第四幕 007話 無恥遁走_1
イジンカはもう駄目だ。
危険回避は冒険者にとって最も大事な技能。
鉱山周辺の魔物駆除はよくある仕事だが、稀に手に余る魔物も出る。そうした異常を見逃さない感覚。
チェルソは二十年近く冒険者をやってきた。だというのに、これほど危険な臭いに気が付くのに遅れたと胸中で舌打ちする。
臭いが強すぎた。飲み込まれていることに気づかぬほど。
影陋族が攻めてくる?
荒唐無稽な話で、酒の入った中での笑い話のように聞き流してしまった。
イジンカの町が警戒態勢に入り、冒険者の稼業にも差支えが出て。
仕事がないなら軍に雇われるのもありか、などと考えていたのだが。
そういえばと気になった。
町で一番の腕利き、サビーノとライメダ。それに彼らの連れの姿がない。
去年、軍の作戦に参加してから、冒険者稼業よりも軍に近い仕事をしているようで、見かけることも少なかった。
気になって聞いてみれば、影陋族の町を攻める作戦に参加したのだとか。
本気で軍人になるつもりなのか。
腕の立つ冒険者ならもちろん好待遇だが、自由は制限される。
軍幹部の考え一つで無茶なこともさせられるし、場合によっては捨て駒にも。
チェルソは軍に入るつもりはなかったが、他の冒険者には違う考えの者もいる。
英雄のような力があれば、軍の内部でもある程度の意見は通せるだろう。女傑コロンバのように。
そこまではいい。
考え方の違いはどこにだってある。別に大した問題ではない。
問題は、影陋族が攻めてくるという話だ。
イジンカから影陋族の拠点を攻めたというのだから、一番近くの拠点だろう。
サビーノ達まで連れて行ったというなら大規模な作戦だ。そういえば春にそんな動きがあったように聞く。
春先は魔物駆除の依頼が多く、チェルソはイジンカ近隣の村々を回っていた為にここにいなかった。
戻って来てみれば影陋族が攻めてくるだとか。
馬鹿な話と一蹴するのではなかった。
攻めていったイスフィロセの軍はどうなったのか。サビーノ達と共に。
噂を集めればすぐに辿り着く。
遠征軍は敗れ、女傑コロンバは戦死したと。
軍は認めていないが、遠征から戻った複数の人間がそう言っている。
まずい。
こういうのは、あれだ。
イスフィロセとアトレ・ケノスの間にある緩衝地帯。その森の中でうっかり凶悪な魔物と出くわした時の寒気と同じ。
嗅いだことのない糞尿の臭いに興味を抱き、魔物の縄張りに入ってしまった。
見たこともない銀黒の毛皮の虎のような魔物。
毛の一つ一つが鋭い棘のようで、纏う雰囲気がチェルソの敵う相手ではないことは明らかだった。
迷わず逃げだした。
逃げながら、連れの冒険者が魔物の餌食になったのを構わず走り続けて。
他にも、木の上から襲ってくる黒豹にも仲間が襲われたのも構わず。
逃げて命を拾ったが、あれは本当にただの運だ。
何かが違っていれば死んだのはチェルソになっていた。
死線に近い空気。
察知したそれに飲み込まれぬよう迅速に。だが一度この空気に触れてしまえば簡単に逃げ延びられるとは思えない。
情報と手立ては必要。
イジンカの北で軍が影陋族と交戦する。
町からはほとんど見えない。近い場所では町に被害が出るかもしれないのだから、当然ある程度の距離は空ける。
顔見知りの兵士を見つけて物見櫓に上がった。
片目に当てた遠眼鏡で戦場を見る。
性能の良い遠眼鏡があれば良かったのだが、そういうのは高級品だ。チェルソの持つこれだって安くはない。
土煙の立つ中に、かすかに見えた。
遠くから迫ってくる影。明らかに近付いてくるそれらと、手前に見えた兵士たちの駆ける姿は乱れている。
負けだ。
既に戦況は敗戦。敗走。
「わりい、ありがとよ。お前も早く逃げろ」
「なにを……何が見えたんだ? おい、チェルソ!」
