第四幕 014話 腹の沼
「ミアデ、無事でしたか?」
「平気だよ、これくらい」
何でもないというように答えるミアデだが、ティアッテは不安だったのだ。
確かにミアデは強い。
サジュの戦士たちの中で、ティアッテやオルガーラを除いた中で比べるなら一二を争う者に近いほど。
この若さでそれだけの強さ。そうそういるものではない。
そうは言ってもティアッテから見れば不十分。自分が相手にするのなら容易く倒せてしまう。
いや、戦い慣れているようだから少し手数はかかるかもしれないが、負けることはないと断言できる。
複数相手であればともかく、ミアデだけなら。
弱い。
弱くて、脆い。
ミアデはわかっているのだろうか。
今この状況なら、ティアッテはミアデを自由に出来てしまうのだけれど。
人間どもがティアッテや清廊族にしたように、力ずくでミアデを得ることだって出来る。
どうだろうか。たとえば強引にでも関係を作ったら、ミアデはもう少しティアッテを見てくれるのではないか。
迷う。
悩む。そうしたいという欲求と、そんなことをしてはいけないという理性と。
ああでも、許されるのではないか。
ティアッテは頑張っている。ひどい目に遭ったのに、清廊族の為にまた戦っているのだから。
褒美のひとつくらい、あったっていいんじゃないかと。
「……はぁ」
びくっと震えた。
邪心を悟られたのではないかと、ミアデの溜息を耳にして。
「汚れちゃったよ。ううぇ」
自分の服を見て顔をしかめていた。
人間の返り血で汚れてしまった服の臭いに。
ミアデは主に無手で戦う。小さな寸鉄のようなものを握ったり、それを投げたりもするけれど。
敵との距離が近く、人間の体を貫くのに十分な力がある。
その戦闘スタイルでは返り血を浴びるのも無理はない。
「最近、割と綺麗にしてたからなぁ」
「ミアデはいつも綺麗です。どんなでも可愛いですから」
「……」
頬についていた血痕をティアッテが拭うのを受けながら、ミアデは何とも困った顔で目を合わせない。
あまり元気がない。
どこか不満げで、拗ねているようにも見える。
拗ねるミアデも可愛いのだけれど、それがティアッテのことを思ってではないのが気に入らない。
「……あちらが良かったですか?」
「そういうわけじゃ……ううん、そうだけど」
どろりと、ティアッテの心の沼が嵩を増す。
腹の中に、生温い泥が溜まるような不満。不快感。
「あ、いやその、ティアッテと一緒が嫌なわけじゃないんだよ」
「そう」
晴れた。
ミアデの言葉一つで、ティアッテの気持ちはすぐに晴れる。渇いたり湿ったり。
これが、誰かを好きになるということなのか。
今まで考えたことがなかった。自分が誰かを愛したことがないなどと。
オルガーラがいた。
ティアッテにはオルガーラがいて、戦友であると同時に伴侶だと思っていた。
けれどあれは、ただの依存と友情。あとは他に理解者がいない穴埋めのような関係。
愛情の一つの形ではあったのかもしれないが、恋愛ではない。色恋ではない。
誰かを好きになり、愛を求める。
そういう感情をこの年まで知らずに生きて来た。戦いの中でそんなものを捨てて来たのかもしれない。
だけど、知ってしまった。
感情を自分で制御できない。理性ではなく情動がティアッテを支配するこの気持ちを。
最初は悪いことだと思った。
あるいは、下賤なことだと考えた。いい年をして好いた惚れただので判断を揺らがせるなんて愚かしい。
だけどトワは、そうは言わなかった。
この感情は正しい。感情を優先して生きることは正しいのだと。
ティアッテが切り捨てようとした気持ちを肯定し、悪ではないと教えてくれた。
そして、求めていいのだと。
頑張ってきたティアッテが欲しいものを欲しいと言っていい。その資格がある。
今まで自分は我慢を強いられてきたのだろうか。自分の感情を押し殺して、本来なら許されて当たり前の幸せを取りこぼしてきたのだろうか。
まだ迷うティアッテに、力をくれた。さらなる力を。
失った力を補って余りある強大な力。
これがあれば、どのような敵だろうが関係ない。
