第三幕 044話 予兆の雨
「どうかしましたか、セサーカ?」
「あっ、すみません」
「謝らなくても構いませんが……疲れているのなら休んでいた方が」
労わりの言葉をもらって少し心が温かくなる。
最初の頃のことを思えば、本当に優しく接してくれるようになったと嬉しい。
初めて会った日には、なんて冷たい目で厳しいことを言うのかと少しばかり恨めしく思ったほどなのに。
「大丈夫です、ルゥナ様」
今では、彼女に身を捧げてもいいと思えるくらい。
もちろんセサーカにはミアデの存在がある。大好きだ。
ミアデに対する気持ちとは別に、アヴィやルゥナの為になら死んでもいい。そう思えるし、有り得ないけれど彼女らがセサーカの体を求めるというのなら喜んで尽くしたい。
逆に、その身を委ねてくれるというのなら、隅々まで味わいたい。考えるだけで体が熱くなる。
「……セサーカ?」
「あ、いえ、本当に大丈夫ですから。少し気持ちが昂ってしまっただけです」
「そう、ですか?」
改めてルゥナの顔を見て、思わず涎が。
比較的豊かな胸を庇うように腕を交差させ、わずかにルゥナが下がった。危険を感じたのか。
「出来る作戦とすればここまでですが……問題はその、空を飛ぶ巨大な魔物について、です。正体もわからず有効な手段がわかりません」
サジュを占領した人間どもを殲滅する為の作戦。
前回の戦いに勝利出来たのは、運が味方をしてくれたから。
あの時点での戦力で可能な限りの策を考え実行してみたが、足りなかった。運を当てにしていたわけではないけれど、結果的には運で勝利を拾った。
当てにしていたとすれば、囚われた氷乙女という戦力を取り戻すことだったが、それは掴めなかった。
(氷乙女……ティアッテ、ですか)
セサーカが思考を迷子にさせてしまったのは、その氷乙女のせいだ。
ミアデは気付いていないが、ティアッテの瞳は完全にミアデに恋慕を抱いている。愛欲と言っても過言ではない。
休憩時間などにミアデに近付こうとするセサーカに、ティアッテは敵意に似た目を向けてくるのだから。
助け出した他の清廊族から聞いた話をまとめれば、大体の想像はつく。
氷乙女ティアッテは、誰かに助けてもらうなんてことは今までに一度もなかった。
彼女の生涯の中でそんな記憶はなく、そして敵に捕らわれ絶望を知った。そこに突如として現れティアッテを助け出したミアデ。
ころりと、傾いてしまったのだろう。
自分を助けてくれた彼女と添い遂げたい。愛し愛されたい、と。
夢見る少女の恋心のごときものが、今さらながらにティアッテに生まれてしまった。
それでも見聞きする彼女の性格なら、そういった感情はできるだけ心中に留めて表に出しそうにないのだけれど。
足を失い、心を踏み躙られ。色々と変わってしまったのだとしても不思議はないか。
セサーカだって人間の奴隷にされていた。
絶望も、苦痛も、汚辱も、身に染みて知っている。
それでも今は戦っている。戦わなければと思って。
違うのは、時間だ。
セサーカにとっては、その絶望も苦痛も次第に当たり前になってしまっていた。諦めてしまっていた。
当たり前になってしまい慣れてしまっていた汚辱から解放され、それまでの忌まわしい日々の記憶が殺意に置き換わった。
ティアッテはそうではない。絶望と苦痛の渦中で、自分より不幸な者はいないと嘆く真っ只中に救われ、ミアデに出会う。
再び立ち上がるとしても、自分の感情を整理するには時間がかかる。
他のことより、自分を助けてくれた相手に依存したいという気持ちが先になってしまっているのは仕方がない。
仕方がない、けれど。
不足するのだ。セサーカに必要な温もりが。
ついルゥナに愛欲の目を向けてしまうほどに。
「セサーカ、本当に大丈夫ですか? 様子がおかしいですが」
「ルゥナ様が口づけを下されば平気です」
ばき。乾いた音が響く。
「……」
微笑を浮かべて、その音の主を見た。
「セサーカさん、どうも大丈夫ではないみたいですよ」
「トワ、そんなに薪を小さくしなくても良さそうですけど」
焚火の為に乾いた木々を手にしていたトワ。それを握り砕きながら。
「……どうなんじゃ、この状況は」
「ウチ、こういうんは苦手なんじゃけぇ」
苦々しい声が横から聞こえる中、トワと微笑み合うセサーカ。
もう一度、ばきっと音を立ててトワが手の中の木片を割る。
「やめなさい、どちらも……セサーカ、ティアッテには私から言いますから」
苛立ちの原因をミアデにへばりついているティアッテのこととして、ルゥナに宥められてしまった。
「トワも。仲間に対して、褒められた態度ではありません」
「……はい」
素直に頷いて、ごめんなさいと口にはするけれど。
(やっぱり、この子は少し怖いですね)
一時期すっかり腹黒さを無くしたように感じたのは気のせいだったのだろうか。
ミアデに執着を見せるティアッテの瞳は、色は違うけれどトワに似ている。ように思う。
「セサーカ」
不意に、それまで一言も発しなかったアヴィに呼びかけられた。
真っ直ぐに歩み寄ってきて迷わず口づけを。
「……気を張りすぎ、かしら」
「ん……はい、アヴィ様。ありがとうございます」
確かに、不満を抱えて変な方向に意地を張っていたかもしれない。