後ろから呼ぶ声を無視して、町の出口に急いだ。
「悪い予感の通りだ」
門の前で待っていた一行に首を振った。
「俺はすぐ出る。あんたらはどうする?」
「家財はまとめてきた。チェルソさん、あんたについていくよ」
商人の一家と、奴隷の影陋族。
イジンカを中心に行商を営む商人で、チェルソは何度か仕事で付き合いがあった。
危険が迫っているから逃げるなら荷物をまとめろと伝えた。
チェルソの言葉を信じるかどうかは彼らの判断だったが、こちらに転んだらしい。
彼らも不安だったのだろう。
町に流れる噂を聞き、何が起きているのかわからない。
見知った冒険者のチェルソがイジンカに戻り、危険だから逃げるという。
それなら自分たちも、と。
信じられないことが起きるのが人生だ。よくも悪くも。
命に関わることに対して、後で判断しても遅い。
危険を感じたら即座に決める。それがチェルソの冒険者としての経験だった。
いくらかの荷物を馬に積んだ彼らと共に南に逃げる。
町を振り返りはしない。見えるわけでもないし、悪いものが見えたら心に重みがかかる。
とにかく早く、急いでこの場を去る。
南のスラーの町に着いたら、イジンカは何事もなく無事だったという報せを聞いたって別にいい。
そんな話が出来るのも生きていればこそ。
命より高い買い物はない。商人たちもそれをわかっているのだろう。
計算をしていた。
打算もあった。
町から逃げる者を追う敵もいるだろうと。
影陋族が攻め入れば町の者は我先にと逃げ出す。
追手がかかり、いくらか死ぬ。
そうは言っても影陋族の弱みは数の少なさだ。逃げ出した全てに手が回るはずはない。
先行して逃げているのだから追い付かれる可能性も低い。だが絶対ではない。
人間に深い恨みを抱く影陋族だ。狂ったように追ってくれば追い付かれてもおかしくない。
二日目の夜。
いい加減少しは休まなければ倒れてしまうし、ここまで追ってくる者はいない。
狂ったように駆けて、チェルソたちを追い抜いていった人間はいくらかいた。あのままでは先で気絶して結局逃げきれないのではないか。
計算は二つ。
追い付かれない場合。これはそれで何も問題はない。
追手の影陋族に追い付かれた場合にはどうするか。
考えなしに追ってくるような馬鹿であれば、どうにか出来るかもしれない。
チェルソはそれなりに腕利きの冒険者だ。中位の上ほど。生半可な相手なら倒してしまえばいい。
だが、十倍の兵力差を打ち破るような敵が生半可な実力だと考えるのは無理がある。
悪い場合を想定しての打算。
かつて魔物の縄張りに踏み込んでしまった時と同じ。
同じ逃げるなら、マトは多い方がいい。
チェルソより明らかに足が遅く、また荷物も多い商人たち。襲うならこれらを優先するだろう。
彼らは数年前に影陋族の奴隷を買っていた。中年に差し掛かったメスで、あまり高値ではなかったのだとか。
性的な目的ではないということで商人の妻も許していたが、まあその内実は知ったことではない。
いざとなればこれを盾にして時間を稼いでくれるだろう。
チェルソが逃げる時間を。
顔馴染みの知り合いだからというだけで声を掛けたわけではない。
生き延びる為の手段の一つとして。
それが役に立った。
「くそ、あいつら夜目が利くんだったか」
火を焚かずに木陰に潜んでいた所に、迷わず敵が襲って来た。
どこから近付かれたのかわからなかったが、とにかく敵だ。
気配を感じる間もなく接近したのなら、チェルソより上手であることは疑わない。
商人たちが影陋族を盾に何やら言っているのを置き去りにして真っ先に逃げ出した。
※ ※ ※
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます