第二幕 048話 痛くて甘い



 ニアミカルム山脈でも、夏の日中の気温はそれなりに高い。

 夜になれば涼しい。場合によっては寒く感じるだろうが、清廊族は寒さに強い。


 何事もなければ心地よい涼感のはず。

 あまり気分がよくないのは、臭気のせいだ。


 獣臭さ。

 血と、腐肉の臭い。

 クジャから真白き清廊に続く山道で慣れてしまったような気がしていたが、夜になると意識に立ち入ってくる。


 夜が、感覚を鋭敏にさせているせいだろうか。



 パニケヤから聞いた話を頼りに伝説の氷弓皎冽を探しに来たものの、簡単には見つからなかった。もう三日目だ。


 周囲には無数の魔物の死体が転がっている。

 死体の山とまでは言わないが、歩くのに邪魔な程度には。


 生きた魔物の姿もあるのは、クジャから逃れた生き残りなのか、別の場所から来たのか。

 死肉を食らうそれらは、ニーレ達の気配に逃げ出すものもあったし、襲ってくるものもあった。

 異常な個体はいなかったので、襲い来る魔物を駆除するのにさほど問題はない。


 ニーレ達だけでなく、リィラもメメトハの傍仕えをするだけの腕前だった。

 共に戦うことでそれを知ることもできたし、ある程度の信頼も生まれる。

 リィラもまたニーレ達の実力を認めて、肩を並べるに値すると判断してくれたらしい。



 最初に会った時のことを謝罪すると、リィラの方からニーレと見回っている時に言ってきた。

 クジャに着いて、紡紗廟で話した時の態度を。


 呪枷の傷痕のことを物珍し気に見て、その過去を侮辱した。

 決して愉快なことではなかったが、謝りたいというのなら受け入れる。

 リィラにとっては知り得ぬことであり、想像も出来ないこと。

 こうして少しでも痛みを労わる気持ちを抱いてくれるのなら、責める必要はない。


 ニーレよりもトワとユウラに、と言った。

 昨夜、ニーレを置いてどこかで話し込んでいたようだ。


 随分と長く、戻ってきた彼女らの雰囲気が微妙な空気だったのは、涙していたのかもしれない。

 リィラもまた先日、親しい友を失くしているのだから。



  ※   ※   ※ 



「見つかってよかった。ありがとう、みんな」


 目的の氷弓は、ニーレの手にあった。

 今日も駄目なら一度戻ろうかと話していたところだったが。


「ユウラのお陰ですよ」


 トワがそう言ってニーレの目線をユウラに促す。


「ユウラの歌に響いたんです。その弓が」

「あはは、探すのに飽きて歌ってただけなんだけど」


 魔物の死骸の中に埋もれていた清廊族の戦士の遺体。

 その手に握られた透き通るような不思議な材質で出来た弓をトワが見つけた。


「ああ、そうだね」


 ユウラに向けて頷いて見せてから、またトワに視線を戻す。


「トワも、よく気が付いてくれたよ」

「……そうですね」


 微笑むトワの顔は、月明かりに照らされていっそうに白い。



 魔物に荒らされ、あちこち崩れた真白き清廊。

 その一室で夜を過ごして、明日の朝になったらクジャに戻る。


「少し……」


 それまで黙っていたリィラが立ち上がり、ニーレの後ろの出入り口に向かう。


 独りで考え事でもしたいのか、ただの小用か。

 何も思わなかった。

 ニーレがリィラの行動に何を考えたのかと言えば、友を失った彼女の表情に陰りがあるのは仕方がないか、という程度。


 足を止めたリィラが、ニーレの首に腕を回すなど、予想もしていなかった。



「っ!」

「抵抗しないで……お願い」


 やっていることは敵対的なのに、リィラの声音は泣き声のように響く。

 あまりに弱々しくて、抵抗することが悪いかのように。


「な、にを……」


 拘束される。

 だが、苦しめようとか傷つけようとか、そういう力の入れ方ではない。

 首に回す腕と反対の手で、ニーレの腕を背中に捩じられた。


「お願い、だから」



 何をお願いだと。

 ついされるがままになってしまったが、放っておくわけにもいかない。

 この体勢から反撃はしにくいが、ニーレには仲間がいる。


「トワ!」

「……やはり、そうですね」


 溜息。

 返されたのは、溜息。


 呼びかけたトワに、溜息を返されてしまった。



「ニーレはどうして、本当に……」

「……いいんだよ、トワちゃん。わかってたから」


 溜息と、嘆息と。

 ニーレの仲間から、幼い頃から共に過ごしたかけがえのない友から、そんな音だけが漏れる。


「トワ……ユウ、ラ?」

「ニーレちゃんはね」


 見る。

 改めて、見る。

 いつからだったのだろうか。

 いつから、自分は彼女の顔を真っ直ぐに見ていなかったのだろうか。



 罪悪感があった。

