第三幕 026話 救いの暗い手_2



 溜腑峠を引き返す前に、人間どもの残していった物資をまとめている。


 この砦を守るには数が足りない。

 それに目的はこんな砦ではなくサジュの町を取り戻すこと。ここに手を割いている場合ではない。



 囚われていた清廊族の戦士たちも、動ける者は共に働く。

 辛くとも、嘆いていて状況が良くなるわけはない。むしろ何かしている方が気が紛れることもあるかもしれない。


 聞こえてくる言葉の中に、人間に対する怨嗟も少なくなかった。

 こうした経験を経て、憎悪はより深く、敵意は強さを増して。

 うねるように、皆の気持ちがその暗い渦を大きく広げていく。心地よい。




 雑然とした忙しさの中心にありながら、ひとつだけ何かつまはじきのようにぽっかりと空いている空間がある。


 氷乙女ティアッテの座る場所。

 その周辺には誰も近付こうとしない。


 気遣いもあるのだろうが、彼女自身が拒絶しているような雰囲気も帯びていた。

 時折、忙し気に走り回る誰かの背中を目で追いながら、ぽつんと。




「足、痛みますか?」


 そんな雰囲気をまるっきり無視して声を掛ける。


「まだ痛むのであれば癒しを」

「いえ、楽になりました」


 ティアッテは首を振って答えるが、その瞳は空を漂うまま。


「ありがとう。トワ、でしたね。心配は不要です」

「お役に立てたのならそれで」


 拒絶の空気を無視して隣に座る。歓迎はされていないけれど、だからと言って追い払われたりもしない。


「お忙しいのでは?」

「負傷者は皆さん癒しました。休憩しなさいと言われましたので」


 そう、と短い言葉を紡ぎ、それきり沈黙を。



 諦観。失望。無気力な様子。

 だがそんな風にしていながらも、瞳がつい追ってしまっている。

 求めている。


「欲しい、ですか?」

「……何の話です」


 惚けなくてもいいと思うのだけれど、彼女にも立場とか矜持とかそんなものもあるのだろう。

 体裁を取り繕い、欲しいものを欲しいと言えない。


 つまらないと思うのだ。そんな生き方は。

 自由に生きる権利があるのだとすれば、好きなものを求めて何が悪いのか。



 トワにはわかる。

 この氷乙女の心の奥底には、押さえつけている欲求がある。

 昨日初めて会ったのに、すぐに直感した。


 ――彼女は、前の私と同じだ。


 つまらない日々を過ごしていた自分と同じ。

 良い子であれと、誰かが理想とする自分であれと。

 そうして、自分の心を、気持ちを、蔑ろにしていた時の自分と同じ。


 生きていない。自分の為に生きていない。


 ティアッテ自身も気付いていないのかもしれない。自分が自分を押さえつけていることに。



「欲しい、でしょう?」

「……」


 トワの視線がちらりと、快活な少女の横顔を映した。


「私は、そんな……」

「貴女は長く清廊族の守りとして、立派に役目を果たされてきました。こんな惨い目に遭われて」

「……」

「そんな貴女が一つくらい、思うままにと望まれてもいいと私は思いますよ」



 ご褒美を上げよう。

 頑張った貴女に、何でも一つだけ。


「戦うのが戦士の役割です。それこそが誉れでしょう」


 どこまでも、善い子。良いお返事。


「貴女は報われなければなりませんよ、ティアッテ。それが責務です」


 善い子には、甘い蜜菓子を。




「……責務とは?」


 ティアッテの瞳が、ようやくトワを映した。

 蜜を求めて。


「立派に戦った方には相応の喜びを。それは後に続く戦士の力となるはずです」


 労苦には報いを。

 それを見た者が、また己もと奮起するためにも、功労にはそれに見合った幸福が与えられるべきだと。


「それは……」

「貴女が報われないのであれば、誰がその後に続こうと思うのですか?」


 他の清廊族の為に、ティアッテの苦労に対する報酬を用意してあげる。

 なんでもひとつだけ、願いを聞き届けてあげる。



「勇敢に戦い続けた氷乙女ティアッテ。戦いの中で足を失い、その後の余生は愛する者と穏やかに過ごした。そういうお話も必要なんですよ」

