第二幕 031話 ロドの不運_2
ロドが望んだのは、贅沢な暮らしではない。
口下手なロドは、出来るだけ静かに平穏に過ごしたかっただけ。
町から離れた牧場で、影陋族に近寄らぬよう見張る仕事は、ロドにとって性に合っている仕事だったはずなのに。
不運だった。
牧場が襲撃されたところを生き延びたのは、不運だった。
呪術師の命令で町まで人を呼びに行き、戻ったところで呼ばれた。
――ぬしに、やろう……これ、を。
赤い色をした腕輪のようだった。
大したことをしたつもりはなかったが、屋敷が半壊するような大変な事態だ。
褒美をもらったと思い、腕に嵌めてみた。
ロドの心はぐじゃぐじゃになった。
赤い腕輪がロドの頭の中にわけのわからない感情を捩じり込み、体もぐじゃぐじゃになっていた。
――つりあわ、ぬ……か。なれ、ど……ちからには、なる。
呪術師はロドを観察しながら、まるで評点でもつけるように独り言ちる。
ロドはそれを地べたでのたうち回りながら聞いていた。
ようやく意識がはっきりしてきたら、主人の客人と共に山に行けと言われた。
ロドの中に根付いたロドではない意識が、逆らってはいけないと告げる。
何者かの本能が、ロドの行動を決める。
山を越える間、魔物に襲われた。
逃げたいロドと、食らいたい本能とが争いながら、だがこの体は思うよりずっと強靭に出来ていた。
山を越える。
越えて、
途端に、ロドと、主人の客人とに追いやられていた山の魔物たちが、雪崩のように動き出す。
山の魔物たちは、ロドと、ロドが逆らってはいけないと感じた同行者にひどく怯えを見せた。
狂乱して襲い来るものもいたが、多くは逃れようと山の反対側に行こうとしていたが。
そこには何か、やはり本能的に進むのを拒むような力の存在があった。
行きにくい理由が破られた途端、決壊する。
流れる魔物の群れが、辺りにいる魔物もまとめて数を増やしていった。
山にいた魔物たちが進むのは、山から下っていく道。
道ではなく、ただ谷のような地形がその方向に導いただけなのか。
その先には町が見える。
町に行けば、人間がいるかもしれない。
ロドを助けてくれる人間がいるかもしれない。
狂乱する魔物たちと共に町を目指した。
町について、人間を見つけた。
人間ではなく影陋族だったが、混濁するロドの意識では見分けがつかない。
それを、食らう。
食らう?
ロドの意識とは別の何かの本能が、躊躇することなくそれを食う。
味は、わからない。
だがどうだろうか、やけに頭がすっきりする。
魔物を食い続けていたせいか、頭がずっと魔物寄りになっていたように思う。
だとすれば、この人間を食えば、ロドは人間に戻れるのではないか。
そんな考えが浮かんだ時、叩き伏せられた。
猛烈な力で地面に叩きつけられ、ロドは逃げだす。
怖い奴がいる。
恐ろしい。
ロドは静かに暮らしたいだけなのに、また邪魔するやつが現れた。
ぷちっと、潰す。
走りながら、見かけた人間を壁に圧し潰すと、ぷちりという感触があった。
追いかけてくる恐ろしい者から逃げながら、見かけた人間をそんな風に磨り潰して。
逃げるのは得意だ。
幼い頃、年の近い者たちと共に球遊びをすることがあった。
蔦を丸めて球をつくり、ぶつけ合う。球当ての遊び。
ロドは、ぶつけるのは下手だったが、避けるのだけは得意だった。
ふと本能が命じた。
追ってくる女の拳は痛いが、ロドの体に深刻な損傷を与えるには足りない。
その拳を受けると同時に、女を壁に叩きつけた。
ぷちりと、音はしなかった。
この女は強い。力も強いが、それ相応に体も強靭に出来ているらしい。
逃げようとしたロドの手を、女が掴んだ。
「母さんなら!」
母さん?
訝しく思った次の瞬間、激痛が走った。
鋭い爪を有する三本の指。
その一本を折られた。
「ぎやぁぁぁぁっ!」
反対の爪を振るうが女には当たらない。だが離れた。
「母ちゃん! かあちゃぁん!」
泣きながら跳ぶ。
途中、建物の庇にぶつかり屋根を吹き飛ばした。
指の節を折られた。
打撃は耐えられても、掴まれたら不味い。
あの女から逃げようと、もう一度大きく跳ねた。
「極冠の叢雲より、降れ玄翁の冽塊」
球を避けるのは得意だった。
はずだが、空中ではどうにもならない。
鉄の塊のような氷の球が、空に浮かぶロドの巨体を容赦なく打ち据えた。
「ぶげぇっぼ、ぶっ」
全身を打つ重い氷の球に涎と反吐を吐きながら落ちる。
屋根を突き破り建物の中に。
踏みしめた指が痛い。
折れた指……だったはずだが、もう動く。
動くけれど、まだくっついていない骨が、衝撃でひどく痛んだ。
邪魔をするやつらばかり。
ロドは静かに暮らしたいだけなのに。
建物は、どこにでもありそうな家だった。
屋根をぶち抜いて落ちて来たロドの目に、部屋の隅で怯える幼い少年が映る。
幼い少年。
ロドにもこんな頃があった。
魔物を食えば、魔物に寄る。
これを食ったらどうなのだろう。
ロドも、少年時代に帰れるのではないだろうか。
「お、おらぁ……」
ロドの意識と、ロドの中の別の本能とが重なり、涎を溢れさせながら黒い爪を少年に突き立てた。
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