 思慕の瞳を、重く感じて。

 嫌いなわけではない。嫌っているわけではない。

 妹のように愛しているユウラから、もっと重い瞳を向けられることをどうすればいいのか。


 傷つけたくないから、見ない振りをした。

 今は一時、恋や愛に似た熱病に罹っているだけのこと。

 いずれユウラも自分ではない何者かに惹かれて、離れていくだろうと、そう思うことで逃げた。


 見ていなかったユウラの瞳が、こんなに濁っているなど。

 いつからだったのか、見てこなかったニーレにはわからない。


「ユウラ……?」



「ニーレちゃんはいっつも、トワちゃんのことばっかりなんだもん」



 知ってるんだ、と。

 ニーレの知らないことを、知っているのだと。


「なんの……何を言って……」

「それさぁ」


 ユウラの手に握られたトワの包丁。

 ぎらりと、月を照らし返す。


「とぼけるの、やめてほしいんだけど」

「……」

「それとも本当にわかってない?」


 刃が、ニーレの頬に向けられる。

 ひんやりとした金属が、ニーレの頬の熱を奪っていった。


「自分がどんな目でトワちゃんを見ているか。いつも、いつもいっつも、トワちゃんのお尻ばっかり!」

「ち、ちが……」

「違わないよ、ニーレちゃん」



 何なのだ、この状況は。

 おかしい。ユウラがおかしい。

 トワもそれを止めない。

 リィラがそれに与している。


 ニーレは、何を責められているのか。



「わかんないかなぁ、ニーレちゃん」

「ゆ、ユウラ……ごめん、謝るから……」


 何が間違っているのかわからないけれど、とにかく自分が間違えたのだ。

 優しいユウラが、こんなことをするはずがない。


 ニーレが間違っていて、ユウラが怒っている。

 そんなことは今までなかったけれど、そうに違いない。



「なにを謝るの、ニーレちゃん?」

「わ、私が……私が、悪かったから。ユウラ、やめ」

「違うよね」


 呆れた、というように肩を落としてユウラが離れる。

 トワと目を合わせて、もう一度肩を竦めた。


「……トワちゃん、どうかな?」

「悪いのはユウラですよ。どう見ても」


 刃物を持つユウラに、トワは何の遠慮もなくそう言って退けた。

 恐ろしくないのだろうか。

 ユウラの狂気が。



「だよね」


 言われたユウラだが、その通りだと頭を掻く。

 もう一度振り向いた瞳がニーレを映すが、やはりそこには濁った色が濃くて、濃過ぎて、何も見えない。


「ニーレちゃん、わかってないのに謝るのってさ。違うじゃん」

「ご、ごめ……ごめん、なさい。ユウラ、話を……」

「今までさんっざん私のこと無視しといて! 今から話を? あははっ!」


 笑う。

 まるでユウラの声には聞こえない嗤い声。

 崩れかけた夜の真白き清廊に響き渡る。



「もう一回聞こうか、ニーレちゃん」


 仕切り直し、と言うように。


「どうしてなのか、わからない?」


 優しい問題だよ、と。

 いつものように、優し気な笑顔で訊ねる。



「わ、わたしは……そんな、つもりは……」

「……」


 ユウラの目がすうっと細められる。

 間違えたニーレを蔑むように。

 けれど、瞬きするうちにその表情がいつものユウラの笑顔に戻った。


「うん、ニーレちゃんはそうだよね」


 わかってるよ、と。

 トワの包丁を片手に遊びながら、首を傾ける。


 右に、左に。

 右に、左に。



「そんなつもりはない。トワちゃんを欲情の対象に見たりしていない。ユウラを傷つけるつもりなんてない」

「あ……あ……」

「私がどれだけ傷ついたか、知ってもらおうかと思ってさ」


 ぴっと、首の傾きが止まる。

 傾いたまま止まり、包丁が上げられた。


 ユウラの持つ包丁が、ニーレの鼻に向けて静止する。


「……っ」



 もし、ニーレの行いでユウラが傷ついたのだとしたら。

 それなら、痛みを負うことも受け入れる。

 ニーレにとってユウラは大切な家族だ。

 無意識にでも傷つけていたのだと言うのなら、甘んじて痛みを受け入れよう。


「……ユウラ、ごめん、ね」

「違うんだよ、ニーレちゃん」


 覚悟を決めたニーレの目の前で、ユウラが刃を突き立てた。



「っ!」


 自分の頬に。

 柔らかいユウラのほっぺに、無骨な包丁が深々と突き立てられる。



「ユウラ!」

「う、っつぅ……いたい、なぁ……」


 涙が零れ落ちる。

 傷の痛みで、ユウラの目から涙が零れて、真っ赤な血を流す傷口に流れ込んだ。


「やめっ、ユウラ何を!?」


 止めようとするニーレの体を拘束するリィラの腕が、力を増した。


「離せ! 何をしてるんだお前たちは! トワ!」