ちらりとトワを見て、ごめんなさいと口にする。
トワの方も改めて、今度は本当に少しだけ反省したように頷いた。
アヴィはあまり関心を表に出さないけれど、セサーカ達のことはきちんと見てくれている。
張りつめたセサーカをこんな方法でほぐす。感情表現が不器用なだけ。
アヴィの不器用さは感情表現だけでもないか。
彼女が倒した飛竜騎士、その体から得た命石をルゥナに手渡そうとして粉々にしてしまっていた。
ちょっと力が入りすぎだ。強敵を倒したことで高揚しすぎたのかも。
さらさらと砂となって零れたそれに、びっくりした様子のアヴィの顔はかなり可愛かった。
ルゥナが、平気ですよ使い道は特にないですからとフォローしていたけれど、思い出すと今でも面白い。
みんなが抱えている。不安や迷いを。
次の戦い。サジュを取り戻す戦いが困難だとわかっているから。
サジュまでもう二日という所で留まり、既に数日が過ぎている。
食料も無限ではないが、あまり時間を置けば戦士たちの士気も下がる。敵にこちらの動きを知られる可能性も増す。
時間はないが、情報も手立ても少ない。
偵察に行ってもらった者の話では、空を飛んでいる巨大な魔物らしい姿はないようだが。
何か手を考えなければ。
そういう気持ちがセサーカを焦らせ、また苛立たせる。
正面からぶつかるのは危険が大きすぎる。敵には氷乙女を打破できる戦士もいれば、正体不明の空の魔物もいると言うし。
兵士の数もこちらの数倍もいるとすれば、混戦ならともかく正面からでは飲み込まれてしまう。
地形的な問題で回り込むにはかなり大きく迂回しなければならないし、その間に敵の斥候に見つかる可能性もあった。
どうすればいいか、どうすれば被害を最小限で人間を討つことが出来るか。
考えて考えて、勝算らしいものは見つけたけれど。
それでも、目撃情報にある空飛ぶ魔物への対抗手段は思いつかない。
張りつめた気持ちがセサーカを追い詰め、ついトワに意地悪なことをしてしまった。
トワの前であんなことを言えば怒らせて当然だ。アヴィが割って入ってくれて良かったし、ついでに彼女の唇ももらえて幸運だ。
とはいえ、問題が消えたわけではない。ルゥナの表情には憂いが残ったまま。
「安心しぃ、空のはウチがなんとかするけぇ」
「皎冽で射抜けないものはない。きっと」
ウヤルカとニーレが、ルゥナの不安を払拭しようと言うのだが。
「いえ、出てきたら退きましょう」
ルゥナは首を振った。
「貴女たちの力は信じていますが、アヴィでも対抗しきれなかった飛竜騎士が退いたのです。何か理由があるのかもしれません」
「あれは、まあ……そうやね」
運よく倒せたものの、正面から戦って勝てる相手ではなかった。刃を交えたウヤルカには実感がある。
ニーレも苦々しい顔で口を結び、静かに頷いた。
「その飛行する巨大な魔物が現れたら全員撤退を。敵の正体を見極めつつこの場所に来て、追ってくるようなら溜腑峠に」
「わかった、全員に伝えておく」
引き際を決めておくのは悪くないと思う。あらかじめ予定した撤退の方が被害は少ないはず。
同時に敵を確認して、それから対抗手段を考える。ルゥナが定める方針に異論はないし、先に決めごとをしてくれて助かる。
「退くなど、戦士たちは面白くないかもしれんのう」
メメトハの言うこともわかる。戦士として、戦場から逃げることは恥と思うのも自然な気持ちだ。
それを責めるわけでもなくルゥナは寂し気に微笑んだ。
「次に勝つために一度退く勇気も必要です。誇り高い死を望めるほど私たちに後ろはありません」
「そうじゃな、皆には次の策の為に必ず撤退するよう言い含めよう」
命令が徹底されず被害が大きくなってしまえば、次の反攻作戦にも支障が出る。
クジャで集めて来た戦士たちには、メメトハから伝えた方が聞き入れてもらいやすいだろう。
「先日の勝利もある。誰もルゥナの指揮に異議はないとは思うんじゃが」
「全員で勝ち取った結果です。これからも全員の力が必要だと、そう伝えて下さい」
解放した捕虜を含めても六百程度の数。人間よりずっと少なくとも、貴重な戦力だ。無駄に死なせるわけにはいかない。
朝焼けの空を見上げて、やや力強く頷くルゥナ。
「……行きましょうか、アヴィ」
「ええ」
「貴女も、無茶はしないで下さい」
「ええ」
わかっているようには聞こえないアヴィの短い返事に、聞いている全員が苦笑した。
作戦の要は、どうしてもアヴィになってしまう。
明らかに一番危険で困難なところを。
当然のようにそれを受け入れるアヴィは、どういう心境なのだろうか。いつも表情は読みづらい。
ぼんやりとした顔が東からの朝日に照らされて、やや頬が紅潮しているようでもある。
「綺麗な朝焼け、ね」
「予定通りです」
東から差し込む光が、西に壁のようにせり出してきた雲に反射して美しい陰影を描く。
「きっとうまくいくわ。ルゥナとみんなで考えたのだから」
「……ええ」
先ほどとは逆に、ルゥナが短い言葉で応じた。
予定通り。西から広がる濃い灰色雲が届けるのは、人間どもに死を降らす雨になるだろう。
※ ※ ※
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