「……ミアデは、この後も」


 ほら、欲しいんでしょう。それが。



 気位の高い女性に見える。見栄が、見える。

 そんな彼女が取り繕わずに甘えられるとしたら、過去の彼女を知らない相手。


 誰かに助けられたという経験も少ないだろうティアッテにとって、ミアデは今までにない存在になった。たった昨日のことだけれど劇的に。

 ミアデは適役だったのだと思う。可愛さと甘さと頼もしさを揃えて、裏表のない気持ちの良い性格をしている。


 トワから見てもミアデは魅力的だ。ルゥナの次くらいに堕としたい。ミアデがトワに縋って甘い声を上げる姿も見てみたいけれど。


 でも、一番はルゥナ。

 ルゥナの心をトワだけに染める手段になるのなら、ミアデのことは諦めてもいい。



「すぐには無理でも、私からお願いしてみます。ミアデを貴女の傍に置けないかと」

「……どうして?」


 微かに覗く不安と疑念。

 なぜトワがそんなことを言い出すのか。何が目的なのかわからなくて、訝しむ。


 少し考える振りをして見せてから、微笑んだ。



「憧れていたんです」


 嘘だけれど。


「氷乙女に、私も」


 ルゥナが、ティアッテに。



「……幻滅したでしょう」

「まさか」


 嫉妬しただけですよ。

 深く、暗く。



「みんなの憧れのティアッテに、幸せであってほしいと思うんです」


 貴女はきっと、トワと同じだから。


「そうでなければ、悔しいじゃないですか」

「悔しい?」

「頑張ったら報いを。貴女の望むものを得られるよう、お手伝いをさせていただきたくて」


 手を差し伸べる。


「……私には、あの」

「オルガーラにどんな顔をして会うのですか?」


 言葉にすれば、壁は明確に姿を現す。

 ティアッテの逃げ道を塞ぐように訊ねた。



「気にしなくていい。貴女が責め苦を負うことではない。誰もがそう言うでしょうが、貴女自身はそれを飲み込めない」

「……」

「割れた皿を戻すように、その継ぎ目は元通りになんてならない。元の形を知っているから、ずれた断面は貴女をまた傷つけるのでは?」


 結ばれるティアッテの唇は固く、その瞳は怯えを色濃くする。



「オルガーラを見つければ、誰もが貴女に引き合わせようとするでしょう。悪意ではありませんが、その善意の残酷さも考えずに」

「トワ、貴女は……」


「奴隷をさせられていた頃に一番に嫌なことでした。親しい者に、辱められ傷ついた自分を見られるのは」


 気遣いが、傷に障る。

 痛みをよりはっきりと自覚させられて、痛い。


 オルガーラがどこかで無事でいるとして、ティアッテの無事を知れば喜ぶだろう。当たり前だけれど。

 だが当然、傷物に触れるようにする優しさは以前の彼女たちの関係とは異なり、それがまたお互いを傷つけてしまう。

 悪意などどこにもないのに。



 だから会いたくない。会うのを怖れている。

 だけど辛い。苦しくて狂おしくて、助けてくれたミアデに救いを求めた。

 陽だまりのような温かい子だ。その温もりに弱ったティアッテは溶けてしまい、もっと欲しがる。



「私が一番、今のティアッテの気持ちを理解出来ていると思うんですけど」

「それは……そう、かもしれません」

「貴女がオルガーラを大事に思っているのは間違いないでしょう。オルガーラの方も同じ。だけど、だからこそ少し間が必要なこともあります」


 ティアッテの瞳から、警戒の色が薄れた。

 けれど戸惑いはそのまま。



「どうすれば……」

「私にお任せ下さい」


 手を差し伸べる。


「すぐには無理でも、ティアッテの望みを叶えてみせますから」

「トワ」


 どんな願いでも、ひとつだけ。



「……いいのですか?」


 手を取りながら訊ねるなんて、ずるい。


「ええ、その代わり」


 ずるい者には、代償を。



「私のお願いも聞いて下さいね」


 トワはとても善い子なので、ご褒美を。



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