「リィラ、離したら許しませんよ」


 はい、と。

 まるで主から命じられたかのように、リィラが無機質な声で返事をする。

 ニーレの首のすぐ後ろで、無感動に。

 だがその腕力は、一流の戦士としてニーレの動きを制限したまま。



「いたい、よぉ……ニーレちゃん、いたいんだよぅ」

「やめるんだユウラ!」

「でも、ニーレちゃんがわかってくれないんだもん」


 再び、今度は自分の足に包丁を突き立てた。


「ぐぅぅっ……いた、い……ねえ、ニーレちゃん、わかるぅ?」

「ばか! わかるから、わかったからもうやめ――」

「まぁだわからない、よねぇ……」


 わけがわからない。

 ニーレの目の前で自分の体に刃を突き立て続けるユウラを、やめさせようと喚くけれど。

 黙ってニーレを拘束するリィラと、その光景をただ見つめているだけのトワ。



「トワ! お前が……こんなことを!」


 涼しい顔をしているトワの瞳は、澄み切った濁り色で。


「私はユウラのお手伝いをしているだけですけれど」


 やはり、この銀色の娘が。


「ああ、やっぱりぃ……ニーレちゃんは、トワちゃん、のこと……ばっかりぃぃ!」


 傷が増える。

 自らを傷つける行為にはためらいが消せない。

 傷は、最初の頬の傷ほど深くはならないけれど、血が多く流されては。



「やめてくれ、ユウラ! そんなことしちゃだめだ!」

「だってぇ、ニーレちゃんが……」

「わかったから! もう、わかった。わかったから! 私が馬鹿だった。ユウラが傷つくところなんて見たくない!」


 尚も自らを傷つけようとするユウラに、哀願する。


「ユウラ以外は見ない! 約束するから……」

「……」

「お願いだ、ユウラ……私は、ユウラを愛しているから……」



「また嘘かぁ」


 ニーレの言葉に、嗤い声と共にまた傷が増やされた。

 もうユウラの体は血塗れで、どこに傷がないのかわからなくて。



「愛するから!」


 叫んだ。


「ずっと、ユウラだけを愛するから! ユウラだけを見るから、だから……」

「……」


 嗤い声が止む。

 病みが、止む。


「……ほんと?」


 期待に満ちた問い掛け。


 ユウラが求めていた愛は、これまでなかった。

 それを与えると叫んだニーレの言葉に、願いを込めて。


「本当だ……本当に、する。だからお願い……お願いだから、もう……許して……」

「トワちゃんのこと、見ない?」

「……仲間として、だけ」


 ユウラの瞳が、また細く。

 それから、嗤う。



「真面目だなぁ、ニーレちゃんは」


 顔から、体から、血を流しながら笑う。

 いつものように、朗らかな声で。


「そこは嘘でも絶対に見ないって……言わないのが、ニーレちゃんらしいかな」


 止んだ。

 ユウラの瞳が、ニーレの知るユウラの色を取り戻す。

 その奥にはまだ病みの種が残っているけれど。



「……今日は、これで許してあげる。ね」


 自らを傷つけ回して、勝ち誇ったように。

 リィラの拘束が解かれたニーレは、その場に膝から崩れ落ちた。


「う……う、ぁ……」


 敗者のように、這いつくばって。

 上から、血に塗れたユウラの指がニーレの顎を撫でた。


「これからは、私だけを見てね。ニーレちゃん」


 血塗れの口づけを交わした。



  ※   ※   ※ 



「怖かったんだ……」


 帰りの道中、リィラから謝罪を受ける。


「お互いを傷つけ合って、嗤うのを……見せられて。怖かった」



 前の晩にリィラは既に篭絡されていた。

 トワとユウラに逆らえないような何かがあったのだと。


「私にも……傷と、癒しを……何度も……」


 それ以上は聞かなかった。聞きたくもなかった。



 傷をトワに癒されたユウラは元気そうで、ニーレの体に必要以上に触れる。

 歩きにくいこともあったが、ユウラの好きなようにさせた。

 ユウラがあんなことをしたのは、ニーレが逃げてきたからだ。

 全てニーレの。ニーレの負うべき責任。



「もう、諦めないことにしたんだ」


 晴れやかに笑うユウラ。

 ニアミカルムの空も、群青に晴れ渡り。


「ほしいものは、ね。どんなことをしても」


 それは、奴隷だった頃には許されなかった望み。

 ユウラが望むのなら、きっと。

 ニーレは、愛する家族の為にそれを全力で応援すべきだろう。

 その為に出来ることなら、何でもする。


「ユウラの為に、私に出来ることがあるなら」


 この気持ちは嘘ではないはずなのに。



  ※   ※   ※ 

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