第四幕 013話 砦は二度放棄され_2



 翌日、砦の中の探索を切り上げ、南に戻る。

 相変わらず緩い地面。

 歩くたびに靴が泥に囚われて重い。せっかく洗い流してさっぱりしたのに。


 オディロンたちを待っているだろう後方待機の仲間の所に向かうが、ぬかるみで足が鈍る。


 気づかなかったが、昨夜小雨でも降ったのだろうか。

 砦の建物の中にいたとはいえ、雨がわからないほど寝入ったつもりはないのだが。




「うぉ」


 往路でも嵌まったように、うっかり少し深い泥に足を突っ込んでしまう。

 足首あたりまで飲まれ、撥ねた泥が顎にも掛かる。

 運が悪い。


「ち、汚い」


 手の甲で顎を拭い、足を引っこ抜いた。

 街道などではない。道が確立しているわけでもないのだからどこを歩くのがいいのかわからない。

 それでも、こうも嵌まるものだろうか。子供でもあるまいし。



「……?」


 見れば皆、オディロンと同じようにぬかるみに悪戦苦闘している。

 行きはここまで悪い足場ではなかったと思うのだが。やはり雨でも降ったか。


「なんだ?」


 少しずつ大きく見えてくる茂みに、後方待機の五人が隠れていたはず。

 それが姿を現した。三人。


 こちらを見つけて合流しようと言うのか。

 子供の遊びではないのだ。仲間を見つけて喜んで駆けてくるなど――



「なんっ!?」


 三人のうちの一人が倒れた。

 何が起きたのか見えないが、転んだというには様子がおかしい。

 後の二人も大慌てで駆けてくる。緊急事態ということか。



「敵だ!」


 隊長が叫ぶまでもなくもうわかっている。敵に襲われている。

 茂みに潜んでいた彼らが見つかり、襲撃された。すぐに助けに行かなければ。


 敵の姿は……茂みから飛び出してきた小さな影が、今ほど倒れた兵士の上に落ちた。

 凄まじい勢いで、倒れた兵士に拳を叩き込んだ。

 飛び散ったのは泥だったのか、彼の臓腑や血だったのか。



「一匹だけか? すぐに――」


 強そうな敵だが、他に続く敵の姿はない。

 精鋭の斥候部隊十人がかりであれば倒すことも出来るだろう。捕えて、敵の情報を吐かせるのもいい。



 ぬかるみの中を駆け出すオディロンだが、違和感を覚えた。

 続く足音がない。

 ぬかるんだ地面だ。足音を立てずに走るようなことは出来ないはずなのに。



「……え?」


 振り向いて、わかった。

 足音を立てられるはずがない隊長の姿を。

 右足と左足が、それぞれ完全に離れている。脳天から股間まで。


 どばぁっと音を立てて左右の半身が倒れた。

 分かたれた間を埋めるように、赤黒い血が流れて右と左を繋ぎ合わせようと泥中を漂う。



「う、うあぁぁっ!」


 先ほどの隊長の声は後方部隊に対してではない。すぐ横から現れた別の敵のことだった。

 巨大な戦斧を手にした、氷のように冷たい表情を浮かべた絶世の美女。


 隊長以外の全員がそれに意識を奪われていた。オディロンが一番遠くにいてわからなかっただけで。


 そこらの茂みに隠れていたのだろうか。

 足音も立てずに、あっという間に距離を詰めて隊長を両断した。



「に、逃げろ!」

「ひぃぃっ!」


 凶悪な、巨大な戦斧の美女。

 噂に聞いている。影陋族の中での英雄のような女戦士。


 見るのは初めてだが、疑う必要はない。持っている大斧はとてつもない重量だろうし、それを軽々と扱い斥候部隊最強の隊長をあっさりと殺した。


 勝てる相手ではない。

 逃げる道を探す。考えてもいないけれど咄嗟に。


 真っ直ぐ南には、後方部隊を襲っている敵がいる。あっちは駄目だ。

 戦斧の女がいる方とも逆の横に向かって、全力で走り出した。



 多少ぬかるみに足を取られたが、しばらく走ると足場がそれなりに固くなった。運がいい。


 オディロンは足が速い。昔から走って誰かに負けたことはない。

 足場さえしっかりしていれば、そうそう追い付かれることもない。他の同僚が犠牲になっている時間もある。


 置き去りにして、見殺しにして。


 それでいいのだ。斥候なのだから、生き延びて情報を伝えるのが役割だ。

 死んでしまっては何にもならない。任務を達成することが死んだ者への手向けだとか、そんな言い訳を頭に浮かべながら走る。



 かなり走った。

 かなり引き離したと思う。物音も何も聞こえない。追ってくる足音も。


 良かったと思う反面で不安にもなる。後ろがどうなっているのか。

