第四幕 008話 無恥遁走_2
道ではなく、林の中を走る。
夜目が利くとは言っても障害物を見通せるわけではない。
茂みの中をジグザグに走れば見失う。逃げ延びることが出来る。
とはいえ、暗がりの林の中を走るチェルソも無事ではない。
木の枝に頬を削られ、根に足を取られもたつきながらもどうにか進む。方向感覚だけは長い冒険者生活で信頼できるものだった。
「はぁ……はぁ……」
相当な時間を駆けた。
追ってくる気配はない。いくらなんでも足音一つなく追ってくることは不可能だ。
撒いただろう。
油断はできないが、少なくとも今すぐ近くにはいない。
腰の水筒から水を飲もうとするが、走っている途中で栓が抜けてしまったらしい。ほとんど空だった。
「くそったれ」
どこかで水場でも探さなければ、水がなければそれで死ぬ。
少し息が整ってきたところで周囲を見回した。荒い呼吸を聞きつけた敵が迫っていないか。
「……」
気配はない。
今度は感覚を研ぎ澄ませて探したのだ。野生の獣の気配だろうが見逃さない。
近くにいない。
今のうちに先に進む。このまま南のスラーまで……が難しければ近くの農村でも。
本当は農村などは避けたかった。影陋族に襲われるかもしれないし、守備兵などもいないのだから。
数歩、歩き出したところでふと空を見上げた。
視界の隅で星が流れたような、そんな気がして。
「おぶぁっ!?」
潰された。
潰されはしなかったが、上から襲い掛かってきた肉の塊を慌てて払い除ける。
「なんだっ?」
「助けてくれ言うとったじゃろ」
上から、声が掛けられた。
「お前、戦士じゃろうが。戦えんモンを置いて逃げるんか」
どす、と。
今度は何かが降りて来た。
「ルゥナ様の命令じゃけぇ、戦士は出来るだけ逃がすなっちゅうが」
吐き棄てるように、巨大な薙刀を振った。
びゅんと風を切り、飛び散った何かがチェルソの目の下にかかった。拭った感触で、血肉だと知る。
「お前が一番つまらんわ。強い弱いんとちごうて、情けない奴じゃの」
最初に落ちて来た肉は、チェルソの顔馴染みの商人の死体だった。
暗い中でもなぜだかはっきりと表情が見える。
大きく口を開け、チェルソに助けを求めるように。あるいは恨みを吐くような顔で。
「お、お前は……」
でかい女だ。チェルソと同じくらいかもう少し背丈があるかもしれない。
持っている薙刀もまた大きい。それを軽々と振った筋力を思えば、相当な強者。
「ひっ」
上から悲鳴が聞こえた。
「じっとしとりゃあユキリンは落とさんけぇ、ちぃと待っといてな」
視界の上の方を横切る白い筋が見えた。空を飛ぶ魔物。
「な……飛竜、騎士?」
「まあ似たようなもんじゃろ」
大薙刀が振り上げられた。
振り下ろされる。薪でも割るかのように。
大振りだ。
小細工も何もない大振りの一撃。
舐めている。チェルソの力を侮り、無造作に振るだけ。
これでも何度も死線を潜り抜けてきたチェルソだ。そんな一撃でやられるほど甘くはない。
敵が舐めてくれているのなら助かる。
振り下ろされる大薙刀の力を剣で横に流し、この影陋族の腹を裂く。
チェルソの力なら出来る。逃げ腰だった自分の判断は正解だった。
肩口に振り下ろされる大薙刀を剣で受け、その力を横に流そうと――
「ぶふぇっ!」
凄まじい力だった。猛獣の一撃のような。
受けようとしたチェルソの剣は薙刀の勢いに負けて、自分の肩に深々と突き刺さった。
「ぐ、あがぁぁぁ……」
「なんじゃ、戦えるんか」
薙刀で体を両断されることは防いだ。だが、自分の剣が鎖骨を砕いて体に食い込み、滑った薙刀の刃が胸から腿までを深々と裂き、傷口から血が溢れ出す。
「最初っから気張りゃあマシじゃったろうが……まあええ」
倒れたチェルソの懐や腰の荷袋を漁る女。
剣を肩に食い込ませたまま倒れ、その様子を目に映す。
「治癒薬なんかは……ないんか。まあさっきの連中が一個持っとったけぇ、ええじゃろ」
使える道具がないかと漁り、興味を失ったように放り出す。
「剣は……」
チェルソの命を奪いつつある剣を見て、鼻で笑う。
「おんしにやるわ。大事にせえな」
くれる、だとか。
最初からチェルソの剣だ。影陋族に譲られる筋合いではない。
「武器はお守りじゃないんじゃ。後生大事に地獄まで持っていっても役には立たんけぇ、覚えとき」
言いながら、チェルソの懐から抜き取ったものを顔に当て、空を見上げた。
「こいつはええ、面白いもんじゃのぅ」
遠眼鏡を戦利品として。
女が飛び去った後、チェルソの呻き声が途絶えたのは夜明け頃のことだった。
流れる血海の中、聞こる悲嘆の声が自分のものだと認識できなくなるまで、苦痛に喘ぎ続けた。
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