第二幕 026話 傷つき、傷つけて_1



 山が、唸りを上げた。

 木々が揺れ、鳥たちが我先にと争うように飛び去り、地響きがクジャの壁を震わせた。


 町の外で農作業をしていた住民が、口々に不安を叫びながら町へと逃げ込む。

 平穏な時は破れ、恐怖と狂乱がクジャの町に溢れた。



 メメトハが気が付いたのとほぼ同時に、ニアミカルムの異変については長老の耳にも届く。

 真なる清廊の魔法が途絶えた。


 ニアミカルムの山頂付近には、常に上昇気流と雷雲が渦巻いている。

 冷たい氷雪と共に、それは生き物の行き来を阻害する結界の役割を持っていた。

 自然に発生しているものではない。

 氷巫女と呼ばれる清廊族の選ばれし者が、真白き清廊でそれを維持していたのだ。


 氷巫女パニケヤ。

 メメトハの祖母になる。


 年に二度ほど、他の長老がその役割を代行するが、力の不足から完全に維持することが出来ない。

 途切れぬように代行している間は、雷雲が弱まり晴れ間が覗くこともあった。


 だが、今はそうではない。

 パニケヤに何かがあったのだとすれば、傍仕えの誰かが連絡にくるはずだが。




 三日間。

 山から押し寄せた魔物がクジャを襲った。


 クジャを、というわけではない。

 堰を切ったように山から魔物が溢れ出し、その通り道にクジャがあっただけのこと。


 美しかった外壁は所々崩れ、また魔物の体液や臓腑、あるいは清廊族のそれらで赤黒く汚れていた。

 被害は建物だけではない。清廊族の死者も、少なくはない。



「アヴィ、交代です」

「まだ平気」


 アヴィの剣は根元から折れていた。

 それも、もう何本目なのか。


 戦い続けた。

 朝も、昼も、夜も。

 押し寄せる魔物を殺し続け、襲われる清廊族を助け続けて。


 ぐちゃぐちゃで、泥塗れだ。

 泥は、途中で雨が降ったからか。

 水を飲む暇もまともになかったから、その雨で喉を潤した。


「エシュメノが戻りました。ネネランたちもいますから任せましょう。夜にはまた増えるかもしれません」

「……わかった」


 柄だけになっていた剣を捨て、町の中に戻る。



 魔物の屍の山が、夏の熱気で死臭を放つ。

 既に慣れてしまった。


 ニアミカルムの山から下ってきた魔物は、最初はそこまで多くはなかった。

 時間が経つ事にその数を増やし、また見たことのないような種類の魔物も姿を現すようになる。

 二日目、三日目と。

 鼓動のように、その勢いを増したり弱めたりして、今はようやく大きな波を越えたところだ。


 満足に休息を取れていない。

 負傷して下がらせたエシュメノが手当を終えて戻った。今ならアヴィを休ませることが出来るだろう。

 ルゥナも、限界が近い。



 クジャの町の中は、血肉の臭いは絶えないものの、ひどい損壊は見えない。

 空を飛ぶような種類の魔物を優先的に魔法や弓で倒して、町の入り口はアヴィを中心に守り抜いた。

 メメトハとその従者たちも戦っていたし、長老たちも共に武器を取っていた。



「ルゥナ様、お怪我は?」


 紡紗廟の横の広場は、緊急の野営地のようになっている。

 炊き出しの粥を食べているルゥナ達を見つけて、トワが駆けてきた。


「私は平気です。アヴィの手を」

「はい」


 刃を失くした剣柄で、魔物を殴り殺していた。

 そのせいでアヴィの手の甲にいくらか傷が残っている。


「……」


 右手をトワに癒されながら、左手に持った椀の粥を啜るアヴィ。

 美しいアヴィの黒髪が、魔物の返り血などで乱れてしまっていた。

 頬や額にも、黒ずんだ煤のような汚れが付着している。


「少し、休みましょう」

「……うん」


 案外と素直に頷くアヴィの紅い瞳に、ルゥナの顔が映っていた。

 自分も、アヴィと似たようなものか。


 素直に頷いたのは、ルゥナに休息が必要だと思ったからなのだろう。

 アヴィが休まないのなら、ルゥナも休まない。

 お互いの瞳に映る姿に、どちらも同じことを思っただけ。



「ルゥナ様も、お怪我をされています」


 見つめ合っていたら、トワが間に挟まった。

 するりと、ルゥナの耳の下の辺りに顔を差し込み、舌を這わせる。


「ん、トワ……」


 くすぐったい。

 本当に傷などあったのか疑わしいけれど。


「……これで大丈夫、です」


 微笑を浮かべるトワの肌は、いつも通り綺麗だった。

 いつも以上に、艶を増しているようにさえ見える。



「……」


 アヴィの視線が、いつも以上に冷たい。気がする。


「トワ、離れて……下さい」

「嫌です、ルゥナ様」


 もう一度、甘えるように。

 こんな時に何を考えているのか。


「……」


 抱擁を交わしてから、トワが離れた。


「これで大丈夫、です」


 充足したというように弾む声音のトワをどうしたらいいのか。


「私も頑張ってきます、ね」

「……気を付けて」




 交代で休憩を取りながら、クジャを守り戦っている。トワとて疲れているだろうに。

 ウヤルカとネネランは、それぞれラッケルタとユキリンに跨り期待以上の働きをしてくれていた。

 目立つ彼女らの活躍が皆の支えになっているのは間違いない。


 山の魔物とて無限にいるわけではない。

 もう数日も耐えれば、ある程度の平静を取り戻せるのではないだろうか。



「……仲、良くなった」


 炊き出しの粥を食べて、壁を背に座り込んでしばらくしたところで、アヴィがぽつりと漏らす。


「トワのこと、ですか?」

「……」


 聞き返してみるが、アヴィは答えなかった。

 否定しないのだから、そうなのだろう。


「……アヴィが嫌なら、やめさせます」


 どうやって、か。

 考えていない。

 おそらくアヴィは、そうは言わないだろうと思って。



「別に……」


 そう言うだろうと。


「あの子も頑張っていますから」

「知ってる」


 話は終わりだというように、アヴィが目を閉じた。

 ちゃんと話をしたい。

 アヴィに隠し事をしたくない。

 そう思うのに、どうにもタイミングが悪い。


「……」


 これが片付いたら。

 今までもそんな風に後に引きのばして、話す時期を逸している。

 逃げていると言えなくもないけれど、今はそんな話をしている場合でもない。



 アヴィとルゥナだけで一時の休息。

 戦っている最中は無視できた疲れが一気に押し寄せてきて、眠ってしまった。

 それほど長い時間ではなくても、睡眠はルゥナとアヴィの体力を多少は回復させてくれる。


 周囲の喧騒も忘れて――




「リィラ!」


 大きな声に目が覚めた。



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