第三幕 025話 救いの暗い手_1



 この一夜だけでいいから、と。

 伝説の氷乙女にそんなことを言われる日が来るとは、夢にも思ったことがない。


 人間どもを殺した砦で明かす一夜。ルゥナからも、ひどく傷ついた様子のティアッテを頼むと言われた。


 以前の彼女を知っているサジュの者たちには、弱った自分を見られたくなかったのだろう。

 嗚咽を繰り返す彼女を、ただ抱き留める。



 どうしてこんな目に。どうしてこんな非道なことが。どうして。


 解放されたことで余計に、一気にそんな気持ちが押し寄せてきてしまい、自分だけでは整理が出来ない。

 ミアデより年上のティアッテだが、だからと言って受け止められるものではないだろう。



 ミアデとセサーカは長い奴隷生活を経て、そんな嘆きはとうの昔に過ぎてしまった。

 もっと昔は、今のティアッテ以上にひどく泣いていたし、己の境遇を呪っていたこともある。

 いずれそんな感情すら薄れて、ただ諦めの日々を続けるだけになっていただけで。



 アヴィと出会い、救われた。

 ただ奪われ、踏み躙られるだけの日々ではない。自らの意思で戦うことが出来るように。


 ミアデとティアッテでは状況が違いすぎる。

 だけど、その痛みの全てではないけれど、いくらかはわかる。見方によってはそれ以上の苦しみの時間を過ごしてきた。


 それを今のティアッテに言っても受け入れてはもらえない。

 この一夜だけでは無理だ。もっと長い時間がいる。彼女が再び自らの足で立つには。




「ごめん、なさい」


 嗚咽の中には、オルガーラという名前が何度もあった。

 ミアデを、別の片翼の氷乙女オルガーラと重ねているようにも聞こえた。なんだかこそばゆい。


「……嫌な思いをさせてしまって」

「そんなことないよ。なんで?」


 光栄だと思うし、ついでに言えばティアッテはとても綺麗だ。

 親愛の気持ちはなくとも、伝説の氷乙女であり綺麗な彼女に縋られて、悪い気分などない。


「だって、私は……」


 言葉は次第に小さく、途切れる。


「……」


 無理に聞き出そうとはしない。今は彼女の心の波が大きすぎる。



 普通の女ではない。

 戦いに身を置き、いつ死ぬかもしれぬ日々を過ごしてきた。


 虜囚となった者の扱いを聞いていたはず。またおそらくは、敵に捕らわれ無惨な扱いをされた亡骸を見たこともあっただろう。

 ただ平和に暮らしていただけの者とは違い、もっと身近に危機を感じていたはずだ。


 それでもやはり、我が身に降りかかった災禍を受け止めきれない。

 悲嘆に暮れ、忌まわしい記憶に慟哭する。

 時にミアデの腕を握る手に力が入り過ぎてしまうが、ある程度は我慢できた。


 どうしたらいいかわからないが、放って置いて気狂いにでもなられたら困る。そうならないという保証はない。



「私は……汚いのに」

「ああ、そういうことなら……悪いんだけど」


 ティアッテの苦悩を、そんなことと言うつもりはないのだけれど。


「ほら」


 ティアッテの手を取り、自分の首に触れさせる。

 たおやかな指先が触れると、ぞくりとした。



「……傷痕?」

「あたし、南部で人間の奴隷だったから」


 日中も見えていたはずだが、他の多くに気を取られてわかっていなかった。

 あるいは、人間の奴隷だったミアデが清廊族の戦士として戦っているなど、思いもしなかったのか。

 ルゥナの首にも傷痕は残っていたはずだが、それも戦いの傷か何かと思い込んだとしてもおかしくない。



「呪枷をね、つけられて。セサーカと一緒に小さい頃から……アヴィ様たちに助けられるまで、ずっと」

「そんな……」


 言葉を失うティアッテに、そっと頭を振る。


「つらかったよ。生きてるのが嫌だった。心の中では、憎くて憎くて、八つ裂きにして何度も殺したいって思うような相手の命令に逆らえなくて。途中からはもう生きてるって思うのやめてた。ただいつか死ぬまでの時間を、苦くて痛いだけの毎日を過ごしているだけ」



 嘆き悲しむ段階は過ぎて、諦めの日々を。

 そう思ったが、やはり違う。いつまででもその嘆きも悲しみも、憎しみも怒りも。ずっと残っている。いつまでも心の奥底で静かに焼き続けていた。


 絶対に殺す。

 絶対に殺す。


 ミアデやセサーカ、仲間たちに苦しみの日々を強いた人間どもを、全て根絶やしにする。

 そんな囁きと共に心の底を焼き続けてきた。



「力をくれたんだ」

「……」

「アヴィ様とルゥナ様が、あたしたちに。生きる力を」


 想いを遂げる力を。



「だからあたしにとっては、どこの誰よりも大切なの。姉神様よりも尊敬しているかも」

「そう」

「出来るなんて思ってなかった。でも今は違う。あたしたちなら必ず出来るって信じてる」



 熱を込めて語ったのは、少しだけ思惑もある。

 もう一度、この氷乙女の心に火を灯せないかと。


 あの戦斧を投げた時の彼女の力を肌身で感じて、思い知った。

 ミアデとは別種の生き物とさえ思うほどの異質な強さ。足を失ってさえ、正面から戦って勝てる気がしない。


 どういう形でも、ティアッテに戦う意志が戻れは大きな力になってくれるのは間違いがない。

 そんな一助になればと語った。けれど。



「……」

「ごめん」


 再び震え出したティアッテの両肩を、強めに抱きしめる。


 性急だった。

 短慮だった。


 ミアデの気持ちを察したティアッテが、戦場に立つことを想像して、また心を大きく揺らす。

 良い方向にではない。明らかに悪い方向に。


 こうなることを見越してルゥナは言ったのだろう。心配ない、自分たちがやるから、と。



「ごめん、ティアッテ」

「ミアデ……わた、わたしは……」


 抱きしめて、額に唇を当てる。

 涙を零す瞳にも、口づけを。


「……私は、汚れて」

「なら、あたしはもっとひどく汚れてることになるけど」

「そんなこと!」


 やや強く、否定の声を上げた。



 もう一度、額に唇を。


「……ミアデ」


 甘えるような声音。

 縋るように。



 これが氷乙女の姿とは、誰にも見せられない。

 清廊族の誰かが見れば不安に思うはず。ましてサジュの戦士だった者たちには決して見せられない。

 だが、ミアデならある程度は彼女の気持ちを理解できる。受け止められる。



「……」


 目を閉じるティアッテに、どうすべきか。

 セサーカに対する罪悪感はあるのだけれど。


「ん」


 後でちゃんと話して、許してもらおう。やましい気持ちなどなかったと言えば、たぶん。



「ミアデ、あぁ……」


 唇に熱を感じると、ティアッテの身の強張りは少しだけ和らぎ、震えは少しずつ収まっていった。



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