第二幕 047話 甘くて苦い



 安らぎは、麻薬だ。

 心が麻痺してしまう。

 温かい方に、流されてしまう。


 甘いものを食べたことがない私が、甘いものを知り、甘いものに溺れる。

 そんな強い引力が怖い。



 敵が欲しい。

 優しい日々に、心が溶けてしまわぬように。

 身を焼くような暗い殺意の中にいたい。


 清廊族の都まできた。

 ここまで来たら、本当に敵がいなくなってしまう。

 だから敵視できる相手がいたのは幸いだった。



 ぬくぬくと生きてきた愚かな小娘たち。

 その泥濘のような悪意には覚えがある。

 蔑む対象を見る、卑しい悪意。


 それを見た時、正直に言うなら。私は嬉しかった。

 なんだ、ここにも敵はいるではないか。

 こういう悪意に対しては、つい感情的になってしまう。


 私の得てきたものを、大した理由も根拠もなく踏み躙ろうとする敵。

 溢れ出す殺意は、冷気となって噴き出した。

 殺すわけにはいかないけれど、殺したい。

 殺したら、気分が良いかもしれない。


 ルゥナが止めるのはわかっている。

 けれど、私は……

 ミアデにも止められて、冷静さを取り戻す。

 だからやめた。




 私は、ルゥナの扱いに困っている。


 最初は違った。

 母さんが残してくれた、私の手足の一つだと。

 そう思って、私の良いように扱った。


 温もりを求めて、寂しさを紛らせて。

 そんな私とのことを、ルゥナは愛情だと錯覚している。

 違うのに。

 ただ都合が良かっただけ。


 本質的には、彼女を奴隷として使役していた連中と変わらない。

 私が、ルゥナを私の奴隷として扱った。

 だというのに、ルゥナはそれを愛情と捉えて、間違えている。



 突き放したい。

 私の目的はあくまで私のためのもの。

 ルゥナは関係がない。

 ただ、最初にそこにいただけ。


 私は、母さんじゃない。

 母さんなら、自分の体にひっついたものを、簡単に切り分けられたかもしれない。

 母さんは粘液状の魔物だったから。


 私は違う。

 私にひっついたルゥナを切り離すには、きっと痛みなしには出来ない。

 痛いのは、私だけではなくて。

 むしろ、きっとルゥナの方が痛くて、痛くて、死んでしまうかもしれなくて。


 どうすればいいのか、わからない。

 時折、わざと冷たくしてみたりもしたけれど、そうすると彼女はひどく傷ついた顔をする。

 それだけで、私の心は迷う。

 私は弱いから。



 仲間がいる。

 家族のような仲間たちが。

 彼女らがいれば、ルゥナを支えてくれるだろう。

 私がルゥナを切り離したとしても、きっと傷ついたルゥナを救ってくれる。




 まさか、処女だったとは思わなかった。


 人間の奴隷として暮らしていたことを知っている。

 ルゥナは可愛いから、当然のように性的な対象としてひどく扱われただろうと。そう思って、そんなことを確認したことはない。

 聞くべきことでもないし、もちろん彼女からそんな話をすることもなかった。


 私にとっては、ルゥナがどんな過去であれ気にするところではない。

 不幸な中でも、せめて少しばかりは救いがあったかと思うくらいで。


 ただ、他の仲間たちがどう受け止めるかは不安だった。

 杞憂だったけれど。


 思った以上に、仲間たちは……というか、清廊族というものは、純朴に出来ているように思う。


 人間なら、もっと腐って汚れた感情を煮詰めて、ルゥナの幸運に自分たちの鬱憤を向けただろうに。

 誰かの幸福を喜ぶよりも先に、自らの不幸を呪う。人間ならきっとそうだ。

 清廊族は、魔神の恩寵により魔物寄りの性格をしているのかもしれない。




 人間を滅ぼす。

 私の復讐の為に、人間全てを滅ぼす。

 母さんの力はその為にある。

 それを果たしたら、私は母さんの下に行く。


 ルゥナは……



「アヴィ」


 話をしたい。

 そう言っていた。


「少し話を……」

「ええ」


 他の仲間たちは遠慮して、いつも夜はルゥナと私だけだ。

 改めて言わなくてもよかっただろうに、改まったのは、それなりの理由があるのだろう。


 落ち着かない様子で、近くまで来て。

 やはり落ち着かないまま、目線を迷わせる。

 緊張しているのだとすれば、話したい内容はわからないでもない。

 また間違えるのだ。この子は。



「……そういえば、なんでしたか。大長老の魔法を見ながら言っていましたよね」


 迷いながら振る話は、きっと本題ではない。


「超臨界流体。どういう意味でしたか?」

「ああ、あれ……」


 パニケヤが怨魔石にルゥナの血液を染み込ませる為に行っていた魔法。

 不意に思い出して、つい言葉にしてしまっただけ。


「過熱水蒸気……極端に圧縮して過熱した液体が、気体と液体の両方の特徴を持つことよ」


 ルゥナも本気で説明が聞きたいわけではないのだと思う。

 何から話すか迷って、思い出したことを訊ねただけだと思い、返答も素っ気なくなってしまった。


 簡潔な返答に、ルゥナの首が少し斜めに傾く。

 理解ができない。



「……よくわかりませんが。アヴィは時々、妙なことを知っていますね」


 どこでそんな知識を、と聞かれても困るけれど。


