杖を向けた。
※ ※ ※
「質問してもいいかね?」
戦いの最中に、敵の口から。
「妻と娘以外にこれだけの使い手を知らない」
「うるさい! 死んじゃえ!」
「どうも理解できないのだが」
ミアデの連撃をぬるりと躱す男。
「おっと」
躱したところに飛び蹴りを放ったが、見切られていた。後ろに飛び退いて距離を取る。
「君は私よりも強いかもしれない」
馬鹿にして。
見くびって。
というわけではない。ミアデの力を見定めながら冷静に、それでいて他の戦いにも気を配っている。
体術で負けているわけではない。ミアデの方が上だ。
視野が広い。判断が早く的確で捉えきれない。
「これだけの腕がありながら君は奴隷だったのかと」
「ふ、ざけ……」
「首の傷痕だよ。間違いではないだろう?」
ミアデの首には、今も呪枷の傷痕が残っている。
男の言う通りだ。
「北部影陋族による反攻作戦かと思ったが、主力である君は南部出身だ。昨日今日解放されたというようでもない」
ミアデの存在を疑問に思ったらしい。
「ヘズの町に、君ほどの腕を持つ影陋族の奴隷がいたとも聞かない」
そんな質問に何の意味があるのかミアデにはわからないが。
だが、仕掛けにくい。
見られている。ミアデの動きを観察され、対応されつつある。
「だとすればあれか。昨年、ゼッテスの牧場を襲撃して逃げたという影陋族の集団」
「……」
トワ達のことであり、襲ったのはミアデ達で正解だ。
「それにしても、呪枷を断ち切ることが出来るものなのか」
「お前なんかに関係ない!」
アヴィのことを探られていると感じて苛立ちを返した。
「関係あるのだよ」
ミアデの言葉に、男は軽く首を振る。
「私は、スピロ・ミルガーハ」
「……」
「君らの仲間を売り買いするのも、つまらないかもしれんが私の仕事なのでね」
「お前……」
怒りを堪える。
挑発されているのは明らかだ。
腹から湧き上がる怒りを、歯を食いしばり抑え込む。
「これからの商売に差し支えるといけないだろう?」
「……」
「もう一度君に呪枷をしてみたらわかるのか、どうかな」
「……」
「そうか、君にもわからないか。ならば質問を変えよう」
呪枷を着けられたとして、今度は自分で断ち切ることが出来るのか。
ミアデにもわからないと見て、スピロは油断なくミアデの動きを見ながら言葉を区切った。
「また人間に飼われたいだろう」
「殺す!」
答える必要もない下劣な言葉にかっとなった。
「あたしらの苦しみも知らないで!」
「知っているさ。私もよくやったものだ」
「許さない!」
全力での、全速での一撃。
掌打を叩き込もうと。
避けられると思っていた。
だから次の手を考えていて。
だから、当たったから、動きが止まってしまった。
「うっ!」
ミアデの掌底を、かろうじて腕でガードして吹き飛ぶスピロ。
躱したところに突き出そうとしていた反対の拳と、左右の膝と。
どちらも動きが止まる。
「ミアデ!」
叫び声は、誰だったのか。
「祝焦の炎篝より、立て焼尽の赤塔」
「あ――」
斜め後ろから聞こえた声に振り向いた時にはもう遅い。
嵐の夜に生まれた太陽のような炎熱の塊が、その熱でミアデの肌を焼いた。
※ ※ ※
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