 駆ける足は止めずに、恐る恐る顔を向けた。後方に。




 怪談話というものがある。


 夜中に、死んだはずの恋人が……殺したはずの妻が、男を追ってくるのだとか。

 どれだけ走っても、後ろからケタケタ笑いながら追いかけてくる。足を止めた時に死ぬのだと。


 追ってくる女に笑いはない。オディロンにもまだ殺した妻もいないし、こんな美しい恋人がいたことだってない。

 けれどそれだ。その怪談のよう。



 走って追いかけてくるわけでもない。それどころ歩いている様子さえない。

 ただ滑るように、あるいは蛇が左右に体を揺らすように。


 ぬるり、ぬるぅりと。

 猛烈な速度で、後ろから迫って来た。血に濡れた戦斧を手にして。



「な、なんだぁばけものぉ!」


 泣き喚く。

 見るのではなかった。恐怖で足がもつれる。


 蛇のように、と。

 なるほど、自分で思ったことだが言葉通りだ。

 女の体の足元から、なんだかよくわからない巨大なものが伸びていた。

 多足の昆虫のような。けれど女の体の何倍もあるようなもの。


 たくさんの足で泥をはね上げながら、上に乗せた女の体を凄まじい速さで前に進める。オディロンの逃げる方向に。

 必死で逃げるが、膝が震える。

 腹の底も、恐怖で引き攣ってしまう。怖い。怖い。


 足がもつれる。

 倒れたら終わりだ。

 そう思うのに、足が言うことを聞かない。



「ぁぶっ!?」


 足を取られて正面から転んだ。顔から地面に突っ込む。

 ひどい転び方。これでは顔面に大怪我を……と思うが、衝突の痛みは少なかった。


「ばぇっぶほっ」


 鼻から泥が脳髄まで突くような勢いで入り込み、激しく咳き込む。

 涙が溢れ、鼻に侵入した泥を喉から吐き出した。苦い。臭い。



「がふっ、べへぇっ」


 吐き出しながら、顔を拭う。泥まみれの顔を。


 ――泥?


 敵から逃げ出し、足場のよさそうな場所を走っていたつもりなのに。

 いつの間にか沼地に入ってしまっていたのか。



「あ……」


 ぐるんと、前に回り込まれた。

 多足の昆虫のような足が地面を溶かすようにぬかるませながら、オディロンの前に。


 その足が触れた所が、どろりと獣脂でも溶かすように大地を掻き分ける。泳ぐ。


 魔物だ。

 沼地の魔物。この先の魔境にそんなようなものが住んでいると聞いたことがある。


 きっと遠征軍のせいで、この魔物を呼び覚ましてしまった。呼び起こしてしまった。

 大地を沼に変えるような力を持ち、足の先から女を生やすような……いや、逆か。


 美しい女の右足の膝あたりから、昆虫の下半身が生えているような。

 上に乗せているのかと思ったがそうではなかった。



「は、は……」


 走っている途中で、オディロンの足元も溶かされていたのだろう。ぬかるみに侵され、足を取られた。

 そのおかげで顔面は無事だったようだが、それに意味があるだろうか。



「トワに感謝しなくては」


 静寂の中で鉄琴を鳴らすように、澄んだ音が響く。


「この力は素晴らしい。そう思いませんか、人間?」


 魔物の足に持ち上げられた女の姿は、地面に倒れたオディロンから見て太陽を背に。



 女神、だろうか。

 なんて悍ましい。


あんなもの・・・・・をかけられて不快でしたが、差し引いて許しましょう」

「……」

「あの子のなら……別にいいのですけれど、ね」


 女の目が、オディロンを離れて遠くに行く。

 いや、最初から見ていなかったかもしれない。手にした戦斧の切っ先から、後方待機の兵士が隠れていた方に移った。


 あちらに何かいるのだろうか。



「さて、お前で最後のようですから」


 見てもいない。オディロンを見もせずに、戦斧を高々と掲げた。

 陽の光が戦斧の刃を輝かせる。


「私の邪魔をする者など、この世に在る理由がありません」


 女神の妨げとなる者なら、その通りだろう。


 そこでようやく気が付いた。この魔物は昆虫ではなくて、甲殻類だ。

 蟹やそれらの類の。

 そんな思考に意味があったのかわからないが、オディロンがこの世で最後に理解した事実。



 上から叩きつけられる戦斧の勢いで、両断どころか粉々に飛び散ったオディロンの意識はそこで消滅した。



  ※   ※   ※ 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る