「おおぶ……焼き窯が、あったの。圧力をかける鍋みたいなもの、かしら」

「ああ、重い蓋で密閉する鍋ですね。火の通りが良いのだとか」


 私が過去に聞いた焼き窯の説明を、ルゥナが自らの知識で補ってくれる。


「あの魔石の加工も料理のような手順だったのでしょうか」


 少しおかしそうに笑い、その笑いで心が落ち着いたようだ。

 くすりとした笑みが収まると、今度は真剣な表情で私を見つめる。



 どうしてそんな思い詰めた目で、私を見るのだろうか。


「お願いがあります」


 それを聞いたら、貴女は私の願いを聞いてくれるのだろうか。

 どうか傷つかずに私から離れてほしいと。


「私を……貴女のものにしてください」

「……」


 どうして、傷つこうとするのだろう。



「そんな顔で言うこと、かしら」


 悲壮な顔で。

 きっとそういうのは、よくわからないけれど。

 たぶん、もっと……幸福な気持ちを抱いて言うべきことなのに。


「私は、特別……ですよ、ね?」

「……」

「嘘、ですか?」


 ひどく怯えた顔で聞かないでほしい。

 あの時は確かにそうだった。

 最初の頃は、ルゥナは他者ではなくて私の一部だと、そう決めつけていたから。

 それは私の間違い。


 ルゥナは私ではない。

 他の仲間たちと話していく中でわかってきたのだ。

 この子を復讐の道具にするのは、私の間違いだったと。


「嘘、でしたか?」


 くすんだ紅い瞳が、輝きを失くしていく。

 私の答えを求めて、不安に翳る。



 嘘だと言ったら、どうなるのだろうか。

 ふと思う。


 貴女が特別だと言ったのは、その場しのぎの嘘だったと。

 裏切られたと、アヴィを激しく責めるだろうか。

 泣き喚き、自らを殺すこともあるかもしれない。


(この子を、不幸にしたくない)


 言葉には出来ない。

 今更、そんな言葉をかける資格など、私にはないのだから。



 私の進む道には幸せなどない。

 私の幸せは、この世界のどこにもない。

 どこの世界にも、もうない。

 あってはならない。


 死。

 それだけだ。

 私の進む先にあるのは死だけ。


 母さんを殺した、私の世界を殺した人間全ての死を。

 それが母さんから託された私の使命。

 その為の力を残してくれた母さんへの恩返し。


 全ての人間を殺したら、母さんの下に行く。

 この世界に私の幸せなどないのだから、それが唯一の幸福への道。


 ルゥナも、そうすると言った。

 違う。

 言わせた。

 私の進む道を、ルゥナにも強要した。


 無関係なルゥナを、ただ偶然そこにいただけのルゥナに。

 彼女の温もりを貪り、母さんの代わりに私への優しさを強制して。



 真面目な子だ。

 口づけを交わして、自らそれを受け入れたのなら、相手を愛しているのだと自分を納得させている。

 愛してもいない相手に口づけなど、自身が許すはずがない、求めるはずがないと、生真面目に。

 愛情を錯誤しているルゥナに、今さら何と言えばいいのか。



「嘘なら……そう、言って下さい」

「嘘じゃ――」


 消え入りそうなルゥナの声に、思わず否定を返してしまった。


「……嘘じゃないわ」


 頭は回るけれど、考える方向が愚かなルゥナ。

 ミアデが言う通りの、大馬鹿。

 放って置くと余計に悪い方に転がる。



「メメトハに、何をしました?」

「……」

「口づけをしたのでしょう? 彼女は可愛いですから」


 やはり、悪いことばかり考えるのだ。

 悲観的に物事を考えるのは、生来の性分なのか、私が不安にさせているせいなのか。


「可愛いかどうかは、関係ない」


 そんなことはどうでもいい。

 誤魔化す必要性を感じないことだったので、今度は素直に答える。


「あれは、役に立つ」

「……」

「戦いを見てそう思った。だからキスしただけよ」

「……」

「近くにいて、隙だらけだったから」


 酷いことを言っているだろうか。だとしても事実だから。

 メメトハが聞いているわけでもない。

 戦いの役に立つのなら使う。

 あの口づけに意味があるのなら、その程度。



「貴女は……ルゥナはメメトハとは違う。特別よ」


 これだけ私を思い悩ますのだから、本当に。


「……はい」


 赤らむ顔が、私を苛む。

 近付くルゥナの顔に、私が不安になる。


「……どうしても、今なの?」

「お願いです、アヴィ」


 焦燥感。

 強迫観念。

 何に怯えて、そんなに?



「確かに、しておきたいんです」


 そんな曖昧なことを求めて。

 触れる肌の温もりは、優しく私を責める。

 こんな安らぎなど、私は求めてはいけないのに。


「……後悔、するわ」


 私が。

 無責任に、無思慮に貴女の温もりを貪ることを。

 貴女が。

 好きでもない相手に捧げたことを。


「……しませんし、させません」


 こんな時にはどうして、そんなに強く断じられるのだろう。

 いつも弱々しいくせに。


「ばか、ね」



 私も。

 ルゥナも。

 本当に、救えない大馬鹿。



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