ティアッテはおそらく今、歴代最強の氷乙女。
本当に望むのなら、誰がティアッテの望みを妨げられるというのか。そんなものは何であれ、誰であれ、この戦斧で叩き潰して――
「戻らないの?」
濁った意識から引き戻される。
ミアデの声に、はっと我に返った。
「どこか怪我した?」
少し心配そうに覗き込むミアデに、心が清められる。
「いえ、違います」
可愛い。
この程度の敵に今のティアッテが手傷を負うはずもない。
特にこの周辺は、ティアッテの力と親しみが強いらしい。大地を沼のように変えて進むのもとてもやりやすい。
ほとんど無意識にやっているのでよくわからないけれど。
普段だって、足をどう動かしているのか説明できない。そういうようなもの。
ものすごく小刻みに足先が震えているような気もする。
繊毛というのか鞭毛というのか、時折魔物の毛先が小さく振動しているような感じで。
今はミアデの前なのだから、足はいつものように戻している。
あんな姿ではミアデが怖がるかもしれない。嫌がるかもしれない。
ミアデに嫌われるのは嫌だ。堪えられない。
「ミアデ、歩きにくいでしょう?」
「うん? まあちょっとは」
先ほどこの辺りの地面をぬかるませてしまった。ティアッテはともかくミアデは歩きにくいはず。
彼女の履物は、足の肌にぴったりと吸い付くような薄い皮で出来ている。泥の感触も気になるだろう。
ああ、その靴みたいにティアッテもミアデの足に張り付きたい。足の裏に、指の間に吸い付いていたい。
「よければ私が抱いていってあげましょう」
「え、いや……」
ミアデが少し離れた。
「いいよ、大丈夫だってば」
「遠慮しなくていいんですよ。私たちだけしかいないのですから」
「別に遠慮してるわけじゃなくて」
逃げるミアデの手を掴む。
「っ」
少し驚かせてしまった。咄嗟に、ぬるりと距離を詰めるように動いたから。
「……その動き、なんかすごいよね。ずるい」
普通の足さばきとは違う挙動で、間合いを測りにくい。
ミアデは敏捷な動きで敵との呼吸を調整して戦うのが得意だ。自分の得意分野で反応が遅れたことに悔しそう。
可愛い。
食べてしまいたい。
ああ、どうしようか。今はミアデの手を掴み、彼女はされるがままに。
「く、くすぐったいよティアッテ」
湧き上がる気持ちが押さえきれず指先が震えた。
足が大地を沼に変える時のように、ティアッテの指先が細かく振動する。
「ミアデは」
ぐいっと引き寄せて、顔を寄せる。
小柄なミアデ。怯えてはいないが困っている。
「溜腑峠からサジュまで、私を背負ってくれました」
「あれは、まあ……」
「今度は私に、させてくれませんか? 貴女に御礼を」
御礼に。恩返しに。
そういう言われ方で、大したことではない。
「別にいいのに。そんなの」
ティアッテの気が済むのならと、頷いた。
ミアデの脇から手を差し込んで抱き上げる。
小柄な体。軽い。
こんな小さな体のどこにあんな力があるのかと思うが、そういえばオルガーラも馬鹿力だった。
不器用で力の使い方が下手で、オルガーラの力加減の下手さに苦労したことも少なくない。
それと比べてミアデは器用だ。小柄な体と自分の力とをうまく使って戦う。この子は天才だ。
力そのものはティアッテには及ばないけれど、センスがいい。最初からオルガーラでなくてミアデがサジュにいたらよかったのに。
「ちょ、くすぐったいってば」
「すみません、ちょっと落ち着かなくて」
気持ちがざわつき、指がそれに連動した。
ティアッテの気が済むのならと思ったのかもしれないが、全然気は済まない。むしろ昂る。
人間の血や泥の臭いとは別に感じる、ミアデの香り。
春先の蓮華草のような、爽やかな香り。ティアッテの肩に回されたミアデの腕が、彼女の首をティアッテの口元に近付けてくれる。
首筋からの匂いを堪能しているうちに、さらにティアッテの気は昂り、欲情を滾らせてくれた。
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