第四幕 040話 在らざる手_2
「ふむ、ふむふむ」
呪術師にも名はある。トーマと。
他の者と同じように六十数年も昔は少年だった。
依頼した呪術薬を手に去って行った背中を見て、ふと昔のことを思い出した。
ブリス・オーブリーにどこか懐かしさを感じたのだが、何のことはない。ビクトル・オーブリーという彼の祖父を見たことがあっただけだ。
代々このヘズの守将をしているのだから、この町に長く住んでいれば不思議なことでもない。
偶然、というわけでもないが。
「よもや始樹の底に捨てた子が、今この世に湧いて出たわけでもありますまい」
思い浮かんだことを自分で否定する。
いやしかし。
「ふむふむ、これこそが女神の思し召しでございますかな。ふむ」
有り得ないこと。
だからこそ女神の願いに通ずるのではないかと。
「女神の道に続くのならば、ふぅむふむふむ、なんともなんとも」
小さく体を震わせて嗤う。
呪術師トーマとして、腹から沸き起こる嗤いなど記憶にない。
「真なる呪術。真なる愛を、我が手で叶えましょうぞ」
卓に残った黒い丸薬を瞳に映して嗤う声は、地の底に響くように低く低く染みていた。
※ ※ ※
「ほんとに影陋族なんて来るのか?」
「獣と同じ、獣とおんなじ……」
「奴隷なんかが生意気だぜ。とっ捕まえて男なら嬲り殺し、女なら嬲り殺しだ!」
「こんな大軍見たら逃げ出すんじゃないかな」
口々に疑問や不安、豪気な言葉を吐く者も。
不慣れな民兵がそうしてしまうのは仕方がない。
比較的押し黙っているのが正規兵だが、その胸中も似たようなもの。疑問も不安もある。
正直なところで言えば、ヘズの正規兵の胸中には先日まで口に出しにくい気持ちがあった。
清々しい。気持ちが晴れる。
よくやってくれた、とまで。
ムストーグ・キュスタが殺されたと聞いて、そんな馬鹿なという気持ちと同時に心に浮かんだ。
横暴で厄介者の将軍。
兵士の恋人でも、気に入ったとなれば一晩と奪われたものがいた。
ムストーグだけではなく、その側近のロベル・バシュラールも。むしろこの男の方が陰険だった。
自分が気に入った女官を弄ぶ為にムストーグを利用する。
こんな横暴が許されてしまうのは、アトレ・ケノス本国から来たムストーグの立場が県令よりも高いような扱いになっていたから。
誰も咎めることが出来ない。
本国でもムストーグの素行を持て余してカナンラダに送ったのだろう。体面的には最前線にと。
戦う姿を見る機会は少なかったとしても、ムストーグの腕力が異常に強いことは知られている。
権力的にも筋力的にも彼の傍若無人は続き、それで多くの恨みを買っていた。
死んで当然だ。
おそらく砦にいた兵士も、ムストーグを進んで助けようとはしなかっただろう。
兵士の実力不足というだけでなく、気持ちもムストーグに協力的になるはずがなく。
よくやった影陋族。
そう思った兵士は決して少なくない。
さすがに口には出さなくとも。
嫌いな上官を殺した牙だが、それがこちらに向くとなれば話は変わる。
我が侭勝手なムストーグを倒したというだけでなく、大軍で迎え撃ったイスフィロセを打ち破ってこちらに向かってくる?
そんな馬鹿な。
ここに至り、頼るべき豪傑がいないことを恨めしく思う。
何をやっているんだ。こんな時の為の英雄だろうが。
イスフィロセの連中も、小国とは言っても影陋族ごときに敗れるとは情けない。
しかも惨敗だとか、ろくに敵を消耗させられず四散したなど。
ヘズ周辺で生まれ育った者が大半だ。
ここを捨てて逃げ出すなど出来ない。
ブリス・オーブリーはムストーグに次ぐ実力者だと聞く。他にも軍幹部にはちょっとした勲しを持つ者もいる。
森竜と呼ばれる人間の数倍のドラゴンを討伐したウジェーヌ将軍は、五十を過ぎた今も現役。ムストーグのせいで目立たなかったが超一流の戦士だ。
近隣の村で長をやっていた元冒険者ピエラットも、知る人ぞ知る勇者らしい。
引退生活だったが、影陋族が攻めてくると聞いて協力を申し出てくれた。
ピエラットの参加で逃げ支度をしていた冒険者も軍に加わり、せっかくだから一稼ぎをと意気込んでいた。
勝てる。
これだけの陣容で負けるわけがない。
負けるわけにもいかない。兵士たちにとってここは死守しなければならない町で、影陋族どもは連戦の上にずっと移動を続けている。
疲弊しているはずだ。
迎え撃つヘズの軍は圧倒的に有利。
隠れ潜むような地形は町から半日以上離れた距離にしかない。
いくら丈が伸びつつあるとはいえ麦畑に隠れ潜むことなど出来ない。
北の川から迫る一団を発見。
数は三千ほど。五万のヘズの軍勢とは比べ物にならないが、さすがに数千の規模が動けばすぐにわかる。
川沿いの草原を踏み分けて進む影陋族の軍勢に、ヘズの軍が気勢を上げた。
自分たちの一割にも満たない数をまざまざと目にして、士気が上がった。
負けるはずがない。
イスフィロセの軍勢も同じことを考えたのではないかと、そんな疑問は差し置いて。
※ ※ ※
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