第三幕 043話 神洙の娘



「なぜ邪魔をしたのですか」

「くぁっ!」


 びしゃ、と。

 イリアの肌が音を立て、赤く腫れた痕を増やす。



「わたくしが! あれを! 殺すと!」


 容赦なく打ち付ける革の音と、吊るされた縄が軋む音。


「くっひぅっ! ごめ、なさいっ、あぁっ!」


 加減はない。いや、革製の道具を使っているところが加減なのか。

 本気で打つのならもっと堅い材質のものを選ぶだろうし、本当に手加減無しなら命を落としかねない。


 マルセナの息が荒くなっているのは、体力的なことではなく頭が熱くなりすぎているからなのだろう。



「はぁっ、はあ……イリアっ!」

「うひぁっ!」


 一際強く打つ音と、甲高い悲鳴。

 イリアの肌に浮いた汗が、ぶたれるたびに悲鳴と共に弾け飛ぶ。




「マルセナ様、どうかお許しを」


 小さく声を掛ける。そろそろ限界だ。


「クロエ、わたくしに意見するつもりですの?」


 怖い。だけどもう見ていられない。


「それ以上はイリアさんが……」


 限界だ。こんなに己を苛むマルセナを見ていることが。



「……イリアはわたくしのもの、ですわ」

「ですが……いっ」


 ぴしゃりと、肩を打たれた。

 服が裂け、その痛みに涙が滲む。



「イリアはわたくしのもの。そうですわね?」


 くいっと、吊るされて項垂れているイリアの顎を掴み上げ、問いかける。

 そんな状態でもイリアは、マルセナの顔を近くに感じたことを悦ぶのか、陶然とした瞳で頷いた。



「はい……そうです。わたしは、マルセナの……」

「なのに! だのに!」


 再び響く革の音と、イリアの苦痛の声。



「わたくしの望みがようやく叶うところでしたのに」

「……」

「イリアが邪魔をしなければ、エトセン騎士団を……」


 そうは言うけれど、少し違う。あの時点でマルセナもかなり疲弊していたし、敵の数も少なくなかった。マルセナ自身わかっていたから、イリアに命令してまで追えなかったのだと思う。


 だとしても、マルセナの気持ちと反することだったこともわかる。



「あれらを滅ぼすのがお望みなら必ず叶えましょう。どうかお許し下さい」


 知らなかったのだ。マルセナがそんなことを望んでいたと知らなかった。

 もし最初から知っていたのなら、あらゆる手を尽くしてエトセン騎士団を打ち倒す方策を考えたのに。



「……今まで、言ったことはありませんでしたわね」


 不意に、マルセナが冷えた声音で呟いて、手近な椅子に腰を下ろした。

 深く座り、ふっと息を吐く。




 許されたのだろうか。

 安心していいのかどうかわからない。少し気持ちが別の方に向いただけのようにも見える。


「わたくしも……忘れていましたわ」

「……」

「勝てるのかもしれないと思ったから、でしょうか……今しかないのだと、急に思い出しましたの」


 マルセナ自身も、計画段階では考えていなかったということ。不測の事態でエトセン騎士団を倒せる可能性に至り、そこで心境が変わってしまった。


「焼け落ちる家……ああ、そうでしたわ」


 遠くを見る目で呟いてから、微笑む。

 シフィークに蹴り飛ばされたクロエとダロスが崩した篝火。その光景と何かを重ねて。


 シフィークの行動にも疑問は残る。マルセナを殺そうとしていながら、クロエやイリアは殺さなかった。出来なかったわけではないのに。

 頭がおかしい男のことなど気にするのは後回し。今はまずマルセナのことを。



「昔話をしましょうか」


 マルセナの微笑みは美しく、とても優しい。

 こんなに優し気な瞳を向けてもらったことはない。クロエもそうだし、きっとイリアも。



「わたくしたちが生まれるより前のお話ですけれど」


 生まれるより前の話なのに、どうしてそんなに優しい記憶を辿るように語るのだろうか。



  ※   ※   ※ 



 ユリナ・ボウダはロッザロンド大陸からカナンラダに渡った貴族の娘だった。


 貴族と一概に言っても、その立場も力も様々。ボウダの家は貴族社会の中でも中堅ほどの立ち位置だったけれど、それも永遠に約束されたものではない。

 新たな大地に希望や野心を持って渡ったものの、不運や読み違いも重なりその権勢は衰えるばかり。そもそも上り調子の貴族なら新大陸に渡りはしないものだが。


 そんな中、ユリナがカナンラダ有数の商家に嫁入りしたのは、黒涎山が崩れた年から数えれば七十五年前のこと。



 その二年後、ユリナは一人の女児を出産する。

 アンと名付けられた女児は、生まれつき原因のわからぬ病気を抱え、成人まで生きることは出来ないだろうと言われていた。


 ユリナが嫁いだ商家では、繋がりを得た貴族ボウダ家との関係もあり、治療方法を広く求めた。

 既知の手法だけではなく、伝説神話の類でも何かないか、と。



 一人の冒険者が、掲げられた神話の治療法の中の一つを持っていると言い出す。


 数年前に仲間を見捨てて魔境から逃げ帰った冒険者で、その噂の為に新たな仲間を得ることも出来ずに腐っていた男。

 そんな男が本当に神話に謡われる薬草を入手しているとは、最初は誰も信じなかった。



 神洙草。

 それがアンの命を救う。



 元々の資質だったのか神洙草の効果なのか不明だが、健康になったアンは優れた魔法使いの才能を見せた。

 自分を救ってくれた冒険者に感謝し、その娘を友として自身も成人前から冒険者として活躍するようになる。


 商家の方では、アンより後に生まれた男児を跡継ぎとして、彼女に関しては自由を許していた。病弱ということで当てにしていなかったのかもしれない。



 ほどなく彼女は近隣の町の守備騎士団に勧誘を受け、実家からの推しもあり所属することになる。


 本来、商家の姓を名乗るべきではあったが、そちらは悪い意味でも有名だった為、母方のボウダ姓を名乗り。騎士アン・ボウダ。



 当時、騎士団は冒険者とのやり取りや領主との関係に問題を抱えていた。

 それらは住民からの反感を買うこともあり、手を打つ必要があった。


 貴族の係累で、冒険者としても名を響かせていたアン・ボウダ。彼女を旗頭に出来ないか。


 当時十七歳だったアンに精鋭の騎士をつけて魔境を踏破させるなど、宣伝にも力を入れたという。

 そんな中、螻々房るるぼうと呼ばれるオケラ型魔物の異常種――千年級の魔物を討伐したことも、彼女の名をさらに高めたのだと。



 アン・ボウダの名は、伝わっていない。


 彼女は裏切り者として、裏切られた。

 エトセン騎士団によりその名を抹消され、存在を白く塗られた。黒く潰された。


 その町に暮らす年寄なら覚えている者もいるのだろう。

 彼女の名を口にすれば投獄されるような時代があったことを。



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 読者様に楽しんでいただけているか、常に不安を抱えています。

 感想などいただければとても嬉しく思います。

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